
「シチズンシップ教育」に対する違和感
私は「シチズンシップ教育」という言葉に違和感を覚える者の一人である。もっといえば、市民という言葉に対してもである。だが、まずは先を急がないで「シチズンシップ教育」の意味を確認しておこう。
『学校における,シチズンシップと民主主義教育のための教育:シチズンシップについての諮問委員会最終答申』(1998年9月)によれば、「シチズンシップ教育の目的」は「子どもたちが、参加型民主主義を理解・実践するために必要な知識・スキル・価値観を身につけ、行動的な市民となること」であり、「実践課題3つのキーワード」は、「コミュニティとの関わり」の育成、「社会的・倫理的責任」の育成、「ポリティカル・リテラシー」の育成なのだという。確かに上記のような「シチズンシップ教育の目的」に対して、とりたてて異議があるわけではないが、正直なところ、やはり違和感が残る。
その理由は第一に、それが欧州(特にイギリス)から直輸入されたものだということだ。戦後の日本の思想界が、欧州の思想の直輸入を盛んに行い、新しもの好きの「知的興奮」をもたらす思想として「消費」するだけで、われわれの生きる現実に根ざした「社会批判と創造」の武器になし得なかった、という陥穽を注意深く避ける必要があるだろう。
第二にそれが国家機関の側から「市民育成の必要性」というかたちで提示されたものだということである。
80年代以降、深刻な不況によって若年失業者が増加し、将来への展望を失った若者たちの暴力、社会的無関心が重大な問題となるなかで、「彼らに、社会的責任、法の遵守、地域やより広い社会と関わることの重要性を教えなくては、民主主義社会の将来はない、」との危機感が(国家機関の中で)広がったことが背景にあるようだ。
そのようないきさつもあって、「シチズンシップ教育」は若者に「社会的、倫理的責任」を持たせるための教育として理解されやすい。また事実、発想の出発点にそのような性格があったことは否定できないであろう。
さて、私が感じるもう一つの違和感(「市民」という言葉への違和感)であるが、ひと言でいえば、市民ということばには薄っぺらなイメージがつきまとう、ということだ。歴史的には、農村ではなく都市部に集まってきた市民階級(財産権などの人権、そして政治参加が認められた特権者)として登場してくるのが「市民」である。
確かに、市民革命によって明文化された「人権」概念や参政権は、当初はそこから排除されていた有色人種、先住民、女性、「障害者」などの権利保障に向けて苛烈な闘いが展開されることによって、実質的な厚みを増してきた。(すべての人間に存する権利へと拡大)
しかしながら、「市民」という言葉からはそのような歴史的な厚みを感じさせるイメージがあまり湧いてこない。私にとって「市民」というのは、かつての住民運動を担ってきた「地域を土台に生きている生活者」という意味合いや、個々人の持つ「具体的経験の厚み」が充分に感じられない言葉なのである。私自身がシチズンシップ教育よりも生活綴方教育(生活台を重視し、そこでの具体的経験を綴る)に惹かれる理由もそこにある。
以上のような違和感をぬぐえない私としては、「シチズンシップ教育は当然目指すべきもの」ということを大前提にしてこの外来語を多用することについては慎重であってほしい、というのが率直な思いである。