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静御前と鈴ケ神社

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1  序章

2  名前に秘めた想い

  藤原泰衡の偽首

4   藤原家のミイラ

5  ウィキベディア抜粋

目 次
直線上に配置














     源 義経 は 成吉思汗

1 序 章

欧州平泉は、今では県民の念願かなって世界遺産に指定され、日本から世界へと藤原氏三

代の夢が拡大しつつある。平成20年度以降の岩手県の小学校の教科書には、平泉のことがわ

かりやすく書かれている。

[平泉の発掘調査により、当時の中国からの輸入品が多数出土されている ]としている。

当時、北の王者藤原秀衡の外交の強さは日本一と言っても過言ではない。

であるなら、秀衡が、砂金と一緒に、義経主従を大陸に輸出した としても、なんらおかし

くはない。いや策士なら必ずやそうするに違いないと思いたい。

 

ジンギスカンが統治する以前のモンゴル大陸では、法律と言うものがなく、自分の物(物資・

妻・女)が無くなれば、誰かから奪う。そして奪い返す。という歴史であった。しかしジンギスカン

が統治以降、確固たる法律や文字が出来上がり、それは後に他の国々が模倣したほどである。

無学であるはずのジンギスカンが、本当はとても学があったというのは、果たしていかなる理

由があってのことか。

兄頼朝は歴史上まれにみる実に優秀な軍主であるが、ことさらに義弟義経を討伐しよう

とした行為を私は残念でならなかったが、義経がジンギスカンだとするなら、それは運命であ

ったろうと今では思う。




2 名前に秘めた想い

 
成吉思汗 の漢字から読み解く

     義経と吉野山で別れ別れになった後、頼朝にとらわれの身となったとき
    仕方なしに舞を披露したときの、義経を想って詠った唄への返歌だという説

    『 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 
               入りにし人の あとぞ 恋しき
              静や静 しずのおだまき 繰り返し
                   昔を今に なすよしもがな 』        
   

静は、吉野の雪山で泣く泣く別れた義経の事を、敵である頼朝の前で、堂々と舞い詠いきる。こ

の意気込みに対しての義経の返歌
だという。

  
    漢文で読む
                          成  
                            レ
                          吉
                            
                          思
                            レ
                          汗

       吉野の山での誓い成りて 静を思う  となる。


静は踊りの名手だが、踊りのときに着るこの着物を、水干(スイカン)という。

 サンズイ(水)干 → 静 となる。


第 2 ローマ字から読み取る

GEIN GIS KEIN  ジンギスカンと標記したがこれをモンゴルの人が読むと

ゲン ギ ケン」と発音する!モンゴルではEとSは無声音だからだ。

もともとはGEN(ゲン)  GI() KEI(ケイ) これに無声音のISNを入れると   

          ↓

      GEIN(ジン) GIS(ギス) KEIN(カン) = 成 吉 思 汗


 
3 藤原泰衡の偽首

泰衡は先に静を金売り吉次を案内人に仕立て、お供3名(山名家兄弟)をつけて、義経より先に

平泉から抜け出させている。

そして義経には、ゆく先々の宿泊場所を事細かに計画し、異母兄の国衡と弟忠衡を義経一行に

加えさせるなどして、義経北行に協力していた。平泉に残った主君泰衡は、義経の住まいで

あった平泉の高台にある屋敷を襲撃し、義経の首をとったかに見せかけた。

しかし、義経の首は、影武者である義経のいとこ、杉目太郎行信の首である。頼朝は検首にかけ

るまでもなく、その首が偽者であると見破り、使いのものを殺してしまっている。


その後頼朝は、戦いの神義経のいなくなった平泉に、自ら兵を率いて、藤原泰衡を討ちに出兵

している。泰衡は我が屋敷に火を放ち、命からがら部下の家に逃げ延びるが、その部下に背後

から襲われ命をなくした。というが・ ・ ・ ・果たしてそうか。

地元岩手県の義経研究家で歴史ドキュメンタリー作家の山崎純醒氏(義経夢の会代表世話人)箸

「今何故義経か・ついに明かされた義経北行伝説の真相」 では、泰衡は義経を裏切っていな

かったことを前提に、泰衡の偽首説の実証を試みている。


泰衡が部下の家に逃げ延びたとき、その部下とは河田次郎であるが、これが頼朝に主君泰衡

の首を出したということになっているが、泰衡の首は偽者だったという。義経と同じく身代わり

をたてたというのだ。

だが、これも頼朝はみやぶり、主君への裏切りの大罰であるとして、河田次郎も殺害されるに

至っている。

本来首を差し出す、という行為は真正なもので、その判断如何で褒美の差がでてくるのだ。で

きるだけ生前の顔の判別がつくように、綺麗に首を洗い、保存状態を保とうとする。首を差し出

そうとするからには、顔を傷つけるなどというのはご法度なのである。にも関わらず、頼朝に

差し出される首は、義経のは焼けただれ、腐敗し、泰衡のは、耳やら鼻やらそげ落とされ、顔

がメッタ切りだ。これは当時の優秀なお役人からしたら作為があるととらえてしかるべきなの

である。



泰衡は義経に害が及ばないよう自分の追っ手を食い止めるために河田次郎と結託し、自分の

偽首を用意すると、すかさず義経一行と青森で合流している。



4 藤原家のミイラ

昭和25年に、日本中が見守る中、平泉の藤原家三代のミイラと、頭首のミイラの学術調査が公

式に行われた。これにより、常識がくつがえった事案がある。

これまで四代目泰衡は、父秀衡の意向を無視して義経討伐をした、ようは藤原家にとっては反

逆者となる。なのでミイラ化されるはずがない。としてミイラの首は、泰衡が討ったといわれ

る弟の忠衡であろうと推論されていたのだ。

しかし調査の結果、頭蓋骨損傷跡の様子からして、泰衡が河田次郎に討たれた時にできた

ものであろう。よって、この頭首ミイラは、忠衡ではなく、泰衡であると状況判断されたのだ。

これはある意味義経北行伝説支持側が主張していた、[
義経北行忠衡同行説]に有利に働い

た。

しかし、
泰衡にいたっても実は生き延びて義経一行と青森で合流しているわけであり、

平泉のミイラの首は泰衡ではなく、(忠衡でもなく)身代わりとなった「誰か」なのではという

ことになる。

いづれは遺伝子調査などでこれがあきらかとなる日がくるのであろうか。更なる調査を期

待したい。



5 ウィキベディア抜粋

以下は小谷部全一郎による「成吉思汗=義経」説の提唱 と題してウィキベディア 義経=ジンギスカン説 の中の一部を抜粋したもの。

 無論この否定論も掲載されていたが、ここでは割愛させていただく。

 

  • 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られた義経の首は、事件を5月22日に報告し、6月13日に鎌倉の頼朝に届けられている。いくら中世とは言え、当時は早馬を飛ばせば平泉から鎌倉までは数日で使者は着くはずである。何故一ヶ月以上もかかったのか。故意に腐らせ偽物と判別できなくするためではないか。
  • 「吾妻鏡」で衣川事件から1年後(1190年5月)鎌倉に義経軍が攻めてくるという情報が流れ緊張が走った、という記録があるが、義経が死んでいるという確証があるならおそれる必要は無いのではないか。おそれているのは鎌倉幕府が先の衣川事件の首は実は偽物であり、義経が生きているのを知っていたという証拠ではないか。
  • 成吉思汗の少年時代の記録として「朽木の洞に隠れていて助かった」とあるが、兄頼朝の伝説と内容が重なる。
  • 「大日本史」などでは鎌倉に届けられた首は偽首としており、蝦夷へ逃亡したと記している。
  • 延宝年間の『可足記』に九郎判官の身代わりに杉目太郎行信が致し、行信の首が鎌倉に運ばれた、と記す。
  • モンゴル高原の中央部で生まれた成吉思汗は1190年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女直や高麗軍と戦った記録が残されている。なぜ、そんなところまで行って戦争しなければならないのか。これは義経が沿海州に上陸し、満州女直のワンスンと交戦したからではないのか。
  • 北海道と大陸の間に昔からアイヌの行き来があって、義経一行はしばらく北海道に滞在した後アイヌの水先案内人によって大陸に渡った可能性が十分に考えられるのではないか。
  • 成吉思汗が1206年にハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎判官を意味するものではないか。
  • 成吉思汗は紋章として笹竜胆を使用した。笹竜胆(源氏の紋章)を尊び、九の数を好むのは己の名の九郎に因んだからではないか。
  • 成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。
  • 別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。
  • 沿海州ナホトカとウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地があり、九郎判官が上陸した土地ではないか。
  • 成吉思汗が滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があるのは、義経ゆかりの「平泉」によるのではないか。
  • 蒙古では現在でも「オボー祭り」が8月15日に開かれているが、義経が幼年時代をすごした京都鞍馬山でも、この日、同じような祭りが見られる[7]
  • 成吉思汗はニルン族の貴族キャト氏族だが、「キャト」は「キョウト」「京都」出身をあらわしているのではないか。
  • 国名「元」は「源」に通じる[8]
  • 年齢もほぼ同じ。義経が衣川で討たれたのが30歳で、その数年後ジンギスカンが表舞台に登場するようになった時期の年齢が30代半ばであるなら、辻褄が合うのではないか。
  • ジンギスカンの前半生には空白部分が多い。
  • 両者とも背は高くなかった。酒も全然飲めなかった。
  • 戦術も同じ、戦い方もそっくりであった。
  • モンゴル文字にかなりの平仮名からヒントを得たとしか考えられない文字が存在する。
  • 蒙古の地名や現地言語に日本内地、蝦夷との類似性がみられる(チタ、スルガなど)。蒙古には「源」の苗字が多い。
  • ラマ教の寺院に伝わるジンギスカンの肖像はどこか日本人的な顔立ちをしている。