静御前 北行記


静の足取り

福島県の郡山市には 静にまつわる伝説が数多くあり さらに 宮城県に

は 静が使用したという「静の椀」が現存する

逃亡中の源義経と 平泉で落ち合った静は 金売り吉次(橘次郎末春)の手

配により 山名家の三兄弟と 出羽の国
(山形)から 秋田に入り それか

ら岩手県の大迫町に出ると 「静の祠」として伝説を残した 

また 近くの 「素足の森」 という森は 裸足で静が逃げてきたという場

所である


それから 霊峰早池峰山を超え 宮古市小国平野から ここ鈴久名の地に

やっと辿りついたのだ


静の最後

鎌倉の都で 初めて義経と出会ってから 幾多の苦難を乗り越え つかの

間の安らぎを 義経と鈴久名の地で味わう静

 しかし 悲運と一言で言うにはあまりにも悲しすぎる

安住の地であったはずの 鈴久名の 真新しくも小さなお屋敷で 難産の

末 最愛の義経の 二人目の男児とともに 短い生涯を閉じてしまった

 鈴久名の人々は 静の亡骸を密かに火葬し 手厚く葬ってさしあげた                               
 
 しかし 鈴久名の人々は その後も静を慕い賢き人と敬いやまず 神 

として崇めるようになった 神としての静を 永遠の固い絆で結ばせた神

社の名は鈴ヶ神社 あるいは、鈴ヶ御前様と 地元では云う


 

 




   参考リンク先


    鈴ヶ神社

 

    参考ページ


   年  表

1186/7/29 源頼朝のとらわれの身となっていた静。
義経との子供を出産するも、男児であったため、頼朝の命により、産後すぐ
の赤子を奪われ殺された、とされている。

しかしこの男児は密かに岩手県宮古市田鎖で、佐々木四郎高綱の養子とし
て大事に育てられている。

 これに関して、佐々木家親類に取材した内容は以下のとおりである。
 静は、義経の子を産み落としたが、運悪く男児であったため、頼朝の命に
より、その家臣である安達清常が、その子供を始末することになった。

 静から奪った男児を、由比ヶ浜に流すのであるが、安達清常は、あらかじ
め潮の流れの先に、家来を潜めさせていた。

潮の流れのとおりに、流れてきた男児を無事に家来が救い上げたのだった。そして家来は、男児を奥州藤原秀衡の下に送り届けるのである。(政子の命であったとも言われている)

 だが、秀衡は言う。「我が代も、頼朝の目があり、先行きが不透明である
なか、息子らはなおもって、頼りがいがない。

平泉に男児を置くにはあまりに不安である。よって、(現在の)宮古市の、佐々
木家なる頼りがいのある臣下を紹介するゆえ、その家に義経と静の愛子(めご)
を預けるがよい」

 そうして、平泉から宮古市にある、佐々木四郎高綱の養子となり、大切に
育てられたのである。名前を佐々木四郎義高といい、後に宮古の民の乱を
治め、統治した人物である。

82才の生涯を終えたとされるが、逆算すると、
静の第1子を産み落とした年と合致するのだそう。

義高の育ってきた宮古市の田鎖地区という土地は、これ以降「大変頭のよ
い人間が生まれる」とも伝えられている。

 また義経、あるいは義高の名前にあやかって、周辺集落では、長兄の名
前に、「義」の文字を付ける風習が現在も続いている。  
この佐々木家の家紋は丸に、四つの穴の開いたひし形で、四つ目菱(目
結(めゆい)である。これは近江源氏佐々木家一族の代表といえる家紋で
ある。

近江源氏佐々木一族は、保元の乱で、源氏に見方して勝利を収めたが、
後の平治の乱で破れ、近江を後にしたのであるが、その末裔が宮
古市の佐々木四郎家ではなかろうか。
1186/9/16 母磯野禅師とともに、無罪放免となる。
しばらくは、行方しれずの義経を探しまわったとされる。
1187/3/ 義経、平泉の地に入る。
1187/ 義経は、静を平泉に招き寄せる。
使い(案内人)は金売り吉次であった。
その後静は義経の二人目の子を身ごもる。
☆静は名をスズカと代え、岩手にくるまでの土地土地で、身分を明かした
ものには、自分が死んだことにしてくれるよう頼んだ。後に、静の辿った
道道に、お墓があるのは、このことが由縁であると推測する。
1187/10/29 藤原秀衡没す。
1188/月頃 義経主従平泉を脱す。
太平洋側を北上する。
静は、金売り吉次の案内により、三人のお供を連れて、安全のため、義経一行
とは別に、秋田県を通って、岩手に入り大迫・遠野・旧川井村のコースを通り、
鈴久名にたどり着く。

この時、静は義経の子を、お腹に宿しながらの旅であった。

犬を1頭連れて、旅をしてきた。

三人のお供とは、山名家三兄弟のことで、山伏であった。
1188/
〜1191/
義経主従、宮古市の黒森山にしばらく潜伏する。記録には3年3ヶ月とある。
黒森山と、鈴久名の隣地区の、箱石の山名家との間を行き来していた期間でも
ある。
1188/下旬〜 義経は、箱石地区の山名家(静のお供をしてきた3兄弟)に滞在しながら、鈴久
名の静のお屋敷を時々訪れていた。
また、二人の第一子である、田鎖の佐々木義高にも二人は会ったとされる。
1189/中旬〜 静、鈴久名にたどり着く。現在の鈴ヶ神社のふもとの小さな広場に、屋敷を建て
て、時々義経と会っていたとされる。
静は、金売り吉次の案内により、三人のお供を連れて、安全のため、義経一行
とは別に、秋田県を通って、岩手に入り大迫・遠野・旧川井村のコースを通り、
鈴久名にたどり着く。

この時、静は義経の子を、お腹に宿しながらの旅であった。

犬を1頭連れて、旅をしてきた。

三人のお供とは、山名家三兄弟のことで、山伏であった。
1188/
〜1191/
義経主従、宮古市の黒森山にしばらく潜伏する。記録には3年3ヶ月とある。
黒森山と、鈴久名の隣地区の、箱石の山名家との間を行き来していた期間でも
ある。
1188/下旬〜 義経は、箱石地区の山名家(静のお供をしてきた3兄弟)に滞在しながら、鈴久
名の静のお屋敷を時々訪れていた。
また、二人の第一子である、田鎖の佐々木義高にも二人は会ったとされる。
1189/中旬〜 静、鈴久名にたどり着く。現在の鈴ヶ神社のふもとの小さな広場に、屋敷を建て
て、時々義経と会っていたとされる。
1190前後 静、二人目の子供を宿していたが、難産であったため、母子ともに命を落とす。
 子供は男子であった。
地元の火葬場である赤坂山の上で、火葬をした。
静と子供のお骨は、おそらくは金売り吉次に託し、静のふるさとで、密かに埋葬されたのではないかと言われている。
地元の人は、静の死を悲しみ、賢く尊い御方と慕い、あがめ奉った。

それが、現在の鈴ヶ神社の始まりである。
1191/4 義経主従は、仮の滞在場所である箱石の山名家から出立する。

義経は、自ら彫った木彫りの像数体と、毘沙門天像を、山名家に残した。

遠く北海道を目指していた義経は、旅の祈願をしてほしいと言って、残してい
ったもの。

山名家では、義経の置いていった毘沙門天像を自宅で今でも大切に保存され
ている。

義経の木彫りの像数体は、義経ゆかりの神社である判官神社内に置かれて
いる。




目  次
   静御前 北行記

第 1 章 レクイエム

1  別当の子に生まれて

第 4 章 神社再建のきっかけ

 

1 来訪者
2 I・M氏について
3 前世は義経か
4 夢の中の静
5 鈴ヶ神社 再建叶う
6 静御前供養塔 平成11年完成

 

第 2 章 これまでの鈴久名

1  鈴久名と周辺の歴史
2  非業の八助とミノ

 

第 3 章 静御前 伝

 亡中の吉野山での義経と静
 静の手鏡
3  静の子 密かに育てられる
4  「宮古市」の名称の由来
5  案内人 金売り吉次
6  平泉への旅
7  平泉から鈴久名への旅
8   吉次が静をかくまう相談をもちかける
9  義経平泉を脱す
10  義経ゆかりの山名家と箱石判官神社
11  鈴久名の仏像
12  静 平泉からの脱出
13  大迫の静御前
14  静の容姿と金売り吉次の伝承
15  「七つ舞い」静より伝えられる
16  箱石こきりこ節の作者は静か
17  第2子を身ごもっていた静
18  鈴久名地区名の由来
19  神社別当 オオハスバから橋本家へ
20 名称 鈴ヶ神社
21  血判書









第 5 章 祝賀会パンフット

及び関係者へ

1 神社再建完成祝賀会 パンフレット
2 神社再建事業関係者によせて
3 静御前によせて

 

第 1 章 レクイエム

 

1  別当の子に生まれて

 

明日が元旦だという大晦日の日、日が暗くならないうちに父親は納屋で、藁の束を叩き、そ

れを編んでしめ縄を作っていた。母親はお菓子の袋とだんご、それにお神酒用のお酒とコップ

を、私と4歳下の幼稚園の弟に預けた。しばらくして、外から父親の「「よし、行くぞ」という声が

した。すぐさま私は弟と玄関に向かい、冬用の長靴を履いた。

外はもう雪景色一色に染まる東北は岩手の片田舎。ここは鈴久名部落。周囲は低い山々が

迫るように、白銀に色を変えたたずんでいた。小学生にもなった私は、時々母親の言いつけを

無視したり、めんどうくさいと理由をつけたりしては断るのだが、この大晦日の私と弟に課せ

られた仕事だけは、飄々(ひょうひょう)と仕事をこなすのであった。

家の裏山は大聖山(だいしょうやま)といって、鈴久名地域のど真ん中

に位置し、低く長く尾を引いている。この山には八幡様や山ノ神祠、稲荷神社などが寄り集ま

っていて、正に聖なる山なのだ。それから一キロくらい離れたところに、私たちが向かう鈴ヶ神

社がポツリとある。自宅から鈴久名の川沿いを5分も歩けばやすやすと神社の山すそにたどり

着く。だが幼い弟は歩き始めるとすぐに荷物を重たそうにし始め、結局父親が代わりにその荷

物を譲り受けるのだった。

神社の山すそにたどり着くと今度は、急激な登り坂をよじ登らなくてはならない。頂上付近

になると岩肌に手をかけ、松の根本に足をかけては登るのだが、要領が悪いと足元は当然雪

だから、どこまでも滑っていってしまいそうになる。そんな登山コースであるが、私たちのよう

な幼い子供でも、恐怖と感じず当時は登っていたのだった。だが、今では安全な道ができたか

ら、岩山を這うように登ることもなくなった。

岩肌から怏々(おうおう)と延びる松たちの間を抜けて、よじ登ること5分。頂

上といえど、高さ10メートルほどの小高い岩山。その頂上の広さは、10畳ほどであろうか。そし

て古めかしい小さな神社が一つ、3畳ほどをやっとのこと占領している。

「ここは、義経のカガ(妻)を祀っているんだ。」

毎年ここに来るたび親父は、わが子にそう言いながら、大きな鈴をならし、それから天まで

届きますようにと言わんばかりに両手を叩く。神社の名前は【鈴ヶ神社】

岩手県は旧川井村(宮古市鈴久名)に名も知れず佇む神社のご神体は、あの有名な源義経

の愛妻静御前である。

 

昭和から現在に至るまで別当は、私の父親である橋本貢が担っている。その妻であり、私の

母親はクニ子という。クニ子は、静に関わる霊的な影響を一番にうけた神社関係者であろう。

私はこの二人の子として昭和43年に生まれた。ちなみに祖母は明治43年生まれと憶えや

すい。祖母は92歳で大往生してこの世を去った。私はお祖母さん子で、物心ついたころからよ

く静の話を聞かされていたが、正直ピンとこなかったものだ。だが小学5年生頃だろう。学校

で教科書にその夫、義経の名前がでてきたではないか。何気に心弾んで、その年の夏、友人と

一緒に自由研究の題材に、義経北行伝説を発表した。伝説を拾い集めた先は、まずは私の両親

それに鈴久名の年寄り。そして、「静かなる村 鈴久名の村」と詠った、川井村の郷土史編集者

で、学校長でもあった西野定治の話を辿りながらの記録が始まったといっていい。

 

第 2 章  これまでの鈴久名

1 鈴久名と周辺の歴史 

 奥州の初代藤原清衡は、戦により非業をとげた魂の鎮魂のため、さらには統治する国の平安

のため、永遠の極楽浄

土を平泉に具現しはじめることとなる。まずは中尊寺を建設し始めるのが西暦11世紀ころから

だ。そしてマルコ・ポーロに『黄金の国ジパング』と言わしめた金色堂を建立するにあたり、莫大

な金を必要とした。そこで当時の南部藩は、各地区に配置してあるお役人に、それぞれの管轄

内の金山から手当り次第金をかき集めさせ、それを全て平泉に納める重役を課していた。

ここ鈴久名周辺地域も例外ではない。現在の旧川井村にある鈴久名発電所から、閉伊川を

挟み、幅一メートルほどの吊橋を渡ると、目の前に立ちはだかる剣山から急降下してくる沢が

ある。この沢を頂く、先に述べた剣山こと「金山(かねやま)」と、地元の人は称

する。さらに、小国地区から大槌町に超える山は「金沢(かねざわ)」。鈴久名地

区に隣接する横沢地区には、「(かんね)井沢(いざわ)」という

名の土地がある。その名のとおり、砂金を採取していた主だった場所である。

3代目藤原秀衡の代には、家臣橘次郎末春が、主要拠点として金井沢に屋敷を建ててい

る.

この者こそ世に知られた商人金売り吉次である。また源義経の家来としては堀弥太郎景光と

いう武士の名前が記録に残る。

吉次の移動姿は、起伏の激しい道をいとも簡単に、跳ねるように進むと地元では表現されて

いる。今でこそ盛岡市まで国道が整備され、いくつものトンネルのおかげで、車で1時間とちょっ

とでたどり着く。だが当時は盛岡までの道のりは険しく迂回に迂回を重ねる山道にほかならな

い。だが、吉次は大変足の速い人で、鈴久名地区から盛岡市まで往復したというから、想像以

上の豪傑ぶりである。

話は戻る。吉次の本拠地である金井沢のある横沢地区は、山の谷間のあちらこちらに源泉が

あふれ、おのおのの沢から多かれ少なかれ砂金がとれていた。ことに
金井沢の沢から採れる

砂金の量は群を抜いていた。吉次は砂金採り人夫を専門に雇い、自分の屋敷(本拠地)に寝泊り

させては仕事に従事させていた。今や世界遺産となった岩手県が誇る平泉であるが、ここの

資料館には旧川井村小国の民家に残っていた砂金掘りの道具が納められている。

さらに吉次がここを重要拠点とした理由に、当時の榊原街道を旅する際の宿泊先に都合の

いい土地柄でもあったということだろう。榊原街道とは今で言う国道106号線とも言える岩手

の三陸沿岸方面から内陸の盛岡方面とをつなぐ道路である。当時は山林の中を延々と歩く旅

であった。宮古市市内から一日かけてやっとたどり着く場所が、鈴久名である。それ以上進もう

とすると、夜になり山林の中で狼に襲われる危険がともなっていたので、旅人は何がなんでも

鈴久名近辺に一泊しなくてはない。なので先見の目があった当時の鈴久名のご婦人方が、こ

ぞって民宿を経営し始め、旅人によって大変繁盛した集落なのである。

榊原街道の鈴久名の降り口は、鈴久名の真ん中に位置する山、大聖山(だいしょうや
)
で、

この降り口の左脇には、山本家(屋号:上)の所有する土地がある。現在は空き地になっている

が、当時はここに民宿を設営していて、馬も泊められるところとして、旅人に重宝がられてい

た。そこから左に数メートルいくと、右手に酒屋(屋号:酒屋)があって、旅人や周辺地域住民相

手に商売していた。こうして鈴久名ではサービス業がメインとなり、儲けたお金で、横沢の人た

ちの農作業でとれた米や野菜を買うという持ちつ持たれつの当時の生活は、今で言う産直産

業の先駆ともいえよう。

小都市として盛んな時代もあった鈴久名であったのだが、後に鞭牛和尚(1710〜1782年)が

歴史に現れると徐々にすたれていった場所ともいえる。鞭牛和尚は、当時の旅人やその荷馬

が、沿岸コースの断崖絶壁の危険な道路から滑落し、命を落とすのをみておられず、時に孤独

ななかで、道路を広げる作業に27年の歳月を費やし偉業を成し遂げている。浜街道・釜石街道・

和井内街道とそれに閉伊街道である盛岡と宮古を結ぶ道路を切り開いている。これによって

峰伝いに辿る榊原街道は消滅していった。

 鞭牛和尚が没後、金山からとれる金や砂金も採り尽くし、サービス業も成り立たなくなって

いた鈴久名では、時代の生き残りをかけて周辺を開墾し始めていった。その先駆けが植沢家と

中里家の子孫、とそれに八助という実に実直で利口なアイヌの者がいて、鈴久名の整備に一

役かっていた。しかし突然の不幸が訪れる。
 

2 非業の八助とミノ

 [ 鈴久名と()()(木のくず)はよく燃える ]

旧川井村【現在は宮古市と合併】の人々にこのように揶揄(やゆ)されるほどに、300年間のあ

いだに、鈴久名の土地では多くの火災の被害にあってきた。神社別当の橋本家では、100年の

うち火事で3度家を失っている。川井村の郷土史にも載るほど、昭和の川井村の者には、この皮

肉なことわざが一般的な言葉にまでなっている史実である。
 

これから話すのは、悲しいかな実際に起こった大いなる悲劇であるが、悔恨と祈りを込めて

鈴久名の歴史の一端を記させていただこうと思う。

今から300年ほどの昔、八助という男親があった。東北の田舎の者にしては、たいそう利口な

人物で、鈴久名の未開の土地を開拓していった功労者で、アイヌ人でもあった。そしてこの者に

はミノという娘がいた。実はミノは知能遅れの子供であった。それだけに八助はミノを大変可

愛がって育てていた。

ミノが18歳になったころのこと。近所の奥様が、当地を管轄していた南部藩のお役人に、ミ

ノの苦情を申し出たのだ。

「ミノは知能遅れで、うちの鍋の中に手を入れたり、畑の野菜を勝手に取ったりして困り果てて

いる。」(実際は他人に迷惑をかけるほどのことをしていなかったようだ)

地区の奥様に、そう申し出されたお侍は、大好きなお酒を呑んで酔っ払っていたようだ。酒の

勢いがそうさせたのだろうか、非道な命令をしてしまう。

「そんな奴は、地区のみんなで槍でもって殺してしまえ。全員がそうするのだぞ。もし加担しな

い奴が居たら、お仕置きがある」

そのように命令された近所の奥様は、そのまんま地区のみんなに告げてしまった。お役人の命

令は絶対であった当時、地区の者のほとんどが、槍を持ち出し、ミノの家に向かった。

自分が襲われることを察したミノは恐怖のまま、お隣の家の軒下に入って、隠れていたが、そ

の家の者に気づかれてしまう。結局ミノは鈴久名川の川らまで追い込まれた末、地区の者たち

の手によって、槍でもって命を落としてしまったのだった。

これに加担しなかった家が3軒あったのだが、後にお侍に大好きなお酒とお金を差し出してお

許しをこうている。

この騒ぎを止めようとしたのはもちろん父親の八助であったが、鈴ヶ神社別当祖先のオオハス

パの者が、「今お前が出て行けば、お前まで殺されてしまう」そういって、八助を逃がすため、

榊原街道の入道を上り、大聖山の頂きまで連れて行った。

ふもとの騒ぎを密かに見ているほか無かった八助は大聖山の上から、自分の娘が殺されるの

を見届けると、


「この恨み、はらさでなるものか。7代まで祟ってやる」

そういい残して、この地を去って行った。

それからだ。ミノが亡くなっての300年間の間に、鈴久名の地区では、何度となく大火事の被

害をこうむっている。山一つ超えた箱石地区からでも、鈴久名の大火事によって、空が赤くなる

のを確認できたという。不思議なことに、出火元は必ずミノの死に深く関わった家であるとも

言われていた。

度重なる大火事に、異常さを感じた地区のものは、これは八助とミノの祟りではないか。と思

い、それからは二人を荒神様として、鈴久名の現在の集会所(元オオハスパの土地)のあたりに

大きな石の塔を建てて、鎮魂の祈りを捧げるようになった。塔を建てた当初、イタコの口からミ

ノの意志が伝えられたという。ミノは「仏になりたい」そう言ったのだそうだ。それ以降ぱった

りと火事がなくなって今に至る。

この荒神塔は、鈴久名川の氾濫があって以降、平地から今は鈴ヶ神社の山すその、少しばかり

上がった昔の上り口に、鈴ヶ神社に見守られるかのごとくに安置されている。その脇には、南無

阿弥陀仏の文字を刻むさらに大きな石が置かれている。脇を流れる閉伊川にかかる大橋のコ

ンクリート工事の際、誤って落ちて亡くなった新屋家のご先祖の供養塔である。工事中の人身

事故ということで、その後の工事完成祈願に供養塔を建てたのであろう。さらに昔の、神聖な

る山に当時女禁制であった当時、同じく新屋家先祖でイタコが一人いた。イタコは「自分は神仏

に親しい間柄なので、女人禁制の山だとて平気なはずだ」といって、盲導犬がわりの自分の犬

と一緒に、神社の山に登り始めた。しばらくして、大きな突風がおきて、この風にあおられてイ

タコと犬が崖から足を滑らせ、当時あったとされる沼に落ちて命を落としてしまった。これらの

化身だという石は、さらに上の中腹くらいの場所に鎮座している。

これらの供養塔は、昭和のはじめまでは、地区の婦人会では、節句になると欠かさずお参り

している習慣であったが、近年は山の持ち主である橋本家だけが、節句はもちろんのこと毎年

供養を欠かさないでいる。

ちなみに、地区の住民に、非道な指令を下した侍はこれから数年後、川井の明神神社付近で何

者かに暗殺されている。襲われたとき木刀で対応したが、数センチずつ切り刻まれ、格闘のす

さまじさを後世に残している。

平成にもなって、徐々に忘れ去られ、今の若い夫婦が子供に伝えることもなくなりつつある

史実である。

罪を犯した人間は、悔やみ反省するほかない。そして 

犠牲になった魂は、他人の過ちをいつかは許し、それ

によって初めて自らの魂が救われるのではないだろ

うか。八助とミノが、未来永劫心穏やかであらんこと

を心から願うばかりである。


 


第 3 章  静御前 伝

1 逃亡中の吉野山での義経と静

1186年冬 静は義経一行と冬の雪山、吉野山にいた。女の身でしかも身重(妊娠)の体であっ

た。子の父は源義経。

義経は義兄頼朝から嫌われ、逃亡中の身であった。静はなんとしても義経と行動を共にしたか

ったが、雪山を進むには困難を極め、一行にとって女性は足手まといであった。加えて、女人禁

制の山にさしかかり、義経は仕方なし、家来の意見に従い、静を京に帰す決断をする。別れ際、

義経は自分が愛用していた鏡を自分の懐から出すと、それを静に託すのだ。

義経  「どうか、京に帰って時がくるまで待ってくれ。私は生きて

     必ず大きなことを成し遂げるつもりだ。この鏡を私だと思


     って肌身離さず大事にもっていてくれ」

静   「見るとても うれしくもなし 増鏡 恋しき人の 影をと

     めねば」

恋しいあなたの顔が映らないなら、鏡をみてもうれしくありません。と静は辛い女心を伝える

だけしかできなかった。

義経は数人の護衛を静につけ、手鏡のほかにも数点の高価なものを静にくれてやった。静は義

経と別れ、泣く泣く下山するのだが、共のものに、荷物を全部持って行かれ、残るは自分の体一

つと、懐にしまっていた鏡のみであった。

途方にくれる静は結局、頼朝の手のものにつかまり、鎌倉へ護送されることとなる。

 

2 静の手鏡

実は鈴ヶ神社に明治時代まで奉納されていたものに、静が生前大切に使っていたという手

鏡がある。もしや、この手鏡が、冬の吉野山で義経との涙の別れの際に、義経から自分だと想

って肌身離さず大事にするようにと手渡され、泣く泣く自分の懐にしまわれた、あの手鏡なの

であろうか。

この手鏡は銅版でできており、それを綺麗に磨いて光らせた細工であった。残念なことに、

この手鏡は神社で一夜を過ごしたホイドウ(浮浪者)に持っていかれてしまった。

 

3 静の子 密かに育てられる

鎌倉でとらわれの身となっていた静は、頼朝のお膝元で義経との子供を出産する。生まれた

子が男児だったため、頼朝は生を許さず、由比ヶ浜に捨てさせた。

というのが歴史上の常識となっている。

しかしこの男児は密かに岩手県宮古市田鎖で、佐々木四郎高綱の養子として大切に育てら

れ、長寿をまっとうしていたのだ。


 静の生まれたばかりの男児を奪った頼朝の家臣安達清常は、由比ヶ浜に流すのであるが、安

達清常は、あらかじめ潮の流れの先に、家来を潜めさせていた。潮の流れのとおりに、流れてき

た男児を無事に家来が救い上げたのだった。そして家来は、男児を奥州は藤原秀衡の下に送り

届けるのである。(政子の命であったとも言われている)

 だが、秀衡は言う。「我が代も、頼朝の目があり、先行きが不透明であるなか、息子らはなお

もって、頼りがいがない。平泉に男児を置くにはあまりに不安である。よって、(現在の)宮古市

の、佐々木家なる頼りがいのある臣下を紹介するゆえ、その家に義経と静の愛子(めご)を預

けるがよい」

 こうして、男児は佐々木四郎高綱の養子となって、安住の地であった宮古市田鎖地区で大切

に育てられたのである。男児は名前を佐々木四郎義高といい、後に宮古の民の乱を治め宮古を

含む閉伊郡を統治する人物となる。82才の生涯を終えたとされるが、逆算すると、静の第1子

を産み落とした年と合致する。
(多久佐里系図・閉伊郡郷土史豪族系譜現存)

義高の育ってきた宮古市の田鎖地区という土地は、これ以降「大変頭のよい人間が生まれ

る」として現代に伝えられている。


 また義経、あるいは義高の名前にあやかって、周辺集落では、家の長兄の名前には、「義」の1

文字を付ける風習が現在も続いている。

以上が佐々木家親類からの聞き取りである。

 

この佐々木家の家紋は丸に、四つの穴の開いたひし形で、四つ目菱(目結(めゆい)である。

これは近江源氏佐々木氏一族の代表といえる家紋である。近江源氏佐々木氏一族は、保元の

乱で、源氏に見方して勝利を収めたが、後の平治の乱で破れ、近江を後にした。

一度は表舞台から遠のいたかに見えた佐々木氏一族であったが、源頼朝が兵をあげたとき

一緒に戦い、武勇を誇ったのが佐々木四郎高綱であった。後の木曾義仲追討の際には、あの義

経の陣に交じり、みごと戦いを制している。

 

そこで思うに、北条政子は始めから、静の生んだ男児を、佐々木四郎高綱の元に預けるよう

手はずをうっていたのではなかろうか。高綱は北条家しか役目をもたないはずの長門の守護(

山口県西部)を任ぜられているとおり、政子寄りであったことは間違いない。なおかつ戦にお

いて武勇伝は多々あるものの、頼朝からはそれに見合った褒美をうけていない。が、しかし同じ

戦乱を共に戦い抜いた義経との間には、頼朝以上の武士としての感情がわいていたに違いな

い。もともと情に厚い高綱であるから、政子が言うまでもなく喜んで、義経と静の子を引き受け

たに違いないと思いたい。

さらには鎌倉で静が子供を生むであろうとの情報は、間者でもある金売り吉次が知らぬは

ずがない。とするなら、義経や藤原秀衡が承知していた事象であったはず。ならば吉次みずか

ら義経の手となり足となり、男児をすくう手立てを講じ、政子と佐々木四郎高綱との間をとり

もち、吉次が男児を鎌倉から岩手の田鎖にまで運んだ可能性もある。赤子と乳母を護衛しなが

ら確実に旅をまっとうさせることのできるのは、吉次一行が適任であったはず。とりもなおさ

ず藤原秀衡の許しがあって初めて高綱の養子として、田鎖で育てられるというものだ。

 

4 「宮古市」の名称の由来

 義経北行伝説に一生を捧げた、佐々木勝三先生の著書「義経北行の伝説」(発行者鈴木文男・

発行元あづま書房)にはこうある。

 [1199年 公卿烏丸殿 横山八幡宮(宮古)に来たり、義経写経の般若経を視る。社家重三郎

(鈴木重家)上洛して義経の讒(意味:冤罪をこうむっている)を訴える。「宮古」の二文字を給わ

る。]

とある。 

高綱の養子となった佐々木四郎義高は、のちに朝廷から確かに義経の子であると認められ、

閉伊郡を統治することを許されている。当時の東北地方は、鎌倉、京都人から、蝦夷地(えぞち・

えみし)といわれ、俘囚人などが暮す土地であるとされ、敬遠されていた未開の土地の印象が

強くあった。しかし鈴木重家のはからいのおかげで、都ならぬ「宮古」の名称を、朝廷から戴い

たということは、実に希なことであると同時に、誉れでともなったのだ。

さらに言わせてもらえれば、平泉の高館で、義経ともども死んでいたはずの鈴木重家が、横

山八幡宮の別当として、生きて都落ちしたのだから、「宮古」の呼称は、義経主従が平泉を脱出

して北を目指した。とする後世の人々に向けたメッセージでもあろう。

朝廷側がこうまでして、義経に肩入れしてくれたのには、義経追討の宣しは、源頼朝の強引

さに根負けしたからであり、後白河法皇自身は義経が大のお気に入りであったのだ。その証拠

に、後白河法皇は、ご自分と磯野禅師の間に生まれたと噂されていた静御前を、義経の側室に

と紹介し、めとらせているのである。また、静の舞を「日本一」と褒め称えたのも、後白河法皇

なのだ。それが全国に広がり、静は東西随一の踊り手(アイドル)として飛躍を遂げ人気を博す

ことになる。

 

5 案内人 金売り吉次

生まれたばかりの男児を取り上げられた静は母磯野禅師とともに、1186年9月に無罪放免と

なった。この頃義経はすでに奥州平泉の藤原秀衡加護をうけていた。しかし、心ここにあらず、

鎌倉にとらわれている静のことが心配でならない。そこで義経は秀衡に許しをこいて、秀衡の

家臣、金売り吉次と相談することとなった。吉次は一番初めに平泉を義経に紹介し、連れてきて

くれた人物で、武士の名を
橘次郎末春というが、世に知られたあだ名が名刺代わりとなってい

た。行商の傍ら、スパイ活動(間者)をしていたというのが本当の姿なのかもしれない。

平泉の藤原秀衡は採れた砂金を幕府や朝廷に献上し、または賄賂として受け渡す重要な役

目を吉次に担わせていた。藤原家一族が、財力を駆使してまで望んできたものは、北の大地と

そして平泉の永遠の平安であったのだ。

 

吉次はしばらくして、無罪放免となった静のもとを訪れた。吉次は義経の居場所を教えると、

静親子に密かに旅支度をさせた。静は地元の人間に、「自分は死んだことにしてほしい」そうい

い残し、どこへ行くとも言わず突如として、歴史上から姿を消すことになる。

 

6 平泉への旅

 静は金売り吉次の案内のもと、一度岩手県の平泉にいる義経のもとに向かう。その際静は

「自分は死んだことにして旅をしてきた」

のだという。そう、もし静の旅が頼朝に知れたら、それは義経の居場所も知られることになる

からだ。

 静は逃亡中「いたこ」姿に身をくるみ、そして金売り吉次をはじめとする従者達は、六部姿と

いう真っ白な装束に身を包んだ巡礼の姿になって旅をしてきた。名前は旅の間偽名を使い「鈴

鹿」と称してきた。生まれた里の近くに鈴鹿山(三重県)という名があるが、故郷を思い出す名

であったことだろう。そして、懐には手鏡と、それにもしもの際、自分の身を守るためにと短剣

をひそめさせ、常に緊張を強いられる旅であった。

 

7 平泉から鈴久名への旅

 一度は平泉の義経と合流するが、しばらくしてまた出立することとなる。このときの道案内

は、もちろん金売り吉次。そして山名家3兄弟が静のお供をしてきた。一行は一路岩手の内陸の

秘境こと静の終焉の地、鈴久名の村へ一路目指す。

 

予断だが現在横沢には、「(せい)(ほう)(えん)」といって、静の名をつけた

冷泉がある。ここは昔傷ついた兵士が傷を癒すための湯池場所として有名であった。旅人もも

ちろん利用したに違いないだろう。霊峰早池峰山に並行する山の脇からあふれ出す冷たい泉

を沸かして入るお風呂は、皮膚疾患や手術後の療養や、特に疲労回復に効果絶大とも言われ

ており、清水ならぬ静水として住民に重宝がられている。先般の2011年3月11日の大地震では、

大きな津波被害をうけた宮古市の市民らを受け入れ、支援してくれた。太古から変わらぬ大自

然の恵みをとおして、宮古市の方たちの心と体をケアできてことは大変幸いであった。昔宮古

人によって賑わい、恩恵をうけていた地元が、時代を経て宮古人に少しでも恩返しができたの

かもと思いたい。

 

8 吉次が静をかくまう相談をもちかける

吉次はある日、主だった住民たちを集め、意を決して、重大な話をもちかけた。これは上司で

ある吉次からの通達ともいえよう。

 

「今平泉の地には、鎌倉の頼朝の目をぬすみ、義経一行と、それに、静御前がかくまわれてい

る。藤原家は何としてもこのもの者たちを、命を掛けて守り抜くつもりでいる。だが、いつまで

ごまかせるか分からない。しかも現在静御前様は身重の体でいらっしゃる。私は仕事柄、横沢の

屋敷に常にいるとは限らない。どうか私の代わりに静御前様の面倒をみてはくれまいか。」

 

地域のものたちにとって、当時のお上は、鎌倉に居る頼朝でも朝廷でもなかった。今目の前

に居る吉次とそのバックには奥州平泉の藤原氏であった。誰しもが今ある平安で安定した生活

が誰のおかげであるかは容易に理解できていたのだ。話し合いの結果、鈴久名地域では当時

一番の財産家であったオオハスパ(橋本長治)が、静のお屋敷を建設する土地を提供してくれ

ることとなった。また、責任をもってお世話することも約束してくれた。

隣の地区箱石からは、山名家の3兄弟が、義経主従のお世話を引き受けることとなった。また

身重の体であった静の旅のお供をすることとなった。地元では「お供」と表現しているが、よう

は護衛のためであったはず。女の旅はいつなんどき山賊に襲われるかわからず、それを防ぐに

は、数人の男が必ず必要としていた時代なので、まったく大げさなことではない。

段取った吉次は早速平泉に山名家の3兄弟と一緒に静を迎えに出立した。そして鈴久名では

早速静のお屋敷を地域住民たちの協力のもと、建設しはじめるのである。

 

ここに出てくる山名家についてであるが、もとは山伏であったという。実は義経が平泉を脱

出し、同行した中に山名駿河守義信がいる。この親類であった可能性は否定できない。

思うに、静のお供をした3兄弟は金売り吉次の家来であり、武士であったはずだ。そうでなけ

れば、静の護衛にふさわしくないのである。いわば吉次の同僚だったのではと推察する。箱石

の長老山崎氏は、山名家は遠野から渡ってきたらしいというのだ。地元の人間ではなかったと

いうからには前述したのを否定しない。山伏は全国各地を旅してもおかしくない姿。金売り吉

次がスパイ(間者)であった、というのは先に述べたとおり。だが、吉次だけがスパイというの

は不自然。必ず部下も数名従えていただろう。

義経もまた民家には長々とお邪魔する旅はしておらず、箱石の山名家にだけ、長期間しかも

部下を6ないし7人も従えて滞在している。これは義経が上司であったと見て取れるのだ。

 

9 義経平泉を脱す

1187年10月29日。北の王者藤原秀衡は、我が息子らと義経に看取られながら没す。それから

半年後、義経は平泉を脱している。義経北行伝説の始まりである。脱した一行の数は17人前後

であるが、2あるいは3団体に分かれて行動していた模様。

岩手県観光協会義経北行コースでみてみると、平泉の高台から海岸沿いを北に向かい、宮古

市の黒森山に向かう手前で、黒森山行きと、内陸にある鈴久名に向かうコースとの二手に分か

れている。義経と家来数名だけが団体と別れ、内陸の静のいる旧川井村を目指した痕跡だろ

う。

 

川井村手前大槌町には、藤原秀衡の四男藤原高衡に仕えた女奉公人の実家がある。義経一

行は旅の途中で、女奉公人の実家に身をよせると、数日間滞在し、これから先の長旅に備えた

のだという。

 

義経は静とのデートのため、宮古市の黒森山と箱石とを行き来し、黒森山には本妻の北の方

を据えられ、側室の静は鈴久名にお屋敷を建てさせて、身重の体を休ませたのだ。

そして時々静とのデートのため、箱石地区の山名家に滞在することがあった。人数は常に

7人程度であったという。滞在期間は10年間と伝えられているが、史実と照らし合わせると3年

ほどであったと思われる。

静と一緒に佐々木四郎高綱の養子として田鎖で育てられていた自分たちの長男である義高

と面会していたとの話もある。

 

10 義経ゆかりの山名家と箱石判官神社

  箱石地区に好心寺というお寺が、閉伊川を目の前にして、山懐に抱かれるように小さく佇

んでいる。その脇に流れる沢水は、大川(閉伊川)と目の前で合流する。義経が始めて箱石にた

どり着き、この沢水の精気に体をあずけ、旅の疲れを癒したとされる。ここは、箱石地区内の

[川向]と地元では言われていて、閉伊川沿いに車一台が通られるくらいの旧国道である。この

川向からの向かい側山手に国道106号線を挟んで山名家の自宅がある。この裏山を少しばかり

登ったところに、
義経ゆかりの判官神社がある。この中には義経が滞在中に彫ったとされる木

彫りの像が数体奉られている。
虫食いで保存状態がよくないものの、現在も原型をとどめてい

る。

判官神社の別当は静の旅のお供をし、義経主従のお世話をした山名家である。

義経は静が没後、北に旅立つ際に、木像のほかに、鞍馬の毘沙門天の像を、山名家に託してい

る。義経は「自分たちは北海道に向かうので、これからの旅の祈願をしてほしい」と言って置い

ていったものだ。

毘沙門天の像は、昔はお堂におさめられていたのだが現在は、山名家自宅の奥座敷の両脇

の丸柱に守られながら安置されている。

山名家は代々山伏であったという。当代別当は箱石地区に留まった長兄が担いい、下の弟

たちの末裔は、一人は
旧川井村片巣に、もう一人は途中で苗字を飛鳥とかえて、旧川井村川井

にて存栄(そんえい)されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

11 鈴久名の仏像

別当家の親類にあたる鈴久名の西野家(クニ子の大本家)において、始まりの姓は鈴久名と

名乗る家に、不動明王の像2体が自宅奥座敷に安置されている。先祖は山名家と同じく山伏だ。

となると、ここもまた金売り吉次となんらかの関係があったのではと思いたくなる。

鈴久名姓から現在西野姓となっている現在の当主によると、これら仏像は「京都からきたも

の」だという。この方の父親が実は飲ん兵衛で地域でも評判の人間であった。陽気な性格で、

豪快なところもあってか普段から酒を飲みすぎていたために、盲腸の手術の際、「麻酔が効か

ないまんま、お腹を切られたんだ」というのを幼いながら聞かされた。自分は「痛いからやめ

ろ」といって暴れたが、押さえつけられたまんま手術をした。と私に大笑いしながら教えるの


だ。

そしてこの人がもう少し若いころ、酒を買いたいがため、お金に換えようと何度も仏像を家

から運び出している。奥座敷に据えられた高さ80センチもあろう仏像を背負い、いざ外に出る

と、そのたんびに、大変な強風が嵐のごとく吹き荒れたそうだ。「その風の強さに仏像を持ち


出すのを諦めるほかなかったのさ」と、これは、奥様が苦笑いをされつつ申されていた。年老

いたころには、お酒も控えていた姿しか私は記憶になく、時々うちにお茶をのみにくるが、い

つも夕方には相撲の番組にチャンネルを回されていたものだ。

話は戻る。西野当主の言った京都といえば、静御前の名がつい浮かんできてしまう。橋本家

別当である貢の父、鉄弥は戦時中のロシアの病院で病死した日本兵であるが、兵隊に招集され

る前に、家のものに記録を残している。それによると、西野家にある仏像は、静がお金を工面す

るため、地元の人間に頼んでお金と交換したもの。とある。ならば、仏像は静が京都から持ち込

んで、今に至るのか。となるが果たしてそうか。

これら仏像は男性が崇拝するべきもので、女性が所持するには不似合いなものだ。福島県

の郡山には静が入水したらしいとされる池から、静の所持していた仏像や、静の着物が池から

見つけ出され拾われた。義経に再会する夢が絶たれ、自殺したのだろうとして、静のお墓が後

に建てられている。

 

これは、鈴久名に伝わる静の伝説「自分は死んだことにして、逃げ延びてきた」ことを、裏づ

けしている。自殺しようとするものが、自分の仏像まで池に入水させるだろうか。仏像に目が

行くとしたら、きっと「死」より「生」に気づかされるだろう。あたかも、静が入水したのだ、と無

理やりにでも断定さでようとしたに違いない。

 

山名家同様、西野家の仏像は義経一行が持ち込んだ像であった可能性は否定できない。義

経が箱石に滞在していた間に、静のお金の工面のため、二体の仏像を静にゆだねたのではな

かろうか。工面先は、義経かあるいは金売り吉次の声のかかる人物であったに違いない。

 

12 静 平泉からの脱出

 静の平泉からの旅は、金売り吉次を先頭に山名家の、3人の兄弟と、それに一匹の犬が同行

した。

 後に合流する義経一行とは別に、旅をしてきたのは、

「身の安全のため」

であったと、静の口から伝えられている。これは義経たってのお願い事であった。

義経は常に命の危険にさらされていた。だが、静とそしてお腹の子供はなんとしても守りた

かった。また、吉野山での教訓もあったろう。一行にとって身重の静は足手まといにもなるから

だ。昔の女の旅は、男の数倍も時間とお金がかかるが、できるだけ平坦な道を行く旅をさせね

ばならなかった。しかも護衛は必ずいないと、命の保障は無かった時代であり、多額の費用を

つぎ込んでまでした静の旅であった。身重の静に限り格別の配慮をしたのは実に賢明な判断

であった。
 

 

平泉を出ると一度南下してから日本海側の秋田県に出た。それから北上し、奥羽山脈を越え

て、岩手県の大迫に出ると、早池峰山から旧川井村の小国平野から狼が出るとよく噂された榊

原街道である横沢の山の峰から鈴久名のかばだ山の峰を伝って、大聖山の登り口手前の赤坂

という坂を下って、やっとのこと鈴久名に辿りついたのだ。

 

 その昔赤坂のある、かばだ山と、大聖山は、連なっていたという。だがいつかの大雨による

大洪水のため、かばだ山と大聖山の間の土が押し流され、その土は60キロ離れた宮古に流れ

着いた。この土山に、後に横山八幡宮のお宮が建てられることとなる。くしくも横山八幡宮は義

経ゆかりの神社である。鈴久名では「兄弟の山」と言われていた。

 

13 大迫の静御前伝説

静は義経一行とは別に、旅をしてきたと先に述べたが、それを裏付けるように、大迫に貴重

な静の伝説が残る。 

 大迫の早池峰に向かう川の合流地点に「鈴鹿神社」という名称の祠がある。ここにも静の仮

の名がつけられているのに驚く。鈴久名の神社にしろ大迫の神社にしろ、藤原家が滅亡したあ

とで、なおかつ朝廷の義経追討勅令は生きたままの時代に建立するからには、世にはばかりな

がらの名称をつけたのだろう。近くには「素足の森」といって、静が素足で逃げてきて、民家に

逃げこんだという伝説もある。静は「好きな人を追ってきた」と家のものに告げ、滞在している

間人目を避けるようにその家から一歩もでなかったのだという。

 

                                                     早池峰山


 静は大迫から早池峰山に入る。榊原街道をつたい、やっとのことで赤坂(赤土の坂)を降りて

鈴久名にたどり着くのだ。静が始めて地元の人間と話をしたのが、オオハスパ主人である橋本

長治(ながじ)
の妻であったという。また静は「ちょうじいに世話になった、世話に

なった」と申していた。長治(ながじ)の漢字があだなとして、(ちょう)じいと称していたのだろう。

 静はこれから世話になる家のものに挨拶をしたあと、真新しい小さなお屋敷に案内される。こ

こが義経とのデートの場所として地元で有名になるのだ。

 留まらぬ川の流れを望みつつ、岩に砕ける冷水の豪快な響きを感じながら、静と義経はいった

い何を語り何を想ったであろう。

時が流れ、屋敷の建物はいつの時代にか無くなってしまったが、明治生まれのものたちは、

「自分たちが子供のころまでは確かに屋敷の跡(土台)があったのを憶えている」

と証言されている。

14 静の容姿と金売り吉次の伝承

 鈴久名の長老であった故山本千松氏は、静が当時

地元の人間の身近にいたかのような表現

をされている。

「スズカゴゼンサマは、とても高貴な顔立ちだんすよ」

「とても賢い方でしたよ」

      容姿について、クニ子が言うには、静御前は、宝塚をご出身の
     
     大女優の真矢みきさんに似ているそうだ。

        「これが私だ」という静の声がして、ふとテレビをみると、真矢
     
     みきさんの映るCMが目に入り、その時は大変厳しい顔に見えて
   
     ならなかったらしい。

 静は今でいうアイドルのような存在で、東西随一の踊り手として大人気であったからには、

たいそう綺麗な顔立ちであったことに間違いはなかろう。

綺麗な顔だちであるのは間違いないだろう。

15 「七つ舞い」静より伝えられる

鈴久名の人たちに温かく迎えられた静。人々の温情に答えるように、静は滞在中、京都の踊

りを地区の者たちに伝授しものがある。それが「七つ舞い」という踊りであった。

七つの道具を使用するこの踊りは、鈴久名の人たちが静から直接教わったもので、もとは京

都の踊りであるとして伝承されていた。7つの種類の道具をつかって地区の数人で踊る伝承芸

能だ。これに関して、山を隔ててお隣の岩泉町には、今も「七つ舞い」が伝承されている。内容

も類似しており、昔鈴久名出身の人間の手によって、岩泉に伝えられたと考えてもおかしくは

ない。鈴久名の地では昭和のはじめまでは、この踊りの継承があったのだが、一足先に過疎化

が進み、今は誰も踊りを知るものがいなくなってしまった。

昔はこの踊りは、毎年お盆になると、家々をまわって踊られていた。この時、一番初めに踊り

を鈴ヶ神社に奉納するのだが、踊られる場所は現在静御前の供養塔が建てられている僅かな

平たい場所であったのだ。屋敷跡はこの場所にあったのだ。静御前が生きていた頃には、御前

のためにお屋敷の前で、踊って見せていたと言い伝えられているので、その名残であろう。

16 箱石こきりこ節の作者は静か

鈴久名のお隣の義経を奉る判官神社のある箱石地区では、箱石郷土芸能保存会による、「箱

石こうきりこ」という、村指定無形民俗芸能がある。

地区の若い娘たちだけで、二本の細い竹を使いながら華麗に踊る舞いは、静御前ゆかりの

伝統芸能として、テレビ局などで度々紹介されている。箱石の踊りの歌詞は独特で、他に類を

みないことでも知られ、作詞をしたのは静御前本人であろうと推測されている。


  箱 石 こ う き り こ 節

コキリコがござる

コキリコがござる

どちからござる

どちからござる

輝く禅の 京からよ

長いさあ 袖に

からまりて

サア からまりて

たがみや染めた だが踏み染めた

 

 

 

お寺の稚児が 踏み染めたらば

大寺建てて 経読ましめよ

サア 経読ましめよ

一七や八の道端の 竹の子

えんやと引けば しおっとなる

サア しおっとなる

忍ぶや殿を 三尺もって

(あい)()に一人荒野に一人 

(あい)()の川の 瀬に一人 (あい)()も 良かりよ 荒野も良かりよ

藍染(あいそ)め川の 瀬も良かりよ

お寺の前に 捨て子がござる 寒くて泣くか ひだりくて 泣くか

寒くもないし ひだりくもないが 二人の親に 捨てられて

焼き山のうさぎ 焼き山のうさぎ 何見て跳ねる 

十五夜の月見て跳ねる 見て跳ねる

 

たがむ絡まる 隘野狭い場所  ひだりくて苦しい・困窮等)

「殿」とはまさに、義経をさし、義経逢いたさにさまよってきたこと。

「捨て子」とは由比ヶ浜で死んだことになっているわが子のこと。

実は岩手の田鎖で密かに育てられ、2歳を過ぎた頃に義経と二人で鈴久名で再会を果たし

たのだが、そのときすでに、その子は自我が芽生え始めた頃であり、自分が本当の母であ

ると申し出ようとも、自分に甘えてくれないわが子が、なんとも切なく思えてならない。本

来ならば生きていてくれるだけでも喜ぶべきはずが、再度子どもを失ったかのような、感

情にとらわれる静の様子が実にこの詩から伝わってくるのである。

 

17 第2子を身ごもっていた静

[ 静は身重の体で旅をしてきた ] という。

安住の地とも思えた秘境鈴久名で、静は第2子を出産しようとしていた。だが、旅の疲れか

心労でなのか、とうとう難産のすえ母子共にはかなく命を落としてしまったのだ。亡くなった

子は男児であった。

鈴久名の人々は静の亡骸を密かに火葬してさしあげた。火葬場所は、赤坂山の頂上付近の赤

い松が一本そびえる広場であった。

 

クニ子はこのときの夢を見ている。静は「パタンと眠りにつくようにして自分は死を迎えた。

その後私(静)は、これ(神棚の鏡の台が映る=神)になったのだ」という。そして赤坂の坂を5、

6人の者たちが、下りたり上ったりしている映像が映り、自分はここで、煙となり天に昇った」の

だという。

母親の故郷にある静のお墓

香川県大川郡大内町丹生(にぶ)小磯は、静の母磯野禅師の生ま

れ故郷である。長尾町には、静と侍女の琴路、それに小さな子供の

お墓がある。また、静御前の位牌は"建久三年三月十四日、大願院壷

山貞灯大信女、源義経公室静御前"とあるが、静と同じ日に亡くなっ

た誰のとも分からぬ位牌が安置されている。子供のお墓は由比ガ

浜で殺された長男だと思われているようだが、だとすると亡くなっ

た日は別でなければいけない。これを鈴久名で亡くなった静親子だ

としたら納得がいく。





 

郡山の静のお墓

 郡山で下僕の小六に先立たれ、途方にくれた静が池に身を投げ亡

くなったとされている。

静と小六のお墓が静御前堂のそばに佇む。静の入水事件のあと、

池の名を「美女池」と称す。


 ここは静が死んだことにした場所であろうと推測される。





美女池

 

18 鈴久名地区名の由来

静が没後、鈴久名地区の有志たちが集まった。静を慕い、賢き人と敬いやまない全ての者た

ちが、自分たちの永遠の神様として、静を祀ることを決し、現在の神社の場所である僅かな広

場に、始めて神社が出来上がる。名前は、静が偽名を使っていた名前をとり、「鈴鹿神社」とし

た。

それに伴い、地区名も出来上がる。鈴(静)の名を永遠に親しむ意味を込め、「鈴久名」とし

ここに 静御前終焉(しゅうえん)の地 鈴久名 ができあがるのだ。

 

19 神社別当 オオハスバから橋本家へ

鈴鹿神社の別当は、今の橋本貢家(カミハシ)が5代目で300年続いている。そしてその前、

その土地の所有者であった橋本万次郎(屋号:オオハスパ)が別当で当初別当から400年つづ

いていた。現在の別当である橋本貢家の本家(ハスパ・現在は堤の姓)のそのまた本家である。


代の橋本長治から万次郎までの400年間がこのオオハスパが別当であったのだが、オオハス

パの末裔万次郎とその妻には、子供ができなかったので、夫婦が年老いたとき、面倒を看るも

のが必要になってきた。そこで親戚寄り合いして話し合った末、現在の別当である橋本家が、

大本家であった万次郎夫婦をひきとり、最後まで面倒をみたのだ。これに伴い、万次郎夫婦の

財産であった鈴ケ神社を含む周辺土地も、橋本貢家(屋号:上橋(カンバシ))が
引き

継ぐこととなり、300年の時を経て、現在の別当に至る。
 

20 神社の名前 鈴ヶ神社になる

神社の名前に鹿が入っていたのであるが、実は周辺の鹿の魂も神社に入りこみ、自分が神様

になっている気分でいたらしい。そこでご祈祷してもらい、現在の鈴ヶ神社の名前を掲げて、ご

神体である静御前だけが祀られているよう取り計らったものだ。現在の別当である橋本家は、

大正4年に鈴ヶ神社と周辺の山を正式に登記している。

 

21 血判書

 

「鈴鹿神社」設立に伴い、地区の有志全員の血で押された血判書が出来上がる。その但し書

きには

「鈴ヶ神社は、源義経の愛妻静御前を奉る神社であり、村人たちが純粋な気持ちで御前を慕う

がためのお社であり、新興宗教とは無縁のものである」

としている。(神楽家にて現存)

また、この時静を祀るに至る詳細を、一巻の巻物にて記載し、後世に残していた。それは近年

まで鈴ヶ神社に奉納されていた。また義経の甲冑姿の像もあったという。だが明治時代であろ

うか、この辺を放浪していたホイドウ(浮浪者)に盗まれてしまったようだ。最後に確認したのは

貢の祖父で、生前この巻物が紛失してしまって以降実に残念でならず、

「あの巻物さえあれば」と、悔やみながら没した。


第 4 章  神社再建のきっかけ

1 来訪者

昭和52年の夏、記録的な台風の影響で、鈴ヶ神社の建物は修復ができないほど崩壊してし

まっていた。別当家では、新たに建築しようにも、なかなか資金繰りがつかず、簡易的なものを

据えて、祈願だけは欠かさずに、約8年の歳月が流れていた。そして春まだ間もない、忘れもし

ない昭和60年。運命は大きく動き始めた。

昭和60年3月。お彼岸も近づきそろそろお供え物の団子を作らねばと思っていた頃のこと。

薪を取りにクニ子は家の玄関の戸を開け外に出た。しっとりとした空気が一瞬にして体を取り巻

き、それはまた、ボタン雪に水をふくませ重たくさせた。

見知らぬ男性が一人そこに居た。傘も持たず、濡れた頭を当然にして。ゆっくりとそして確実に

自分を目指して前に出るその足は、庭の真ん中ころで立ち止まり、二人してどちらからともなく

会釈した。カバンも既に濡れている。

男性 「こちらが鈴ヶ神社の別当家ですか」

クニ子 「はい」

男性 「私に神社を建てさせてください」

鈴ヶ神社のお社は、数年前大風のために倒されて依頼、瓦礫の山となっていたのである。

別当の橋本家では神社を建て直さねばと考えるも、なかなか資金繰りがつかず、長年悩みの

種であった。そんな折、『見知らぬ男性』が突如現れたのだ。

「私に神社を建てさせてください」

唐突なこの言葉、信じがたいこの言葉に

クニ子 「はい、お願いします」

即答した。しかも玄関前で。(さすがは・・・)

クニ子は心躍らせながら、見知らぬ男性を丁寧に家のなかに案内し、貢と二人、これに至る経

緯を聞くこととなった。

2 I・M氏について


名をI・M氏と名乗り、年齢は改めて聞いたことはないが、当時60歳の後半くらいではと思われ

た。家は北海道の舘市で、不動産業をしているとのこと。

I・M氏は信心深く、神仏を尊ぶ尊敬すべきお人柄であることは、直ぐに理解できた。しかし若い

頃は神仏とは、無縁の生活をしていたのだと話す。無神論者のその頃、ある事業に失敗してし

まい、自暴自棄になってしまったI・M氏は、この世に神も仏も無い。自分はもう死ぬしかない、そ

う思いながら死に場所を求めてさ迷っていた。

するとその時、果たして実物なのか幻なのか、見ず知らずの老僧に出会ったのだ。老僧は「神

も仏もあるよ」そう言って、あるところに行きなさい、と意味不明な言葉を残して立ち去ってし

まった。

氏は半信半疑のまま、言われたとおりにしたところ、それがきっかけで、事業が順調に行くよう

になったという。

それからというもの、四国の四十八ヶ所巡りをはじめ、全国至る所の神社仏閣をご参拝するよ

うになったのである。岩手を訪れたのも、このような関係からであった。

氏が奥様と一緒にある神社を参拝していたときのことだ。そこにある掛け軸に目が留まった。

よくみると、いつかの老僧の姿が描かれていたのだ。いったいその絵がだれなのか、主人に聞

いたところ、それは弘法大使であると教えられたのだという。

3 前世は義経か

こうしてご自身の純粋な信仰心ゆえのことか、徐々に自分の過去生のことがよみがえり始め

ていった。そう過去に生きていた自分が実は義経であるのを徐々に自覚していったのだという

。するとだんだんと、過去に深いつながりを持っていた、静御前が今、どうしているのか気にな

り始めていく。

その晩、静を思いながら就寝したI・M氏は鮮やかな夢を見ることになる。


夢の中にある女性の姿があった。すこしくすんだ色の着物をまとい、首には大きく透明な珠の

数珠。


I・M氏は  「静御前ですか」  と訪ねた。

女性は 「そうです」 と一言だけ。

次に    「今、どこにいますか」


とI・M氏が尋ねると、次の瞬間、切りだった小高い山の映像が映し出された。線路をはさみ、左

手には切りだった小高い山。右手には大きな川が流れている.

そうか、御前は生まれ変わってはおらず、ここにいるのか・・・・そう思って間もなく夢は終わって

しまった。

(詳細については、内藤浩誉書 国学院大学大学院卒 「静御前の伝承と文芸」 をご参照あ

れ)

 

4 夢の中の静

それから数年後。

昭和60年3月。I・M氏は目的の神社参拝を終え、山田線に乗って帰宅の一路を辿っていたときの

ことだ。

宮古から盛岡に行く汽車に乗り、外の景色を眺めていた。箱石駅も過ぎ、一つ目のトンネルを抜

け、そこに広がる景色が、一瞬に流れ行く筈の景色が、以前夢で見たものと全く同じであった

ことに驚愕する。線路を挟み、左にそびえる切だった小高い山。右には大川(閉伊川)と、それに

架かる小さな橋。これを機に、鈴ヶ神社を訪れるようになった氏だが、ご参拝するたび、心を痛

められた。それは、団子やお菓子があげられて、たいそう大事にされている様子なのに、お宮

が壊れてしまったままでいたことです。

 I・M氏は自分の資産を提供してでも、神社を建ててあげよう。それが使命であると感じたの

だという。今回初めて別当家を訪ねたのは、そういった深い想いがあってのことであったの

だ。


5 鈴ヶ神社 再建かなう

「間違いなく静御前ですよ。御前の魂は確かにここにいらっしゃいます」


そう語ってくれたI・M氏の、稀にみる純粋な信仰心が、橋本夫妻の心に深く響き、今でも鮮明に

記憶している。

 I・M氏のことをきっかけとして、橋本家では地区住民にもお願いし、沢山のかたがたのご協

力と沢山のご寄付のお陰をもちまして、昭和61年にみごと神社再建を果たすことができたの

である。

 

6 静御前供養塔 平成11年完成 

神社の山のふもとの入り口の、扇形をした

チャラの木を過ぎ、鳥居をくぐってすぐの右に建

てられている。静のお屋敷があった場所だ。

 クニ子は、神社の再建前から再建後も、たびたび供養塔に関する夢を見ていた。その度に、

実際建てられるだろうかと考えあぐねて数年・・・神社建設には世間様にご協力していただい

たが、供養塔に関してまで、ご苦労をかけるには心苦しく、思いあぐねて数年がたった。

 しかし夢に追い詰められる形で、経済的には苦しいながらもやっとのこと、平成11年に供養

塔を完成させた。

クニ子は、いろいろな夢があるなかで、必ずといっていいほど幼い子供が出てきていた。それ

なので「静御前はお産で亡くなった」という伝承を確信したという。

また、信頼する和尚様から言われたことには

「静御前は自分が亡くなった後、人々に神としてあがめられるようになるが、和尚や、山伏とい

ったように、仏の道を修行した人間ではない。賢いからという理由だけで、神様にされた御前

は、鈴久名の八幡神社や、その他周辺の神様に、大変遠慮をされている。それゆえはじめはと

ても苦労されたが、今は神として人々を守っていこうと思っている。仏としての御前に、お経を

あげることによって、神としての守る力が付く」

というものであった。

私が見た夢には、静御前は、白い着物姿で首からおへそのあたりにかけて、直径4センチくら

いの大きな数珠が提げられていた。また、大変綺麗な刺繍の袈裟(けさ)が目の前に映し出さ

れている。数珠に関しては、北海道のI・M氏も同じように「大きな数珠であった」と発言されてい

る。
 

クニ子が、強迫観念にとらわれ、「静御前供養塔」としてお墓を建てたわけだが、これは静御

前親子としての供養等の意味合いが陰にあるものだ。

橋本家では、毎年春と秋のお彼岸には、橋本家先祖のほかに、「静御前親子」 として、お寺で

ご供養のお経を欠かさない。

 


第 5 章  祝賀会パンフット及び関係者へ

 

鈴ヶ神社還宮式・再建祝賀会  

と き : 昭和62年 3月31日(火) 
           午前11:00


場 所 : 鈴久名公民館

主 催 : 鈴ヶ神社実行委員会 

 

 

 

 


  別当 橋本貢 より

鈴ヶ神社は老朽化に加え、8年ほど前に風害にあい、見るも無残な姿となり、なんとかしなけれ

ばならないと、痛恨の至りで数年間を過ごして参りました。

時として昨年、昭和61年4月、神社建築の着工となり、本日ここに[魂入れ並びに完成祝い]の

運びとなりました。完成までの陰には滝野弘見大工さんの熱意と、建築作業に携わってくれた

方々をはじめ、多大なるご寄付をお寄せ下さいました、皆様方のご尽力があったことはご承知

のとおりでございます。その皆様方に対し、心より厚く厚く御礼申し上げます。

かえり見ますれば、明治27年の再興以来、現在に至っているわけですが、同じく長い年月を経

てきた岩・松、の間に、新築された「鈴ヶ神社」の雄姿を眺める時、涙にうるむ瞼には、皆様方の

精魂が一つとなって映る時、感無量でございます。

静御前が義経を慕って当地に来たか否かを論ずるのはさておいて、いつの時代かに奉られた

であろう神社が、今日またここに復元され、我々の心のよりどころとして、後世に永く遺らんこ

とを願いながら、御礼かたがたご挨拶といたします。
 

   棟梁 滝野弘見 より

別当、橋本貢の長い間懸案でもありましたこの「鈴ヶ神社」の建築を依頼され、本格的には5月

より始まりましたが、皆様方には大変ご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます。

正直のところ、私もどれだけ費用がかかるのか、皆目見当がつきませんでした。ただ、職人とし

て言えることは、何代かに一度しかないという建築で、後世に伝える大切な神社でもあり、鈴

久名部落においても長い間、文化殿堂として皆様に親しまれてきた神社であります。そこで私

は職人として悔いの無い立派な建物にしたいという一念で、最大の精魂を込めて造りました。


世にも名高い「源九郎義経ゆかりの地でもあり、伝説の中でも思い出多い「静御前」への惜別

の情を傾けている方々も多いことでしょう。鈴久名部落のシンボルとしても、永く皆様に親しま

れんことを祈り、部落上げての「完成祝賀会」心から祝し、御礼の言葉と致します。
 

   鈴ヶ神社賛助会 会長 佐藤茂司 より


地域の皆様方には、神社・仏閣に対し日ごろから何かと多大なるご協力をいただいて参りま

したが、この度、昨年の4月より、別当、橋本 貢と、大工、滝野 弘見によって建設が進められ

て参りました。


そこで、部落でも多少でも手助けが出来ればと昨年の9月20日に「建築賛助会」を結成し、皆

様にご寄付を仰いだところ、皆様方の暖かいご理解のもとに、多大なるご協力を戴きました。


この「鈴ヶ神社」は、岩手県観光連盟の義経北行コースにもなっており正に、別当のみならず

部落あげての神社建築事業でもあり、今後益々我が地域が繁栄することを心から願い、また、

この度の皆様方のご厚情に対し、敬意と感謝を申し上げる次第であります。

  鈴ヶ神社の説明  西野 晧より

義経は、平泉の高舘を脱出し各地区で滞在しながら、三陸沿岸を北上し[エゾ島]に渡って

おり、平泉で自害し鎌倉に送られたという義経の首は、偽の首(杉目太郎)だったと言われてい

ます。


静御前は吉野で捕らえられて鎌倉に送られ、そこで男児を産み落とすも、頼朝は「女児なら

ばかまわないが、男児なら捨ててしまえ。」と命じ、御前の子は由が浜に捨てられてしまったこ

とになっている。


失意の御前は母と共に京都に帰ったが、後に義経の生存を知って、奥州(東北地方)へと旅立

ちました。逃亡中は「いたこ」に、そして金売り吉次をはじめとする従者達は、六部姿(日本66ヶ

国の霊場を巡って、法華経を一部ずつ納めて歩く、行者六部66部の略)に姿を代え、福島県の

郡山市から宮城県秋保町、山形から秋田を廻り、鈴久名の地へと辿り着きました。頼朝は静御前

を義経逮捕の「おとり」に利用しようと義経の後を追って奥州へ逃れる御前を、黙認したという

説もあります。


また、一説によればその義経と静御前との間に生まれた男児は、密かに佐々木四郎高綱の

許しで育てられ、左兵衛義高と名乗り、岩手県下閉伊郡田鎖(宮古市)の領主となり、文永4年

に82歳の天寿をまっとうしたとなっている
 

 

2 神社再建事業関係者によせて

 

 鈴ヶ神社別当 橋本 貢

 

神社に使用した木材は、ある製材所の奥にずっと眠っていたものを、大工棟梁が見つけ、使

わせていただいた。樹齢300年〜400年の立派なものである。しかし、材料を高台に上げるの

には、苦慮したが幸いなことにT・M氏からお世話頂き、集材機を借りる事が出来た。それを扱う

地元大工の腕の凄さには感服させられた。危険な作業であるワイヤー撤去の時は、かなりの注

意をはらったが、着工から完成に至るまで、一人の怪我人も出さず、皆が揃って、無事に安堵の

杯を交わす事が出来た事は、とても有り難いことでした。また、祝賀会には鈴久名部落全体で、

参加していただきました。衷心より感謝申し上げます。



 別当妻 クニ子

 

 先祖を拝むという真の意義は、過去を知る事にあります。先祖があって、我々があり。過去が

あって現在が。自然的観念を誠実に実行する事により、おのずから誠のものに触れる事が出来

たという実感を、沢山の人たちと、共有できた事に感謝します。最後までご苦労をおかけした

棟染のご家族の方々には、改めて敬意を表します。

 

      

3 静によせて


静御前は自分の手で我が子を育て上げたかったに違いない。だがそれも叶わないまま亡く

なってしまった。天国に行っていたらまた生まれ変わり、違う人生が待っていたのかもしれな

い。鈴久名の人たちは静のお骨は故郷に返してあげたはいいが、静の魂に関してだけは、それ

を許さずこの地に神様としての役目を強制的に科してしまった。この世は修行の場所というが

亡くなってからも静は神になるための修行をつまされるのだ。生身の人間でいるなら、嫌なこ

とは知らずにすんで、ある意味心おだやかでいられることもある。だが神となるとそうはいか

ない。いやがおうでも人間の腹の中の、そのまた奥に潜む、どす黒いものまでも垣間見てしま

うのだ。それを我ら人間の感情をすてて宇宙心でもって推し量ることをあえてせねばならな

い。悪をも受け止めることが神であり、それを実践させようとしてきた静の苦労を思うと、私は

地元の人間として、時に心の奥底で罪悪感にさいなまされることがある。それも含めてより一

層敬うべき存在である静という鈴ヶ神社の神様が、いとおしくも誇らしく想うのだ。

 

    地域の歴史の礎を築いてこられた先人たちの代弁者として

判官びいきと一笑されてもなお、無言の信仰を800年続けてこられたものは、見て、聞いて、

覚えて、なおかつ物的証拠なるものが確実にあったからの自信に他ならない。だが、それ以上

に見えてくるのは子々孫々と受け継がれる家族の深い絆と、地域の住民同士の強い信頼であ

った。

平泉の藤原氏の意向のまま、目の前の救うべき者を救って差し上げただけの至って自然な

行動は、そこには損得などなく、歴史云々語るものもなく、素直に尊敬の意を表する無骨なが

らの日本人としての、いや東北人としての気質そのものであったと感じる。

たとえ世が否定されたとしても、また肯定されようとも、私たち地元民の、揺るぎのない信

仰が、ひっそりとそこにあるだけだ。
                           麗しの君へ

日々のマスコミによる情報操作なるものが存在するように、歴史の調整も同時に行われてい

るのが現実であるなか、どのような調整も受けていない地元の情報を公開できたことに、深く

感謝したい。

  

 
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鈴ヶ神社の別当家が 先祖代々受け継いできた言葉


 「鈴ヶ神社は、義経のカガ(妻)を祀ったものだからな」

        言葉は言霊となり 
        それは 力となり
        現象(かたち)となりて
        800年の時を経て
        平和の中に 
        今だからこそ
        伝えられる 真実


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岩手県宮古市鈴久名


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