嘉永3年(1850)夏、長雨により東大川(その頃の高梁川は酒津付近で東と西に分流していた)の堤防決壊
によって大洪水になった時の有様が、当時粒浦に住んでいた小川真澄によって書かれた「呉竹」という記
録文に書き残されている。最初にこの部分を現代語に訳して紹介することにしよう。。
[注]小川真澄<寛政8年(1798)〜嘉永7年(1854)>・・・
   児島郡粒浦新田村の豪農の子として生まれ、幕末の歌人・風流人
   として世に知られ、常に諸国の客が家に満ちていたと言われる。
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今年5月の末頃から梅雨の雨が降り続いて6月3日の夜10時ごろ、粒浦付近では川上の安江と四十瀬の
堤防が決壊して、水が溢れ出したと見る間に水かさが増して、あっというまに床の上まで水が押し寄せ、
低いところでは家の軒端までも濁水につかる有様となった。
何しろ夜中のことであるので、女子供達はは逃げるいとまもなく、ただ、『助けて・・助けて・・・』と泣き叫ぶ
声が暗闇に聞こえるが、どうしてやることも出来ず、哀れとも悲しいともただおろおろするばかりである。
翌4日の昼頃まで、水嵩高く濁流が激しく押し寄せてきたが、夕方頃にはやっと濁流の勢いも弱まり、その後
日数が経つにつれて、決壊した堤防の応急の修理も出来て、一息ついたかに見えた。
ところが6月20日頃になって、また夕立が激しく降って、応急修理の土手もまた破れて洪水となり、再び水底
になってしまった。いつまでこんな状態が続くのかと、嘆き悲しんでもどうすることも出来ない。
1週間ほど後には、水も引いて田の表面もやっと顔を見せるようになったが、田植えを終わったばかりの田には、
植えたはずの苗は1本残らず押し流されてしまって、一面のがれきの原と化してしまっている。
蓄えの米や雑穀をはじめ畑作物はもちろん、家具や衣類などもすっかり泥水に浸かったり、または流されて無一物
になってしまった人々も多かった。
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また別の記録によると浸水期間は6月2日から27日まで25日間。浸水範囲は51ヶ村に及び、浸水にともなって
土砂の流れこんだ田畑は691町歩(約685ヘクタール)であったといわれている。


<明治の大洪水>

明治26年(1893)旧暦9月3日(新暦10月1日)、台風にともなう大暴風雨が襲来し、
増水した高梁川の水は見る間に堤防を越して溢れ出してきた。この頃の堤防は
貧弱な土手の上にところどころ竹やぶのあるもので、洪水には弱いものであった。

神在村下原の土手が切れ、川下の川辺の町並み(現在の真備町)はまたたくまに
濁流に襲われた。川辺の人たちは二階建ての家や本陣宿に逃げ込んだという。
二階へ逃げた人たちは助かったというが、一階にいた人は増水した濁流にあっと
いう間に飲み込まれて、押し流されてしまった。低いところでは平屋の屋根の先が
少し見えるほどの水かさであったといわれている。

このとき本陣の近くに住む17才の友三郎も必死で我が家のわら屋根の上に逃げたが、
気が付いたときには水に浮かんだ屋根の上であった。水に浮いたわら屋根は激流に
押し流されながら、いつしか水島灘を漂流して塩飽本島にたどりつき、からくも一生を
得ることができた。同じようにわら屋根に乗って流されたいくつかは、山陽鉄道の鉄橋
橋脚に激突して砕け散り、濁流の渦に飲み込まれた者もいたと言われている。

また、船穂では、一の口水門及び又串の堤防が決壊し、勢いにのった濁流は遠く金光の八重から占見まで
流れ込んで、玉島平野は1週間にわたって浸水したという。又串の土手が切れたとき、濁流は家の床上3m
までも浸水し、濁流が押し流して運んできた30余りの大きな岩が今でも点々と水田の中に残っているとも
言われている。
このとき女中をしていた19才の満は家が崩壊する寸前に、とっさに意を決して濁流に飛びこんだ。そして流木
にすがって濁流のもまれながら、玉島港町まで流れ込んで九死に一生を得たという。
さらに東大川では、中島及び古水江の堤防が切れて河内地方は勿論のこと、連島の全域までも濁水に洗わ
れることとなった。
(補足)
岡山県内の3大河川が氾濫して大洪水となり、10日余りも水没していた。流失破損家屋は県下で13000戸、
死者数423名であったという。さらに翌27年まで赤痢が大流行し、患者数12700名余り、死者数は3900名
余りにのぼった。
また、前年の25年にも暴風雨による洪水、27年5月にも再三にわたって大洪水にみまわれている。このときの
高梁川流域では浸水期間1週間、死者17名、流失家屋754戸、半壊家屋265戸、浸水家屋5300戸という被害であった。


<水害の歴史>

江戸時代初期から明治末までの約280年間にわたって、いろいろな記録をたぐると岡山県下では
少なくとも数十回にも及ぶ洪水の被害に悩まされていることがわかる。高梁川流域だけでもおよそ
30回に及ぶ水害(約10年に1回の割合)で人々は洪水との戦いに明け暮れたとも言える。大きな
被害を出した主な洪水を拾い出すと下の表のようになる。
年代(西暦) 水害のあらまし
延宝元年5月
(1673)
12〜14日 大雨 西大川破堤 家屋流失199戸 損傷家屋381戸
19日再度大雨 東大川八王子破堤 西大川船穂破堤 洪水被害甚大
元禄15年7月
(1702)
28日 大風大雨 備前備中美作一円洪水 とりわけ津山地方被害甚大
8月29・30日再度大雨洪水 平常水位より約5.2m水嵩増す
享保6年8月
(1721)
4〜10日 大雨 西大川西原破堤 東大川酒津破堤 家屋流失280戸
損傷家屋900戸 死者43名
寛政元年6月
(1789)
17〜18日 大雨 諸河川氾濫 東大川天神破堤 西大川西原・巻倒・
船穂中新田破堤 玉島・長尾・船穂被害甚大 通町・土手町の町屋流失
嘉永3年6月
(1850)
冒頭の紹介文。3日 常盤村・清音村で破堤 被害甚大
東大川安江・四十瀬破堤 洪水 浸水25日間
明治17年8月
(1884)
25日 台風の通過にともない各地に大津波発生 死者655名
児島郡福田新田の被害甚大 流失家屋890戸 死者546名(福田千人塚供養塔建立)
浅口郡流失家屋807戸 死者95名 田畑損失871ha 船舶被害359隻
明治25年7月
(1892)
23日 暴風雨にともなう大洪水 県下3大河川氾濫 流失家屋5500戸 死者74名
明治26年10月
(1893)
本文で紹介。台風にともなう大雨大洪水 県下3大河川氾濫 流失家屋12920戸
死者423名 翌27年まで赤痢大流行 患者12700名 死者3900名余り
高梁川流域の被害額数百万円(当時の倉敷町予算は2000円)