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掃除用具箱    

 

 

 

「それって肖像権の侵害じゃねえの?」

兄ちゃんは言う。

俺の手には小学校の頃の集合写真。その中の一人を見て、この美術室で油絵を描いている。

「公開はしない」

「そんなに描きたいわけ。初恋の相手かなんか?

…なんだよ」

知らないうちに睨んでいたらしい。あわてて敵意のない笑顔をつくってから、目をそらす。

兄ちゃんは普通のまともな人間だ。

俺は、自分がまともでないことを知っている。

だから俺はいつも悲しくて、そんな時は兄ちゃんもカスミも苦手で嫌いでやりきれないんだ。

それは、単なる「いい思い出」「ヤな思い出」で片付けられない何かのような気がするんだ。

そういうの、どうしたらわかってもらえるんだろう。

「俺、小学校の時、よく授業サボってたじゃん」

「だっけ?」

「サボってたんよ。それで…その時、俺、どこにいたと思う?

授業終わるまで、どこで時間潰してたと思う?」

「?」

「掃除用具箱の中」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大人の言う「子供」という言葉が嫌いだ

時の流れなんて知ったことか

ここにいる今の俺は今を生きるしかないんだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと気がつくと隣りにある光景にギョッとする。

知らない女子が知らない誰かの悪口を言っている。その口から虫がうじゃうじゃ出ている。

蟻みたいなのがいっぱい、たまに百足が、ごそっと。

出てきたやつらは好き勝手に歩き回って、服の上をつたったり、襟の中にもぐり込んだり、床に落ちてどっか行ったり。

百足が、聞いている女子の頬にとびつく。その人は顔をちょっとしかめて払い落とす。ついたあとはミミズ腫れみたいになっていた。

廊下にいると、クラスメートが走ってきて、にかっと笑う。

一瞬だけどはっきり見える、歯や歯ぐきの間にびっしり動き回っている蟻。

気味が悪くて、逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずっと小学生のまま一生を過ごせたら、いいだろうなっていう人も

いるかもしれないけど、それが

悪夢だったら?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校は広くて四角い迷宮だ。

逃げたけど、どこへ行けばいいのかわからなくて、うろうろする。

もう授業が始まっているだろうが、途中から入るのも決まりが悪い。

でもここでボケッとしているのを見つかったら何倍も面倒だ。

それで、掃除用具箱に入った。

呼び方はいろいろだけど、まあ掃除用具箱だ。

廊下、教室の隅、校内に多数ある、あの縦長の「箱」。

こんな所に隠れるなんて。狭いし汚ねえし。

でも、これが意外と落ち着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日常はギョッとするものばかりだけど、カスミだけは、今まで見たどんなものより美しかった。

その、物憂げな目をした日本人形のような姿に、最初は気にもとめなかったのだが、

ある時、ふと魔法にかかってしまった。

その現場は、炎天下の校庭だった。

 

ひとりで砂漠を歩いている。

足元の砂だけを見て歩くと、どこまで続くのかわからない。埃っぽくて、暑い。

いきなり、視界でボールが跳ねた。

「ぱぁーす」

遠くで男子の声がする。拾って、投げ返す。

サッカーボールは五メートルも飛ばずに地面で跳ねる。

「うわ、だっせ」

そいつは笑い、コートにむかって蹴る。

ボールは生き物のように、青空の中で大きな放物線を描く。

駆け回って遊ぶ大勢の生徒が、陽炎で揺れている。

何をするでもなく、鉄棒に寄りかかってそれを眺めていた。

気がつくと、俺と同じように彼らを見ている人がいた。それが、カスミだった。

鉄棒が並ぶ校庭の一角は、フェンスより高い植え込みの壁が続いている。

その、目が冴えるような緑を背景に、彼女は立っていた。

ひどく非現実的な、細くしなやかなシルエット。

ふいに、昼寝している虫を起こさないようにするみたいに、屈みこむ。

スカートの裾がわずかに揺れて、膝を隠す。

白い手が、蝉の抜け殻に触れる。

乾いた地面の上にうずくまる、薄い皮でできた夏のかたち。

それを、壊れないようそっと拾い上げる。

まっすぐな黒髪に隠れた横顔、その桜色の唇がやわらかく微笑む。

その時だけ、俺の視覚的記憶力は、通常の十倍くらいになっていた。

 

なにがなんだかわからないまま、その後も、俺の目はカスミを追い続けた。

 

カスミのいる空間は、いつも一枚の絵画になった。

木漏れ日の下の蝉の抜け殻。

淡い光の射す廊下の窓。

青空を流れる雲は、一つとして同じ形をしない…

そういうのは俺の宝物だけど、所有物じゃない。俺の目の中で、カスミは常に横顔で映っていた。

 

ふと、耳がむずむずして、爪でかく。

手を下ろすと、指の間に、百足がはさまって、もがいている。

うわっと叫んで、振り落とす。

足元に落ちた百足は、仰向けになって多くの足を動かして暴れる。

本当に、ギョッとすることばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

掃除用具箱は、そんな俺の唯一のヒールスポットだ。

校内のあらゆる箱に入った。

出入りしている所を誰かに見られてから、ちょっとの間、有名になった。

掃除用具のあだ名で呼ばれて邪険に扱われるようになったのも、当然といえば当然の流れ。

そのうち、忘れられた。

掃除が終わってあの箱にしまった後は、誰も箒や塵取りのことは考えない。

 

最もお気に入りなのは、一階にあるボロいやつ。

がらんと白い廊下の片隅に、ひっそりとその箱はある。

その扉を開け、またギョッとする。

中は真っ黒だった。

箒も塵取りも壁も無い。ただ闇の粒子が蠢いている。

そのひとつひとつが小さな蟻で、流動するブラックホールを作り出している

その中に足を踏み入れ、内側から扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教室で、近くにいた男子がカスミのことを「サダコ」って言ってからかっていた。

俺はひたすら睨んでいた。

「なんだよ」

男子が振り返って言う。そうか、今の自分は俺であって俺じゃない。

だったら、なにも躊躇することないじゃないか。

そいつの胸倉をつかむ。突き飛ばし、殴りかかった。

その後、カスミの事で冷やかされたり、先生に説教されたり、殴った男子に仕返しされたり、

色々面倒事が尾を引いたが、うたた寝していたみたいによく覚えていない。

 

周囲はまるで獣を扱うみたいな目で見てくる。

こうして一人になってみると、今まで素通りしてきた、なんでもないものが妙に気になり出す。

例えば、掃除用具箱。

一階の廊下の片隅に、なにかの存在を感じて振り返ると、掃除用具箱なのだ。

何か重大な事を思い出しそうな気がする。

箱の扉の隙間から、蟻が一匹現れ、側面をつたっていく。

これを開けなくちゃならない。手をかけるくぼみに触れる。

気がつくと、廊下のむこうに、白いクリアな光に包まれた人影があった。

俺は初めて、彼女を真正面から見つめる。

カスミは微笑む。俺だけに向けられた笑顔。ずっと求めていた風景。ずっと夢で見てきた光景。

それなのに、もうすぐ目が覚める。俺の手は、掃除用具箱の扉を開けてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真っ暗だ。いや、窓が見える。廊下が見える。全て、青白い。

掃除用具箱から出て、あたりを見回す。

学校の廊下だ。隠れているうちに、夜になってしまったらしい。

どうやってここから出ればいいんだろう?

俺は自分でもギョッとするような薄ら笑いを浮かべて、真っ暗な廊下を歩いている。

 

学校は迷宮で、四角い箱だ。

その箱の中に教室という箱があって、さらに小さい掃除用具箱がある。

俺はそんな箱を愛する。

俺はそんな箱たちが大好きだ。

蝉も殻の中にいたままでいい。殻から出た蝉は、うるさい。

耳を塞ぐ。

ほら、静かになった。もうこれ以上、何も聞こえないし、見ない。

俺はずっと箱の中だ

俺はずっと箱の中だ――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長い時間をかけて話し終えると、兄ちゃんはたった一言で片付けた。

「ヘンな夢だな」

「…夢だったのか」

「当たり前だろ、バカバカしい」

 

以来、小学時代は「いい思い出」「ヤな思い出」と仕分けされてスッキリ片付いた。

だから、もうギョッとするような事はほとんどなくなった。

でも…

見かけた掃除用具箱にもう一人の自分が入っているような気がするのは、どうしてだろう。

 

優しく微笑む女の子の絵を描いている。炎天下の校庭で、魔法にかかったままだ。

                                                                

                                                                     (完) 

 

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