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台湾縦断 春の旅

基礎知識 7-1
2008.3.18 - 22

中華民国



中華民国初代総統 蒋介石

 蔣介石(しょうかいせき、1887年10月31日 – 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で五回当選し、合わせて1943年から死ぬまで中華民国元首の地位にあった。

 名は中正で字は介石、譜名(族譜上の名)は周泰、原名(幼名)は瑞元、学名は志清。台湾では蔣中正の名称が一般的。欧米のメディアからは大元帥を意味するGeneralissimoとも呼ばれていた。


中華民国の主席 蒋介石

 蒋介石は、1887年に清国の奉化で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれた。
 成人後は日本の陸軍士官学校へ留学した(当時は中村という日本名を名乗っていた)とされ、当人の身分証明書の学歴欄にも「日本士官学校」とあるが、陸軍士官学校の卒業名簿その他から、これが完全に虚偽であったことが明らかにされている。

 また、その後、辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得たという話があるが、孫文はそれほど積極的に蒋介石を信頼してはいなかったという説もある(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』明成社ほか)。

 蒋介石は、ソ連の支援で設立された黄埔軍官学校校長となり、1925年の孫文死後、1926年の中山艦事件以降に国民党軍を掌握し、北伐を完成させ、1928年に中華民国の主席となる。


中華民国初代総統 蒋介石

 中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降、敵対関係にあったが、西安事件により第二次国共合作を強いられ、アメリカやソ連の協力を得て日中戦争を戦い抜いた。日本が敗戦した1945年以降に、再び中国共産党との間で国共内戦が勃発。1949年に共産党に敗北して台北に遷都(台北は臨時首都)した。その後、1950年に中華民国総統に就任。1975年に死去するまで総統の地位にあった。

中華民国初代総統 蒋介石

 第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。

 しかし、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』、倉前盛道著『悪の論理』ほか)といわれ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中国を赤化させるつもりであったという説もある。
 実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子の蒋経国は、実質的な人質としてモスクワへ留学している。

 黄文雄の著作(上掲)に見られるように、反共主義の権化と見られる蒋介石がソ連や共産主義との親和性があるかのような主張は、90年代以降、台湾独立派が日本で主張し始めたものである。  台湾独立派は蒋介石の独裁体制をソ連の軍制の視察などを通じて研究したソビエト連邦共産党の模倣であり、党国体制・擬似マルクス・レーニン主義体制と呼んでいる。

 台湾独立派が「反共の蒋介石」を共産主義と結びつける背景には、彼らが、長年、蒋介石・国民党と中国共産党の両者を相手に敵対してきたこと、それを日本の歴史を知らない若年保守派に説明するには蒋介石=共産主義と説明するのが戦略上簡便だからである。
 このように、敵対者にレッテルを貼ってイメージ操作を行う手法は、かつて70年代に蒋介石・国民党政権が台湾独立派を名指しして「共産主義者」と批判した前例がある。

 歴史的事実としては、蒋介石の反共は、日本のオールド保守に歓迎され、蒋介石を礼賛したのが自民党の右派議員や右翼団体や産経新聞だった。
 共産主義者と名指しされた台湾独立派は、同時に中国共産党からはアメリカ資本主義の手先と批判されていた。

 戦後は、日本の反共的な政治家と結び、特に同じ反共産主義的な思想を持つ岸信介などとは個人的な親交があったようである。

 辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり(蒋の方が位は下)、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行った。その後も、青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には、蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。

 今日、蒋介石の評価は、その評価を下す側の立場等によって実に様々に分かれているが、彼が清朝末からの大動乱を終焉させ、中国に統一をもたらした歴史上の大英雄の一人であったことは間違いない。
 

北伐における蒋介石


孫 文
 孫文は1925年3月12日に亡くなり、国民党には権力の空白が生まれた。権力闘争は、国民党右派側にいた蒋介石と孫文の親しい戦友であり、党の左派側にいた汪兆銘との間で起きた。

 蒋介石は、党内部での地位は比較的低く、汪兆銘が孫文の国民政府議長を継いだが、蒋介石は軍事力と中山艦事件からの政治工作によって勝利した。
 蒋介石は、1925年に国民革命軍の最高司令官に就任し、1926年7月27日には中国北部を支配する軍閥を駆逐して国民党の下に国家統一をなすための北伐と呼ばれる軍事行動を開始した。

 北京に対して進攻をかける前に、国民革命軍は三つに分けられ、西側は汪兆銘が一団を率いて武漢を、東側は白崇禧が一団を率いて上海を、蒋介石は一団を率いて中央で南京の支配が割り当てられた。
 しかし、1927年1月に、汪兆銘と彼の国民党左派同志は、中国共産党及びソビエト工作員ミハイル・ボロディンと組んで大衆動員と歓呼の中、武漢を手中にし、国民政府は武漢に移ったと宣言した。

 3月に南京を攻略し(南京事件参照)、上海が親密な白崇禧の支配下になってからは、蒋介石は彼の軍事行動を停止することを強いられ、国民党の浄化及び左派との対決を決意した。

 4月12日、蒋介石は、何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は、胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。

 汪兆銘の国民政府は、大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥李宗仁に取って代わられた。結局、汪兆銘と彼の左派グループは、蒋介石に降伏して南京政府に参加した。
 ついに、軍閥拠点だった北京は、1928年6月に支配下とされ、さらに12月には満州軍閥張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約した。


孫文の継承
   蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。
 1927年12月1日、蒋介石はかなり政治的に重要な相手である宋美齢と日本で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。彼女の姉は孫文の未亡人である宋慶齢であり、蒋介石は前には宋慶齢に求婚したが即座に断られている。北京に到達すると、蒋介石は、孫文に敬意を表し、彼の遺体を首都の南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。


■ 蒋介石の歴史的評価

 蒋介石総統の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、白色テロで台湾を支配した独裁者であり、自身の息子に権力を世襲し、事実上の君主として振舞ったとして非難される面の両面を持っている。


中華民国(台湾)での評価

 戒厳令時代には、中華民国の指導者、中国4000年の道徳の体現者として尊敬の対象とされ、蒋介石の銅像が中華民国のあちこちにあった。  また、中華民国の学校には、孫文と蒋介石の肖像画が必ず飾られ、蒋介石にかかわる切手などが必ずあった。さらに、蒋介石は、高雄に中国大陸にある西湖をまねた澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。

 実務的な貢献としては、大陸から撤退するに当って、大量の美術品、巨額の金銀や優秀な人材(料理人までも)を運び込んだ。これらが、後のインフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。
 膨大な故宮博物院の所蔵品も、この時に潜水艦で運ばれた。

 また、蒋介石が統治したから、戦後の台湾が共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。

 しかし、一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石と蒋経国を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ人が多い。
 また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止(当時の台湾人は日本語の文献を通じて世界の最先端知識を学んでいた)したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。

 蒋介石は、息子の蒋経国への台湾(中華民国)の支配権の世襲を準備した。世襲は、共和国の権力委譲としては不適切であったが、蒋経国は、最後まで「反攻大陸」を望んでいた父親とは全く別の道を歩んだ。
 経国は、いくつもの特務機関や秘密警察を使って台湾人への過酷な支配を続ける一方で、「私も台湾人だ」と発言、台湾の経済復興政策・民主化政策・本省人登用政策などの台湾本土化政策を推進した。

 戴国は「(蒋介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流だったが、戦略家の器ではなかった。」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが蒋介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか。」としている。


日本での評価

 1927年、蒋介石率いる中国国民革命軍(革命というのは、共産革命ではなく三民主義に基づく革命)が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという南京事件が起きた。英米の軍隊が、この行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。
 しかし、この政策は裏目に出て、むしろ、中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は、主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる。

 蒋介石は、日本軍との戦いには消極的で、むしろ、中国共産党を警戒していた。しかし、張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦った。その当時の自身の日記では、日本を「倭」と表記して、終始蔑んでいた。

 日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。  これは、当時、中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍が連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。この撤退については、蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。 


■ 日本に関するエピソード ■

 蒋介石は、日本を連合軍が分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は、日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える。」と述べている。(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり)

 終戦時に中国にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80〜90万人で、復員・引揚には数年を要するといわれていたが、蒋介石の便宜によって10ヵ月で復員・引揚を完了させた。  しかし、BC級戦犯として、多くの罪もない日本軍人を処刑したのも蒋介石の政府だった。  カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表して連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった(カイロ会談において、日本の分割統治計画があった)。  もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。  蒋介石は、文化や習俗において、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う日本人の話を聞いて、感心したという。(中国人にはこのような習慣はない。)

 第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍(拉孟では32倍・騰越では25倍)を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している(相良俊輔著『菊と龍』光人社ほか)。

 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮中将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府は、これを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。  1949年10月、中国人民解放軍が金門島などへ大挙侵攻を図った際は、旧日本軍の根本博中将(終戦時に張家口でソ連の大軍を迎撃撃破し、在留邦人を無事避難させたことで有名)らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している(中村祐悦著『白団ー台湾軍を作った日本軍将校たち』芙蓉書房ほか)。

 蒋介石は、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている(許國雄著『台湾と日本がアジアを救うー光は東方より』明成社ほか)。




中華人民共和国での評価

 中華人民共和国は、蒋介石と大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、蒋介石の評判はすこぶる悪かった。

 しかし、国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって台湾独立を牽制する狙いがあったと見られている。


■ 陽明学の信奉者だった 蒋介石

 蒋介石は、陽明学の信奉者だった。遺されている小物や衣服、写真を見ると、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、宋夫人と茶などを楽しむ程度だった。

 現在、台湾民主紀念館(旧・中正紀念堂)に展示されている物は、そのほとんどが外国から贈られた勲章や、孫文から与えられた掛け軸である。


■ 蒋介石にちなんだ事物


蒋介石のキャデラック(民主紀念館)
台 湾

中正国際空港(現・台湾桃園国際空港)
 桃園県にある台湾全島最大の国際空港で、英語では蒋介石の英語表記の略をとりC.K.S airport と呼ばれた。2006年、台湾桃園国際空港に改称された。

中正紀念堂(現・台湾民主紀念館)
 蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた記念館。

中正路
 中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。

紙 幣
 没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蒋介石の肖像が使われてきた。
李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、200元紙幣(流通量は極めて少ない)に描かれている。なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。


日 本

箱根彫刻の森美術館中正堂
 蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた(箱根彫刻の森美術館内)。

中正神社
 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立(愛知県幸田町)。 蒋介石頌徳碑- 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。

中正堂会館
 日華文化協会が入居している(港区南麻布 1968年竣工)。


■ 台湾における 脱蒋介石化

 民進党政権は、台湾正名運動の一環として、台湾各地に残る蒋介石色の排除を進めている。しかし、民進党政権主導による脱蒋介石化には、最大野党の国民党と、この分派である親民党や新党など泛藍連盟の支持者からは批判的である。

 最近では、これにもとづいて、行政院が2007年に蒋介石を記念する中正紀念堂を台湾民主紀念館と改名したが、立法院が改名に関する法律「台湾民主紀念館組織規程」を否決したため、1ヵ月余りで中正紀念堂に戻されることとなった。
 しかし、以後も館内の蒋介石像は228と書かれた横断幕や多数の凧によって覆い隠され、館内館外の看板も民主紀念館のままで、これまで行われていた中華民国軍の儀杖兵の配備も廃止されたままになっている。

 また、高雄の文化中心(文化センター)の蒋介石像も撤去された。


蒋介石の銅像を集めた 慈湖紀念雕塑公園

 昨近、蒋介石は、「独裁者」として、すっかり忌み嫌われた存在となっている。国民党の独裁時代、全国の学校や公園などに建てられた蒋介石の銅像は、民主化の波と共に撤去されている。
 桃園県大渓鎮慈湖にある「慈湖紀念雕塑公園」は、台湾の民主化に伴って行き場のなくなった銅像を一箇所に集めて整備している。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上るといわれている。

 この公園のある場所は、蒋介石が故郷の浙江省渓口鎮の風景によく似ていることから好んで滞在した場所で、後を継いだ息子の蒋経国と共に、蒋介石が、この公園に眠っている。

集められた蒋介石の銅像群


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