
はっ、と悪夢から覚醒し、目覚めた勢いで開口した瞳の中に勢いよく飛び込んできたのは、見慣れた自身の部屋の天井だった。
クリーム色の少し高さのある天井。起きた時いつも最初に目にするいつもと変わらない朝の光景。
試しに寝たままの姿で首だけを動かし、部屋の中を隈なく捜索してみるが、どう見てもここはあの薄気味悪い暗い世界ではなく、綺麗とまではいかないが、男の部屋にしては整理整頓された自身の部屋。
使い慣れた自身の部屋を見ることでやはりあれは夢だったのだと確信し、ほっと安堵の溜息を吐き出した。
「あり得ないぐらい、壮絶で印象深い嫌な夢だった……」
変な夢のせいか、寝てきっちり休んだはずなのに休んだ気が全くしない。逆に寝る前より体が重くてだるい。軋む肩をぐるぐる回しながら起き上がり、ぼさぼさになった寝ぐせだらけの頭を掻いていると、下から聞き慣れた自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「徹君!朝ご飯出来たわよ。下りてらっしゃい〜!」
「今、行く!」
部屋に置いてある時計で時刻を確認すれば七時をちょっと過ぎたところ。いつも起きる時間より随分と早い。あの変な夢のおかげで、かなり早い時間に起床してしまったらしい。
「変な夢だったけど、そのおかげで早起き出来たから良しとするか」
夢見は最悪だったが、早く起きれた事は良かった。こんなに早く起きたのはいつぶりだろう。
そんな事を考えながら徹はクローゼットから紺色の制服を取り出し、颯爽とパジャマから制服に着替え階段を一気に駆け下りると、リビングの扉を軽快に開いた。
「おはよう、母さん」
「あら、一回呼んだだけで下りてくるなんて……今日は雨でも降るのかしら?」
窓際からワザとらしく空を見上げる母親の行動に、徹の顔の筋肉が不自然に引きつった。
「それどういう意味だよ、母さん」
「どうって、そのままの意味よ。いつもは三回以上声をかけないと下りてこないのに、今日は一回呼んだだけで下りて来たからお母さんびっくりしたのよ。で、滅多にない事だから絶対雨が降るかなぁって」
「それで雨が降ったら俺は何者だよ。雨乞い氏か俺は。ったく、たまたま早く目が覚めただけだっていうのに……。まぁいいや。それよ……り……」
飯と発言しようとした言葉は発せられることなく喉の奥に引っ掛かり、徹はテーブルの上に置かれた母親が用意したと思われる朝ご飯の存在に、動きが完全に停止してしまった。
そして次の瞬間、徹は机の上の物体を指差し、母親に食いかかっていた。
「母さん!何なんだよ、これは!」
「何って……朝食よ?」
「これのどこが朝食だよ!どう見たって、ビスケット一枚じゃないか!」
そう。徹が指差した朝ご飯の正体はなんと、真っ白なお皿に丁寧に乗せられたビスケット一枚だったのだ。
高校二年生という食べざかりの徹としては、目の前の朝ご飯は信じられない代物。
「普通朝ご飯って言ったら、ご飯かパン、味噌汁かスープ、卵焼きかウインナー類のおかずが基本だろ!なのに、朝ご飯がビスケット一枚って、どういう神経してるんだよ母さんは!」
「失礼ね。母さんの神経はいたって正常よ。まともに働いてるわ」
「……これのどこが正常なんだよ。どう考えたって異常で、まともに神経働いてねぇだろ……」
頭の中にネジが存在するとなれば、間違いなく母親の脳内ではネジが五、六本抜け落ち、ネジが紛失していることだろう。
母親は見た目何でも出来そうな有能人間を装ってはいるが、実際は何もできない無能人間。皿を割る事なんて日常茶飯事。しかも、何もない平らな場所で躓いてこけ、生傷を絶えることなくその身に作り、酷い時は買い物の最中に財布を二、三回掏られた事もあった。
体に傷を作っても傷はいずれ治癒するので特に何も言わなかったが、流石に財布を掏られた時には堪忍袋の緒が切れ、母親のずば抜けた間抜けさに怒鳴った記憶がある。だが母親は自分が説教しているのにも関わらず反省した様子など全く見せず、これには怒鳴り散らしていた自分が馬鹿みたいだと母親の態度に呆れざる負えなかった。
……本当に世話のかかる母親だ。この調子だと、どっちが親なのか分からない。むしろ自分が親のような気がしてきた。そのくらい母親は抜け過ぎていて目が離せない危険人物。
目を離した隙に何をしでかすか、想像しただけで恐ろしい。
「まったく……。朝飯はもういいや。コンビニでまともな飯買う」
「そう?じゃあ、このビスケット母さんが食べてもいい?」
「俺に用意しといて自分が食べるのかよ!」
「だっていらないんでしょ?」
「確かにいらないけど……何か無性に腹立つ」
何時、何処で何をしでかすか分からない母親と一緒に生活していると、心臓がいくつあっても足りない。予備の心臓があと二、三個ぐらい欲しい。
ちらっと横目で母の姿を盗み見れば、母親は満面の笑みでビスケットに齧りつき、満足そうにビスケットを頬張っている。ゴーイングマイウェイな母親の行動を見ているといつも思う。父親は母親のこういう行動を見過ぎて心臓病になって死んだのではないかと……。
うちの家系は母親と2人暮らし。自分が小さい頃父親は心臓病で亡くなったらしいが、正直自分は父親の顔をこれっぽっちも覚えていない。薄情な気もするが、小さかったから覚えてないのも仕方ない。仏壇に飾ってある写真だけが父親の顔を知る唯一の方法。
写真の父親はとても穏やかで、とても優しそうだ。だからきっと母親のすることなすこと全てハラハラしていたに違いない。2人のやり取りが脳内で張り巡らされ、徹は思わず乾いた笑みを漏らした。
「やべぇ……俺も父さんみたいに心臓病になって早死にするかも……」
「何か言った?」
「いや、別に!母さんの空耳じゃないか?それじゃ、行ってきます!」
ソファーに置いておいた学校指定の学生鞄を引っ掴み、玄関で少し薄汚れたスニーカーを履くと、徹は勢いよく玄関の扉を開け、朝日が照る眩しい外へと軽快に飛び出していった。
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