
序章
真っ黒な、真っ黒な、何もない黒い空間。
「どこだ、ここ?」
目は確実に開口し、周りの風景を眺めている。けれど、辺りが想像以上に暗いせいか、もしかしたらまだ目を閉じたまま開いてないんじゃないかという不安が押し寄せ、指先で瞼がちゃんと持ち上がっているか確認してみれば、瞼は瞬きの時以外瞳に覆い被さっていない。
正真正銘、目はぱっちりと開いている。それはもうぱっちりと。
「夢……か?」
昨日は確か適当な時間にベッドに潜り込み、そのまま寝た事を覚えている。だとしたら、今体験しているこの不思議……いや、不愉快な珍体験は夢という事になる。
変な夢に遭遇してしまったなぁと思いながら、何もない黒い世界をてくてく歩くが、いくら歩いても周りの景色が変わる事はない。終わりの見えない黒い世界。同じ風景ばかり続く変わり映えしない道を歩くことに飽きると同時に次第に襲ってくる疲労感。疲労が溜まる一方の体は徐々に重さを増し、鉛のように重くなっていく足を動かすのが苦痛に思えてきた。
しかも、これは夢のはず。夢の世界では感覚など感じないはずなのに、歩き続ける足には激痛が走り、体が悲鳴を上げる。体感する痛覚にこの暗い世界は夢の世界ではなく、現実世界なんじゃないかという錯覚に陥りそうになる。
どのくらいの距離、時間をこの空間でさ迷った事か。ここには時刻を知らせる時計も歩数を調べる万歩計も存在しない。足の痛さから推測してかなりの歩数を歩いているはず。
無限に続く出口のない黒い世界に嫌気がさし、歩くのを止めその場に腰を落とすと、乱暴に足を投げ出した。自分の体重や重力から解放され足の痛さが少し楽になった気がする。
床についている手で今座っている場所を確かめるように撫でてみるが、実際ここが床なのかも怪しい。もしかしたら、今座っている場所は天井などという実際にはあり得ない場所かもしれない。
だが、そう思ってしまうほど、今いる空間は漆黒の闇に包まれているのだ。上下左右の区別なんて付けようがない。
「何なんだよ……。一体、何がどうなってるんだ?」
訳が分からない。自分の夢なのに、訳が分からないまま歩を進め、今足を投げ出し休憩している。一体今見ている夢で自分は何をしていのだろうか。
夢にしては訳が分からず、最悪と言っていいほど夢見が悪い。悪すぎる……。こんな夢は初めてだ。
「絶対に厄日だ。じゃないと、絶対にこんな意味不明な夢見ねぇもん……。ん?」
頬杖をつき、夢見の悪さに愚痴を零していると、遠くの方から何かが聞こえ、思わず腰を持ち上げ耳を澄ました。神経を耳に集中させ注意深く遠くの音を聞きとれば、足音らしき音が遠くの方から微かに聞こえてくる。
次第に大きくなる足音。足音は確実に自分のいる場所に近づいてきている。
「……この世界のラスボスでも登場するのか?」
皮肉を込めて言葉を零せば、その言葉に答えるかのように現れる一つの影。
どんな凶暴なラスボスの登場かと期待を込め、隙あらば勇者のように華麗に敵を倒してやろうと意気込み顔を上げたが、先にいる人物を視界に収めた途端、あんぐりと開いた口が塞がらなくなってしまった。
正直、どう反応していいか分からない。
……その理由は、目の前にいる人物にあった。
頭にはこの世界と同じ黒色のシルクハット。左目には怪我をした時に装着する白の眼帯。そして右手に何か白い物を握りしめている。何を握りしめているのかと目を凝らして物を見てみれば、どうやら紙パックが握られているらしく、紙パックの表面に大きな黒字で「濃厚牛乳」と書かれていた。
あり得ないほど趣味の悪いコーディネイト。そしてなぜ牛乳がオプション。
しかも変な格好をして目の前で仁王立ちしているのは、10歳いくかいかないかという、ランドセルを余裕で背負っていそうな小さな少年なのだ。これには顔の筋肉が不自然に引きつり、乾いた笑みしか口から出てこない。
「は、ははは……あり得ねぇ……。あ、悪趣味過ぎる」
怪しい少年の登場に自然と警戒心が強くなる。……いや、警戒心が強くならない方がおかしい。人間誰しも、不審人物には警戒心を抱く生き物。自分の反応が一番正しい。
「親は一体子供にどういう格好させてんだよ。一回でいいから親の顔が見てみたいね。……親も悪趣味な格好してたりして……」
きっとあの格好をさせたのは親だと勝手に解釈し、少し逸らしていた目線を元の位置に戻せば、目の前に存在する謎の少年はまっすぐこちらを見据え、何やら口をパクパク動かしている。
何か伝えたがっているようだが、肝心の少年の声がここまで届かず、全く言葉を聞き取れない。
「もっと大きな声で言ってくれないか?聞こえないんだ!」
懸命に耳を澄まし、彼の言葉を聞き取ろうと努力するが、少年との間にまるで分厚い壁があるかのように少年の声は遮断され、こちら側に届かない。
このままでは埒が明かないと、少年の言葉が聞き取れる場所まで移動しようと、少年に近づこうと歩み始めたが、どういう訳か歩いても歩いても少年に近づく事が出来ない。それどころか、少年に向かって歩いているのにも関わらず、少年との距離がどんどん離れていく。
「本当に何なんだよこの夢は!俺の夢なのに理解不能の域に達してるぞ!」
悪夢に混乱し、叫びながら少年との差をこれ以上開けまいと必死に足を動かすが、先にいる少年はひたすら口を開口し続け、何か訴えるかのように聞こえない言葉を発し続けている。
「だから聞こえないって!何でもいいから待ってくれ!今そっちに行くから!」
そう少年に叫んだ瞬間だった。
突然黒の空間がぐにゃりと歪み、それと同時に足元がもつれ、体がゆっくりと黒い地面に向かって倒れていく。そして、襲いかかってくる激しい睡魔。
瞼が重く、目を開けていられない……。
「本当に……何なんだ……よ」
悪夢にも程があるだろうと、意識を失う前に、誰かの声が耳に届いた気がした。
― もうすぐ ―
という、大人びた男の声が……。
だが、この声はすぐにかき消され、次に目が覚めた時には耳に届いた謎の声なんて記憶からすっぽりと抜け落ちていた。
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