日本とペルーの移住小史
Los japoneses en Perú / los peruanos en Japón
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「日系ペルー人」から「ペルー系日本人」へ
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※「Convenio Kyodai」の会報に2004年から2005年にかけて掲載したものに一部加筆・修正


(1) ペルー最初の日本人

 

 ペルーにおける日本人の最古の居住記録は、1614年のリマ市人口調査の「20人」ですが、日本人がペルーに向け、南米初の集団移民を開始したのは明治32(1899)年でした。

 両国のあいだには、明治5(1872)年に「マリア・ルス号事件」が勃発しています。これは、維新後の日本がはじめて経験した国際問題であり、中南米初の国交をペルーと結ぶ契機となった出来事です。

 事件の発端は、中国人移民(とは名ばかりの奴隷)230人をペルーへ運ぶマリア・ルス号が横浜に寄港したさい、中国人2名が脱出したこと。虐待に耐えかねての行動でした(ある調査では航海中に30〜50%が虐待で死亡したとしています)。日本側は人道的配慮から脱出者ばかりではなく、船上の「移民」全員を解放、本国へ帰国させました。

 新興国日本の「越権行為」に対してペルー側は猛反発しました。当時、ペルーから見れば、日本などはアジアの片隅の後進国以外の何者でもありませんでした。日本は諸外国との不平等条約に甘んじる立場にあり、たとえ、領海内といえども、外国船に対する警察権は「やりすぎ」と思われたのです。しかし、国際社会の仲介で、事態はなんとか収拾されました。

 そのころ、砂糖などの輸出に沸くペルーは未曾有の好景気。しかし1854年に黒人奴隷の解放令が出され、労働力不足は深刻化し、以降20年間で9万人近い中国人クーリーが半ば強制的にペルーに連れていかれました。彼らは各地で反乱を起こし、その結果、「もっと従順な」新移民が求められました。白羽の矢が立ったのが、日本人でした。

 以降、日本からの移民は続々と太平洋を渡り、最終的には日系大統領まで生み出しました。 そして現在、彼らは父祖の国「日本」で就労し、家族とともに定住しています。「日系ペルー人」から「ペルー系日本人」へ。日系移民のペルーでの足跡を駆け足でたどりながら、日本に住むその子孫や家族の将来を考えてみようと思います。

初期移民

 

 

(2)日本人移民の黎明(れいめい)

 

 明治32(1899)年、790人の男子だけの日本人移民が、ペルーのカヤオ港に到着しました。南米における集団移民の嚆矢(こうし)です。彼らの多くは、錦衣帰郷を願う「出稼ぎ」。ペルーに関心はなく、「募集していたから応募した」だけでした。

 彼らが送り込まれたのは、「耕地」と呼ばれる大規模なプランテーションで、砂糖キビ耕地の小作人や、製糖工場の作業員として4年の契約を結びました。

 いくつかの不運が重なり、初年度には79人の若者が感染症や過労などで死亡し、移民の暴動も頻発しました。移民側も雇用側も、お互いへの理解が低すぎたといえます。

 ただし次年度以降は、移民もペルーの環境に慣れ、耕地側も日本人の「扱い」を理解するようになり、死者は激減。騒擾も下火になりました。

 当時、ペルーには日本人女性はほとんどいませんでした。 そこで、健全な生活には女性や家族移民が欠かせないと判断した日本の外交当局により、明治36(1903)年の第2回集団移民以降は、女性を含む家族移民が送り出されました。

 厳しい耕地生活でしたが、子どもの数も増えました。そこで明治41年、カニエテ郡のサンタ・バルバラ耕地に南米大陸初の日本人小学校が誕生します。建設資金は、貧しい移民たちが捻出した、まさに浄財でした。学校では日本の国定教科書が取り寄せられ、大卒の学士が教鞭をとりました。その教師の名は「上野泰庵」。日本の仏教教団が南米に最初に送り出した布教師で、これまた南米最古の仏教寺院「泰平山慈恩寺」を作った僧侶です。(慈恩寺も明治41年創立)。快僧であり、名教師として記録されています。寺は、小学校の隣にありました。以降、ペルー各地に日本人小学校が生まれていきます。

サンタ・バルバラ日本人小学校

 

(3) 耕地から都市へ

 

 明治39(1906)年の第3回移民以降、後続移民の耕地での契約期間は、従来の4年から大幅に短縮されました。続発した移民の逃亡やスト、殺傷事件などを回避するためです。契約満了後は、耕地に残る者もいましたが、首都のリマや隣接する港湾都市・カヤオをめざす者もいました。そしてその数は徐々に増加し、彼らは都市の片隅で、露天の飴売りや雑貨売りをしたり、コックや庭師として、上流家庭で雇われたりしました。また、手先の器用さを活かすことができ、開業資金が少額ですむ床屋は、日本人の代名詞にもなりました。明治40年には早くもリマ市に日本人理髪業組合が結成されています。

現在のマンコ・カパック王像 

 露天商から中小の商店へ。彼らの武器は勤勉さと実直さでした。そして、相互扶助の連帯感。無一文から出発した移民たちでしたが、のちにはパン屋や牛乳商、工場で財を成した者、ペルー有数の商社を営業する者も生まれました。事業の拡張とともに店員も必要になり、気心の知れた同郷人が日本から招聘呼されました。これが「呼び寄せ移民」です。他の南米諸国の移民とは違い、ペルーでは商業移民が主流だったのはこのためです。

 明治末期から大正にかけ、県人会や同郷人会が矢継ぎ早に首都圏や地方都市に設立され、「移民社会」が形成されました。大正6年には、在留邦人の中枢団体である「秘露(ペルー)中央日本人會」が誕生しています。

 しかし、排他的な繁栄を誇る新興の外国人集団「Japoneses」(ハポネセス)は、次第に、ペルー社会との溝を深めていきます。彼らとの友好関係がなくては、ペルーの日本人に未来はありません。そこで生まれたのが「日秘親善」というスローガン。大正10(1921)年のペルー共和国独立100周年記念祭では、中央日本人会や在留邦人は、インカ帝国を建国したという伝説の太陽王「マンコ・カパック」の巨大な銅像をペルー国へ寄贈し、リマ市民の賞賛を浴びました。このとき、日本人が契約移民としてペルーの地を初めて踏んでから、22年の歳月が流れていました。

 

 

(4) 「地方分散」への挑戦と挫折

 

 都市に進出し、商業分野で排他的な繁栄を誇ったペルーの日本人移民。店員として同郷人も多数呼び寄せられ、1930年代のリマ首都圏では10人に1人が日本人になりました。当然、ペルー国民の排日感情は高まりました。

 そこで提唱されたのが、「都市から地方への分散移住」。在リマ帝国公使館の鼓舞のもと、日本の国庫金(20万円)と在留邦人の拠出金をあわせ、拓殖組合が設立され、中央森林地帯の「プニサス山」に3000町歩を購入。1931年には第1陣(5家族)が入植しました。これは日系ペルー人史上、唯一の組織的な開拓でした。

プニサス第一回入植家族(鹿児島出身の室屋誠治一家)  

 入植者は木を倒して地をならし、家や道を作り、コーヒーの苗を植えました。当初は雑草を食いつなぐ厳しい生活で、幼児の早世が相次ぎましたが、後続世帯が入植し、1934年には日本の文部省公認の在外校「プニサス日本人小学校」も建設されました。

 ところが、1941年の日米開戦後、プニサスの土地はペルー政府が没収。 その後、土地は移民の手に戻りましたが、上級学校の不足やテロによる治安の悪化から山を降りるケースが相次ぎ、1960年代には廃れました。現在、同地に日系人はひとりもいません。小学校の校舎は、現地住民の住居になっていますが、グランド脇には公立の小さな学校が建っています。

 往時、このグランドでは「天長節」にあわせた運動会が開かれ、子どもから大人までが参加しました。プニサス山に暮らす老若男女の日本人たちの歓声の舞台は、今では、ペルーの子どもたちの遊び場になっています。

 プニサス植民地は、戦争がなければ入植の事例としては成功でした。しかし、最盛時でも入植者は60〜70人ほどで、「邦人の地方分散」という主要目的を達成したとはいえず、戦後は、ほとんどの日系人に忘れ去られました。

 一方、プニサス植民地と同時期の1932年、カニエテ郡カサ・ブランカに日本人の慰霊塔が建設されています。建設資金は、有志多数の寄付だけ。プニサスにつぎ込まれた費用の約1/150以下という少額でした。カニエテ郡内には日系唯一の寺院である「慈恩寺」があり、この慰霊塔の完成をうけて、カニエテは「移民の聖地」として特別な意味づけをされていくようになります。

カサ・ブランカ日本人墓地の落成式(1932年)

 移民草創期の「犠牲」である「悲惨な移民たち」を象徴する「聖地」は、その後、「永住者」としてペルーに根を降ろしていった日系人に、精神的な影響を強く与えました。

  

  

(5) 子供の教育

 

 日本人移民の大きな関心のひとつは、子どもの教育でした。

 「いつかは錦衣帰郷」と考える戦前の在留民にとって、子どもには「日本の教育」を与えたかったのです。しかし、当初は教師もいなければ学校もありません。そこで彼らは自分たちで学校をつくり、僧侶や学のある移民が代用教員となりました。

 初期の学校は寺子屋式でした。ペルー最初の日本人小学校は明治41年にサンタ・バルバラ耕地に開校しています。その後も各耕地では小学校が生まれましたが、多くは昭和10年代に廃校になりました。耕地から日本人が減少したためです。

 一方、大正時代には各都市に日本人小学校が建設されます。個人経営のものもありましたが、里馬(リマ)日本人小学校は、在留民一般の寄付を広く集め、大正9年に開校しています。当初の生徒は23人で、最盛期には1600人を数えました。これほどの規模の日本人校は、日系移住者が多かったブラジルにも存在しませんでした。

 里馬(リマ)日本人小学校は、日本から派遣された教員が日本文部省の選定教科書を使って講義するペルー初の「在外指定校」ですが、法律によってスペイン語も教えられました。この他、いくつかの学校も開設され、日本人教育は大いに賑わいます。第2次世界大戦が始まる前、ペルーには累計50もの日本人学校がありました。しかし、戦争勃発によって、少数をのぞいて閉鎖・接収となりました。

里馬日本人小学校

 これらの学校の多くは、ペルー側からも日本側からも公認を受け、卒業後はどちらの学校へ進むことも制度上は可能でした。ただし、ペルーには日本人の上級学校は、ほとんどありませんでした。そこで、日本人小学校の卒業生の一部は、日本の親戚の元へと送り出され、日本で教育を受けました。一方、ペルーの上級学校に進んだ子どもたちも少なからずいました。戦前すでに、ペルーの国立大学へ入学した2世もいます。

 在留民は、生活が苦しくても子どもの教育に熱心に取組みました。戦後に医学、技術、法律、教育、産業、文化、政治といった多くの分野で2世が活躍しましたが、戦前からの教育熱が見事に結実した、といえるでしょう。

 

 

(6) 届かなかった「日秘友好」の願い

 

 1929年にぼっ発した世界恐慌はペルーの社会にも大打撃を与えました。1930年には、親日家だったレギア大統領が民族主義を標榜したサンチェス・セロ中佐の革命によって倒されました。

 以降、在留邦人への逆風は、法律の面でも明確に現れるようになりました。とくに、32年に発布された「8割制限法」は、日本人の経済活動を圧迫しました。同法では、商店や企業、学校において、従業員のうち8割はペルー人でなければならないことを義務付けました。同族経営だった日本人商店への衝撃は計り知れないものがありました。

 36年には2世のペルー国籍を制限もしくは無効とする大統領令が発布。繁栄を謳歌していた日本人に、冬の時代が訪れたのです。

 そこで、在留邦人は「日秘親善」を掲げ、リマ市制400年を記念して近代的なプールを寄贈しました。これが「ピシーナ(プール)・ニッポン」です。ところが、数年のうちに「ピシーナ・ムニンシパル」(市営プール)へと名称が変更されてしまいました。

ピシーナ・ニッポンの建設風景

 39年には排日暴動のきっかけになった、運命の「古屋事件」が発生しました。これは、日本人の商売敵同士が相手を追い落とすために、権力(日本公使館、ペルーの政治家、官憲)と結んで、暴力行為に出たというものです。その騒動のさなか、日本人に暴力を加えられたペルー人女性が死亡。彼女は、暴行を受ける日本人をかばおうとした勇気ある女性でした。

 排日の叫びはたちまち全国に広がり、ペルー市民は狂ったように日本人商店に殺到、ありとあらゆる物を奪い、破壊しました。被害は600余軒、再起不能な54家族316人はすべてを失い、帰国しました。

 41年には日米開戦。ペルーも日本に宣戦を布告し、在留邦人の資産はすべて凍結・没収され、あらゆる活動が制限されました。日本人学校は閉鎖され、日本語の使用も禁止になりました。

 「日本プール」に込められた「友好」の願いは、届きませんでした。

 1949年。敗戦の意気消沈がつづく日本人コロニアが、久しぶりに湧きました。「フジヤマのトビウオ」こと、競泳の古橋広之進選手ら一行がペルーを訪問したからです。

 競泳会の会場はもちろん元「ピシーナ・ニッポン」。在留邦人は山のように詰めかけました。まだペルーと日本の講和条約が締結されていなかった当時、日本の国旗掲揚はご法度でしたが、ペルー側の厚意で特別に許され、かつて「日本」の名を冠したプールに、堂々と日の丸があがりました。

 在留邦人たちは、そのひるがえる日の丸に目頭を熱くし、鳴咽にむせびながら、君が代を誇り高く歌いました。このときの熱気が、2世の若手と1世の中堅に自信を回復させたといわれます。そして、ペルーの邦人社会は、復興・定住の新しい時代へと大きく歩み出していくのです。

 * * *

 市営プールは1951年に取り壊されました。

 

 

(7) 運命の日米開戦

 

 1941年の12月7日(日本は8日)、ペルーのリマは初夏の日曜日でした。多くの在留邦人は休日の娯楽を楽しみ、ラジオからは哀愁と陽気さの入り混じったペルーのコロニア風音楽が流れていました。といっても、ラジオの普及度は低かったのですが、午後の中南米向け日本語放送を聞いている数少ない日本人もいました。

 「その瞬間」について、『在ペルー邦人75年の歩み』(ペルー新報社、1974)は、以下のように伝えます。

 【聴衆者は(中略)耳をそば立てた。

「臨時ニュースを申し上げます」昂奮した声音で2〜3回くり返す(中略)

 「重大発表を申し上げます…

昭和16年12月8日、陸海軍大本営発表…

帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋に於て米英軍と戦斗状態に入れり!」

 これでみんな椅子から飛び上がった。戦争が始まった!

 (日本の海軍航空隊がハワイの真珠湾になぐり込みを掛けたそうだ。エライことになったぞ!)】

 こうして、祖国は第2次世界大戦に身を投じたのです。中南米諸国は合衆国の「裏庭」とされていましたから、在留邦人への弾圧は、当然のように発生しました。

 開戦後、直ちに日本語新聞および日本人学校は閉鎖。翌年には邦人資産は凍結。また、日本公使館員は軟禁。邦人有力者は、正当な理由もなく次々と警察に捕縛され、その家族、外交官を含めた計1771名が、北米の「戦時強制収容所」に送られました。

 これは合衆国政府の指示でした。アメリカは、ペルーの日本人が武器を取って北米へ攻め込むと信じていたのでしょうか。

 しかし、当時の在留邦人に「愛国者」は多かったものの、そんな行動を実際に取ろうと思った者がどれだけいたかは疑問です。

 北米へ強制連行されたひとりである故・小川長男さん(元リマ日本人小学校教師)は、輸送船上で、こう詠みました。

「この大き戦の現実の一隅に敵国に送らるるわが一家あり」

テキサス州シーゴビル収容所

 北米へ送られた人たちはその後、捕虜交換船で日本へ戻されて戦後も日本に残った人、再びペルーに戻った人、北米に残った人など、多様でした。

 ペルーの国交断絶、対日宣戦によって、在留邦人は「敵性外国人」となり、折からの排日感情とあいまって、苦しい立場にたたされます。邦人資産は凍結されましたが、単純な凍結ではなく、官憲によって店舗閉鎖もしくは譲渡を強要されたり、営業妨害を受けたりの末の凍結でした。集会の禁止、日本語使用の禁止、旅行の制限なども加えられ、事実上、邦人社会は崩壊しました。

 1899(明治32)年に始まったペルーへの日本人移住の歴史。約半世紀ののちに、戦争という、一般人には避けようがない大きな運命の濁流の直撃を受けて、移民史は根本的な変化の時機を迎えることになりました。

 

 

(8) 「戦後コロニア」へ至る苦悩

 

 1945年8月の日本の敗戦は、ペルーの在留民コロニアにも計り知れない衝撃を与えました。冷静に敗戦を受け止める者や茫然自失の態をみせる者たち(「負組」)が多かったのですが、一部には、敗戦を受け入れない者たち(「勝組」)もいました。

 勝組は負組を酷く脅迫したり、殺害予告をしたりしました。ブラジルでは勝組によって実際に殺人事件も起きていますが、ペルーでは、それほどの事態には発展しませんでした。

 ※現在の日本で「成功者」を「勝組」と呼称しますが、もともとは移民の世界などで使われていた古い用法です※

* * *

 もはや祖国へ錦を飾るどころではありません。日本では、生きていくのもやっとらしい、という噂も入ってきます。外地から引き揚げる軍人や民間人で、狭くなった国土は、溢れんばかり。それならば、住み慣れたペルーを第二の故郷と定め、この地で生きていくことを彼らが決心したとしても、不思議ではありません。しかも、もともとは方便であったかもしれませんが、二世の子どもたちの多くは、すでにカトリックの洗礼を受けていました。また、ペルーの学校で中等過程以上の教育を受けた子弟もいました。

 「敵性外国人」というレッテルのもと、在留邦人の資産は凍結され、在留民社会も多くの指導者が北米に連行されたままでしたが、ここに、「在留民」は「日系ペルー人」「ペルー人」として生きていくことになりました。積極的な同化の道です。戦時弾圧が徐々に解除されたことも同化に拍車をかけました。

 一世にも「ペルーの市民であるならば、我々もカトリックに改宗しなければならない」という意識が広がります。仏教にはもはや、葬祭方面での需要しか残されていませんでした。仏教の布教師が日本から派遣されないこともあり、移民出身で「読経師」と呼ばれた民間の宗教家たちが、一世の死出の旅立ちを見送りました。 * * *  1946年以降、回生への動きは活発化します。日本では知られていませんが、このころから、個人もしくは団体によって、日本へ盛んに物資や食料、米ドルが送られています。天皇陛下にチョコレートを送った子どもたちもいました。とくに、凄惨な戦場と化した沖縄からの出身者たちは、莫大といっても差し支えない資金を集め、故郷に送りました。

ペルー新報(リマ市プーノ通りにあった懐かしい旧社屋。増設された3階部分は立派な劇場である

 当時は、日系団体も日本の在外公館も、邦字紙もないことから、募金を呼びかけることは非常に困難でした。まさにクチコミで、情報は伝わっていきました。

 この不便を一気に解消し、日系社会に希望の火を再びともしたのは、1950年に創刊された「ペルー新報株式会社」でした。

 出資は在留民一般に広く求めましたから、一口株主がほとんどでした。

 「日本語新聞など、もはや時代遅れ」と批判する者は、一世たちにも多かったのは事実ですが、「ペルー新報」が戦後の日系社会の中枢に位置したこともまた、紛れもない事実です。

 

 

(9) 二世の時代

 

 戦前からすでに、高いレベルの中等教育をペルーで受けていた日系二世もいました。しかし、多くの親は我が子に対し「日本での教育」を望みました。

 ところが、日本の敗戦によってペルーへの同化を余儀なくされた日系人。子どもたちを日本へ送ることはできなくなりました。そのかわり、ペルーで教育を受けさせることに「本腰」が入ったのです。

 小作人や商店の使用人が過半数だった日本人一世たちは、無理をしてでも、子どもたちに高等教育を授けようとしました。高い学歴を身につけ、子どもたちの社会的な上昇を期待したのです。

 大学や専門学校以上の学歴を持つ二世以降の世代の日系男性は、じつに60%近くに達していました。ペルー全体では20%程度ですから、日系人の進学率は、極めて高いといえます。

 入学先は、学費の安い国立サン・マルコス大学や国立農科大学、国立教育大学、国立工科大学。なかでも、南アメリカ最古の大学であるサン・マルコス大学への入学者が多かったようです。同大は共産思想の温床とも目されましたが、リベラルで理想主義、芸術を重んじる学風に感化された日系学生は少なくありませんでした。

 大学には、芸術家の卵もたくさんいました。50〜60年代に国立大学で学んだ日系学生は、国家的に見ても学歴エリートでした。

 高等教育の結果、非常に優秀な日系の医師や技術者、弁護士、薬剤師、教師が輩出されました。そして彼らの多くが、親譲りの勤勉さと正直さを武器に、ペルー社会の「中の上」クラスに食い込んでいきます。ちなみに、ペルー社会の「上の上」は、特権的な実業家や軍人、伝統的政治家、カトリック聖職者などのコミュニティーであり、そのクラスに日系人が入り込んでいくのは、もう少しあとの時代です(別の説では、日系ペルー人は、まだそのレベルには達していない、という人もいます)。  そしていまや、「日系医師は腕がいい。信用できる」というのは、ペルーでは常識となっています。

 さらに、芸術やスポーツ分野での二世や三世の活躍も、顕著なものがありました。

 りっぱなペルー国民として社会に食い込んでいった日系青年たちにとって、「母国」日本の復興は、驚異の的でした。

 一方、「祖国」ペルーは、かつての黄金期から徐々に転落していました。寡頭支配の時代は終焉に向かっていましたが、先住民系を含めた国民統合は成功せず、理想に燃えた軍人たちによる強権的な社会主義改革も失敗。ペルーは長い冬の時代を迎えます。

二世学生グループの政治活動を伝えたペルー新報。60年代は同紙の黄金期だった

 この状況に対し、善良なペルー国民であり、見識と良識を持った日系青年が何も感じないはずがありません。

 フジモリの登場以前から、日系人は政治に目覚めていました。彼らはペルーを良くするための明確なヴィジョンと政治参加の意識を持っていたのです。

 

 

(10) 日系人の「ペルー人魂」

 

 「ペルー社会で、なるべく目立たないように」、「ペルー社会を、なるべく刺激しないように」――。これが、良くも悪くも古い日系社会の「常識」でした。その傾向は、現在も受け継がれています。過去に苦難の歴史を経験したマイノリティー(少数派)の「生きる知恵」であり、一概に責められるべきものではありません。

 しかし、急進的に「ペルーへの同化」に身を投じた戦後の二世(とくに、大学進学者)は、そんな内向的な姿勢を潔しとはしませんでした。

 ペルー社会での不当な差別には、声を大にして抗議し、正当な権利を勝ち取っていきました。1960年代の国政選挙では、明確な政治ヴィジョンが二世たちのなかから発信されました。当時は、横断的な学生組織である「二世大学生協会」の活動がさかんで、彼らの「ペルー人魂」は、一般のペルー人には見られないほどの高潔さを有していました。

 二世大学生協会の若者たちは、ペルーのことを、自分のこととして、自分の言葉で語りました。

 一世たちの「外国」は、彼ら二世の「母国」になりました。いまから40年前のことです。

 そして大学や上級専門学校を卒業した彼らは、医師や弁護士、公証人、技師、大学教員などのプロフェッショナルとして、ペルー社会で活躍します。

 ペルーに進出した多くの邦系企業を実質的に切り盛りしたのは、日本語にも堪能で、しかもペルー人としての誇りを胸に秘め、ペルーの発展のために労苦をいとわない、そんな二世たちでした。現在、60〜65歳前後の人びとです。

リマの二世青年たち

 国立農科大学の学長だったアルベルト・フジモリが1990年に大統領に出馬した背景には、「当事者であるペルー人として、母国の窮状を打開したい」という純粋な決意が、当時の彼にはあったためです。

 彼の任期中、多くの日系政治家や上級官僚が活躍したのは、なぜでしょうか?

 ほかの大統領の政権下では、「縁故」によって資質の低い政治家や上級官僚が輩出されるのは普通の現象ですが、フジモリ時代は、縁故ではなく、この世代の日系二世に卓越した政治意識と国家へ貢献するという熱意、高い学識、困難さに負けない精神力が備わっていたからです。戦後の二世たちの研鑚と蓄積が、フジモリの時代に開花したのです。

 フジモリ退陣後の政治的な逆境下でも、日系人の信用は失われず、地方自治体では依然として日系首長が活躍しています。2005年には、フジモリが学長をしていた国立農科大学で、二人目の日系学長が選出されました。なお、同大に日系の教員が多いというわけではありません。むしろ少数派です。

 40年前に、二世の学生たちが声高に叫んだ「ペルー魂」という熱い思いは、いまも生きているのです。

 ところが、フジモリの10年は出稼ぎの10年でもありました。まさにフジモリの任期中に多くの人びとが日本に出稼ぎにやってきました。現地語にもなった「デカセギ」ブームは、日系社会を根底から変化させる大事件になっていきます。

 

 

(11) フジモリの登場

 

 1990年に日系2世のアルベルト・フジモリが大統領に当選した当時、ペルーという国家は疲弊しきっていました。

 スペインによる植民地支配から分離し、ペルー共和国が誕生したのは1820年。以来、長期安定政権はあまり現れず、伝統的に外国資本を「あて」にし、ヨーロッパ系住民のみを市民と見なし、自分のグループ・家族の利益を優先する閥族的な政治風土が伝統になりました。

 しかし、第2次大戦後は先住民系の人々を「国民」に組み込ませる正義感にあふれた政策も取られました。

 その代表例が1968年から12年間続いた軍政です。政権当初の理念は、青年将校たちが主導する急進的な社会主義でした。政権を奪取した彼らがまず手をつけたのは、農地解放です。法の及ばない、まさに一国一城のあるじという雰囲気をもっていた耕地主の土地を接収し、小作人たちに分配したのです。

 ところが、多くの小作人には近代営農に関する知識も経験も、学識もありませんでした。国際競争に対する意識、戦略もありません。この時代、多くの農場は荒れ、農家は以前よりも零落しました。

 軍人の政策は数年で破綻し、言論が弾圧されました。警官がストを起こし、リマが無政府状態にもなりました。この時代、のちのペルーを恐怖に陥れた左派系反政府テロが生まれています。軍政内部にも分裂が起こり、80年には民政移管へ。

 80年代は、軍事政権のツケともいうべきさまざまな社会不安をついに解決することができませんでした。とくに、地方からリマなどの都会に出て、土地を不法占拠するインフォーマル・セクターがひしめきあい、美麗な都・リマも、薄汚れてしまったのです。

 彼らは、納税システムの外に位置し、近代的な購買層でもありませんでした。ペルー国民でありながら、国民の範疇には入ってはいませんでした。旧来の都市の住民は彼らを蔑視しました。

 彼らを「国民」として認め、彼らの声を政治に反映させたのは、フジモリが最初の政治家でした。移民の子孫であるマイノリティーのフジモリにとって、あてにできる「票田」という見方もありますが、戦後の社会改革に燃えていた日系二世らしい、国家統合への情熱がそこにありました。

 その夢に、多くの国民が賭けました。そして、奇跡の復興が起こったのです。

アルベルト・フジモリ大統領。日本からの多くの援助を得て、学校建設を推し進めた。任期中の「負」の遺産も少なくないが、評価されるべき功績も少なくない

 

 ただし、国家復興にともなう「痛み」に、国民はついに耐えられなくなりました。そのあおりを食ったのは、中産階級です。そして、日系人の多くが中産階級でした。90年代初頭に日本への出稼ぎが合法化されると、数万人が一挙に日本へ向かいました。生産年齢人口の大多数です。

 日系社会は急激に過疎化し、地方の日系社会は瓦解しました。

 そして、フジモリ政権で象徴される「日系社会の高学歴」も、危機に瀕しています。90年代以降、日系人のあいだでは、学歴よりも出稼ぎを優先する考え方が高まり、さらに、言葉の問題などもあって、出稼ぎ子弟が日本で高学歴を享受できているとは言いがたいのが現状です。

 

 

(12) デカセぎから「停住」者へ

わたしたちは、newcomerではない!

 

 バブルに沸く、いわゆる「3K」の労働現場に、90年代初頭、それまでの中東、アジアからの出稼ぎ労働者にかわって、ブラジル・ペルーをはじめとする各国の日系人が登場します。

 前者のほとんどは非合法、後者は合法という違いのほかに、日系人は言うまでもなく日本人の子孫です。戦後に海外移住した移民一世も「出稼ぎ」に来ました。

 なお、誤解を生まないために申し添えると、非合法を奨励するわけではありませんが、「不法滞在」者を一概に断罪することは、できないと思われます。なぜなら、不法滞在になるのが分かっているのに、バブルを支えるためかどうかわかりませんが、入国を黙認されたケースはなかったといえるでしょうか。そして、日本で数年暮らさせ、ある程度生活の基盤も生まれたというのに、景気が悪くなるといっせいに「取締り」を受けて「国外追放」される彼らの罪というものの本質を、考える必要があるからです。

 一方、日系人(とその家族)の出稼ぎは、合法化されました。その背景には「顔は同じ」「日本語は理解するだろう」という、安易な判断があったと巷間ではいわれます。

 ところが、戦前からペルー社会に食い込み、大統領まで生み出したペルーの日系人の場合、異なる人種間の婚姻も多く、日本語を話せる人の割合は、10%程度でした。ブラジルやパラグアイ、アルゼンチンからの日系人は、約半数以上が日本語能力を有していますが、ペルーからの人たち同様、メンタリティーは日本人と同じではありませんでした。特にペルーでは「混血」が進んでおり、日系人の半数以上は「日本人の顔」をしていません。

 --ここに、軋轢が生じます。

 親は、職場で。子どもは、学校で。

 そして残念なことに、日本の社会になじめないことを理由に、不幸な事態も起きています(注:この記事は2005年に書かれています)。子どもへの負担は、その典型といえるでしょう。

 とはいえ、他国への移住に軋轢はつきものです。逆にこれを避け、一方的な迎合、自己否定からくる他者肯定、もしくは無視・憎悪・蔑みからは、相互理解が導き出されることはないのです。

 彼らを「ニュー・カマー」と呼び、いろいろな研究の対象にする日本人もいます。スペイン語やポルトガル語を話す彼らに、ふさわしいとは思わない英語です。そして、彼らの心情はa newcomer:新参者ではなく、あえていうならa returnee:帰還者ではないでしょうか。「父祖の国に帰ってきた」という心情です。この意識の差は軽視できません。

 幸いなことに、静岡県浜松市をはじめ、在日ラティーノが多く居住する地方自治体では、日系をはじめとする「新しい隣人」との共生の道を、真剣に模索しています。2004年12月には、浜松市のペルー人学校「ムンド・デ・アレグリア」(喜びの世界)が、正式な各種学校として県に認可されました。静岡県では独自に審査条件を緩和し、これまで「私塾」「フリースクール」扱いだった同校を、同校の特色であるペルー式教育を改変させることなく、そのまま日本の教育システムのなかへ正式に迎え入れたのです。

 これは、全国初の快挙といえるでしょう。いたずらに日本人になることを強制せず、しかし、日本の社会のなかに組み込み、日本の社会での公的な卒業資格を授与するとともに、ステータスの維持を認める――というユニークな実践は、今後も全国から注目されそうです。

 じつは、これら地方自治体のほうが、国の入管政策の数歩先を進んでいるようです。ある入国管理局の上級官僚は「日本に外国人を必要としない経済政策をすればいいし、だいいち、日本人に異民族を受け入れる心の準備はできていない」と消極的な意見を開陳しています。ところが地方自治体のレベルでは、彼らはすでに、地域の一員です。 心の準備ができていようといまいと、この少子高齢化した日本を支えるマンパワーであり、この時代を共に生きる隣人であることに、変わりはないのです。

 

 

(13)「日系ペルー人」から「ペルー系日本人」へ

 

 日本人移民が世界へ羽ばたき、明治以降だけでもすでに百数十年の歳月が流れました。ペルーで日本人は、日系ペルーになりました。その子どもや孫たちが今や日本で働き、半数以上の人が現実的に停住しています。

2009年に藤沢市で行われた「Sen~or de los Milagros (奇跡の天主)」の聖体行列。10月のペルーを紫色に染める風物詩が、毎年、日本各地のペルー人コミュニティによって行われている しかし、不安もあります。それは、日本の入管政策が、彼らをいつまでたっても「外国人」としか規定しないからです。帰化しないかぎり、彼らは何世代住んでも、日本人にはなれないのです。国籍は取得できません。

 イラン人やタイ人がそうであったように、今度は自分たちの番では――。

 そんな親の不安の影響を強く受けているのは、子どもたち。子どもたちの教育や生活が、親の揺れ動く心理そのままに流動的になっています。

 彼らの自助努力も欠かせませんが、社会の側にも住民の生活をサポートする義務があります。なぜなら、彼らは、日本人と同じように、税金を納めているからです。また、外国籍であっても、日本国憲法によって基本的人権は保障されています。

 

 「日本人」から「日系ペルー人」へ。そして、「日系ペルー人」から「ペルー系日本人」へ。

 

   彼らはいま現在も、日本であらたな移住史を刻み続けているのです。

(おわり)

 

 

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