祝福家庭と入籍
(1)男性と女性
神様の愛を感じることができるようにする存在は、神様ご自身ではありません。皆さんです。愛を失うことによって、神様は愛の世界で獄中生活をしているのと同じであるということを知らなければなりません。そのような事実を知って、皆さんの家庭が60億人類の家庭を代表した中心家庭となり、その神様の怨みの事実、愛ゆえに傷ついた傷跡をすべて消してあげなければなりません。
そして個人・家庭・氏族・民族…、すべての環境で失った愛を、私を通して、私が持つことのできる家庭のすべてを通して、再び取り戻すことができるようにしなければなりません。そうでなければ神様の孝子として立つことができませんし、愛の家庭を築くことができませんから、神様が安息することができません。これはとてつもないみ言なのです。
人間は父母の愛を受けてこの世で生きてから、無限な父母、永遠な父母、神様の愛のもとをたずね求め、神様の懐に抱かれ、無限大の生命と愛の因縁を結んで、愛で呼吸をしながら永遠に生きるこどのできる故郷の地へと帰っていきます。それが人生なのです。神様から出発したので、そのような愛の実権を自らが実現していくことによって、自らが神様になるのです・・・、愛を中心として。神様と対等な価値を持つのです。
男性が女性に向かっていくのはどういうことでしょうか?これは船にたとえると右舷と左舷なのです。ですから、この片側でしかない自分を完成さなければなりません。この二つが一つにならなければなりません。二つが一つになれば水平になるのです。水平の中央に神様が大きいプラスで降りてくると、この二つはマイナスになって一つになるのです。正分合をなすために、本体なる神様の大きいプラスに相応できる男性と女性が一つの体となって、神様に愛で侍るのが人生の道です。神様が駆け寄ることのできる実現の場が、私たちの家庭であり、私たちの一族なのです。
(2)重生と祝福家庭
私たちは重生しなければなりません。ですから、重生と産みの苦しみを越えようというのです。皆さんは再び生まれ変わるためには、母親の胎中から生まれるように、再び産みの苦しみをお母様とともに経験していかなければならないのです。それでお母様と一体とならなければならないのです。お母様と一体にならなければなりません。そして一体になったお母様と皆さんが、先生の前に帰ってくるのです。こうしてエデンで失った母親と息子・娘が一つとなり、本然の父親との生命の絆を再び探し出して、天国に入っていくことができるのです。重生した家庭となって、天国に入っていくことができるのです。
それは何かといえば個人的な出産です。皆さんの心と体を一つつくる出産の苦労を経験しなければなりません。第一には個人的な出産、その次には家庭的な出産があります。誰もがみな母親、父親、息子、娘として再び生まれ変わるための、一つになるための産みの苦しみを味わわなければなりません。第三には国家的な出産をしなければなりません。国家を生まなければなりません。皆さんがお母様とともに、そのような立場を再び連結しなければなりません。国家的な出産の次には天宙的な出産、天地を産む苦労を味わわなけれ
ばなりません。天地から解放されなければなりません。
真の父母権を皆さん全員が相続しなければなりません。そのためには、真の子女権、真の父母権、真の王権を中心として、真の父母権と一体化する天と地にならなければなりません。そのためには、第一に地上天国、第二に天上天国、第三に王権と皇族圏です。皇族圏とは何でしょうか? 残っているカイン世界の長子権を復帰し、地獄まで行けと言われても絶対服従できるような次男に立てて、天国に連れていくのです。皇族圏が開かれるのです。カインも堕落しなければ皇族になるはずでした。カインが地獄に行かずに、天国に行けるようにしなければなりません。それで皇族圏という話が出てきたわけです。
第四は何でしょうか? 侍義、侍る家庭生活を完成しなければならないのです。天上、地上の次には王権と皇族圏を中心とした勝利の基盤を作らなければなりません。そのために何をしなければならないのかというと、真の父母に侍り、神様に侍る家庭を完成しなければなりません。天と縦的な関係を結んで、誰もがみな入籍しなければなりません。先祖の立場に立たなければならないのです。
救いの道というものは、習慣的な生活を通しては得ることができません。完全に蕩減の道を行かなければならないのです。救いの摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。それゆえ再創造するためには堕落する前と同様の本然の立場、ゼロの立場に入っていかなければならないのです。
そこには意識もないし習慣もないし、今の自分が持っている金氏とか李氏という姓もないのです。そういうゼロの立場に入っていかなければなりません。天の創造本然の基準を考えると、創造された万物はすべてゼロから出発したのです。
ところが人間が堕落することによって、あり得ないはずの内容が、天道に反するその内容が、今日の人間世界に満ちるようになったのです。これを叩き出してしまわなければなりません。より分けて捨てなければならないのです。それは口だけではできません。サタンの愛を中心としてサタンの生命、サタンの血統の因縁をもって様々な民族が歩んできた歴史的な文化背景を中心として、互いに異なる習慣性、あるいは風習が混じり合ってぎっしり詰まっているので、これをすっと取り出せないのです。
それゆえ聖書に「死なんとする者は生きる」という言葉があるのです。逆説的な論理が成立するのです。死のうとしてこそ生きるのです。自分の生命を投入しなければならないのです。
それでこのすべてを漂白し洗濯して、言い換えれば蕩減して、復帰しなければならないのです。そのような過程が絶対に必要なのです。堕落世界で所有していた習慣性とか罪悪性が残っていては、天との関係を結ぶことができません。
(3)祝福家庭と入籍
家庭が核である
全体の核は家庭です。ですから、全世界はこれから私たちの世界にならざるを得ないという、理論的にも避けようのない結論をはっきりと下すことができるのです。世の中の人々が酒を飲み、踊り歌っていますが、中心を思い、世界を思ってその歌を歌うのでしょうか?全世界を得て嬉しくて踊るのでしょうか? 死にゆく環境に住んでいるということを、たえず忘れてしまうのです。それが地獄です。
今、先生はこのように行ったり来たりしています。「80にもなった老人が、今南米に来たのか…、最後の葉っぱのような者がどうして来たんだ?」と言うか
もしれませんが、そうではありません。生い茂った葉の中で最後に出てきた葉っぱの近くから花が咲き、実が結ぶということを知らなければなりません。
祝福家庭は氏族的メシアになって、その国を自分の国につくって真の御父母様に連結し、神様に連結してこそ、私の国が真の御父母様の国、愛で一体となった神様の国になるのです。
私たちはこのような驚くべき歴史上の完成の実として…、すべての万物から、地から、被造世界から、そして人間から、神様から高貴な祝福を受けた、すべての完成の実として登場することのできる家庭であるということを知らなければなりません。
自分でこの実をもぎ取ってしまったら、永遠に自分の実を結ぶことができないのです。
このような理念を抱いて、サタン世界の空白の世界に私たちは完全に定着し、天下統一、神様の解放、真の御父母様の解怨を成就しなければなりません。今がまさにそのような出発基点だということを忘れてはいけません。完成したアダム家庭であるがゆえに絶対信仰なのです。堕落後に絶対信仰がなくなってしまったのです。絶対父子の関係は愛の一致、絶対愛の一致です。
サタン世界は個人主義になっているので自己主張するのです。個人主義です。頭を下げないというのです。
絶対服従!絶対服従しろというのです。これはお父様が話しているのではありません。原理的な見方です。これは実際です。観念的な理論ではありません。絶対信仰!絶対愛!絶対服従!そうしてこそ個人主義が反対の方向に行くのです。そうしてこそサタンが逃げるのです。サタンが逃げるのです!ですから、絶対服従が必要です。南米と北米はこのようにしさえすれば統一されます。絶対信仰、絶対愛、絶対服従なのです。
それが軌道なのです、そのレールに沿って走っていかなければならないのです。そのような立場に立っているために、私たちは血統復帰、所有権復帰、心情圏復帰ができるのです。一族をみんな復帰することによって、「国も私の国である。絶対的な私の国だ!家庭、氏族、民族、国家が絶対的に私のものだ!」と言うことができるのです。
アダムとエバが絶対信仰、絶対愛、、絶対服従できる基準をなくして、偽りの結婚をし、血統を転換し、所有権をびっくり返し、一族を滅ぼしたので、絶対に血統復帰をしなければなりません。真の父母の純潔な血統を、永遠に自分の子孫に残すことができるように守るのです。アダムとエバはそれをなさずに結婚したのです。私たちはそれをなして結婚し、絶対血統、絶対所有権、絶対心情圏を復帰しなければならないのです。
これを標語にするのです。三大標語です。大きな声で言ってください。絶対信仰!(「絶対信仰!」)それができない立場で堕落しました。しかし、私たちはその一つ上の立場、祝福家庭の立場に立っているのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に家庭が成立しているというのです。堕落はその基準の反対の立場でそれを破壊したのです。ですから、自らの家庭が、血統を転換した完全な純潔な神様の直系の子孫、堕落の因縁のない夫婦にならなければならないのです。堕落することによって、エバはすべてを捨ててサタンの側に行ったのです。
1 苦労が必要
貴いものは、万物と人間と神様ですが、「この世界を善なる立場で抱く」と命を懸けて犠牲になった人は、その三つを懸けて犠牲になったために、神様は、その三つ以上のものを返してあげなければならないのです。イエス様はそのような観点で、「あなたの家の家族が怨讐だ」、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言ったのです。そうしなくては天国に行けないために、これが一番幸福な教訓になるのです。一番高く、一番貴く、一番なくてはならない、絶対的な福音なのです。
それで、統一教会に来るようになれば、地上で豊かに暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかみついていかない死骸になったとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての聖なる人たちが集まって、城を築くでしょう。統一教会の群れを、国のために、世界のためにひどい苦労をさせて、孝行者、忠臣にしてみようというのが、先生の考えです。「行かない」と言うなら張り飛ばすべきです。足でけって、現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
それゆえ、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とおっしゃったのが、第二の戒めではなく、第一の戒めです。
その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)とおっしゃいました。あなたの隣人とは誰ですか。世界万民が隣人であり、兄弟です。世界万民のために心を尽くし、精神を尽くし、命を懸けなさいというのです。命を懸ければ、すっかり成したということです。み旨のために一度死んでみようというのです。どこで死ぬのでしょうか。自分の死ぬ所を探さなければなりません。