第三講座 9月28日

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 「社会を強くする自治のあり方 」をテーマに開催した第三講座の概要をお伝えします。

 記録者の理解が不十 分で講師の意を十分に伝えていない可能性があります。
文責は事務局にありますので,あくまでも講座の雰囲気を伝えるものとしてご理解ください。

講師:敬称略

 第1講 「これからの地域・これからの思想」 哲学者・内山 節

 

 東京に3分の1,群馬県 の上野村に3分の1,その他旅行中3分の1という暮らし方をされている内山さんだが,フランス・ラルザック地方の山村での体験から講義が始まった。

 ラルザック地方 は,1000メートル級の高原で,行ってみると平原のようであるが,降りようとするとがけのようなところで,あま り木がなく潅木がある感じで肥沃な土地ではない。羊ややぎを飼う畜産地域で,はじめて行って思ったのは暮らすのが大変ということ。土がやせて畑作ができな いと感じた。農業経営的には難しい土地で,牛は草をいっぱい食べるから無理というようなやせた土地だが,ここは人たちは「やぎに適した土地である」とその 特徴を実に屈託なく嬉しそうに話してくれる。日本のように,地元の人からこんなことしかできないという言い方をしない。

 さて,日本では市町村合併が展開というより,むしろ強制というか全国的な動きが起きている。しかし,決して日本の市町村数は多くはない。フランスは3万 を 超えるので,人口比で計算すると25倍近い市町村が存在する。また,「わが村」はあるが市町村という言葉はない。パリなどの巨大市町村は例外でその他はひ じょうに小さなまちである。人口100人から200人が普通の村で,集落単位で市町村を形成している。

 フランスの市町村長は無給で,助役や議員も無給,特別職は無給というのがヨーロッパの常識である。日本の話をすると何で村長に月給を払うのかと言われ る。日本の自治体の仕組みは例外的な部類に入る。村長は定年退職世代で,年金生活者などが半分いるが,この場合1年中村長の業務を行う。村民の中に入って 村民のニーズを探るのが村長の役割としている。あとの半分は現役世代 のため1日中は村長はできないので,ウィークデーは自分の仕事をしている。夕方5時から2時間ぐらいに仕事して,あとは土日に仕事をする。村議会は夕方行 うのが普通で昼間の例はない。役場職員は一人が普通でどうやって仕事をしているのだろうか。日本のようになんでもかんでもは例外。道路工事は県 ,要望はするが市町村はしないというように限られる。市町村の仕事でも住民がNPO組織を使って請け負う。経費を10万とか20万とかを助成する。例えばグランドの管理を委 託。しっかり管理されているかは,それを監査することで精度を確保する。役場がすべての業務をやるのではなく,いわばNPOのコーディネートをしている。 だから地方行政が維持できる。

 フランスで国,県,市町村の役割分担を聞くと意思決定の必要な時間の問題であると答える。突然攻め込まれたときは、政府が瞬間的に意思決定する。本来民 主主義であれば話し合って対処するのがルールだが,それをやっている暇はない。こうした仕事は,比較的大きな行政単位が持つべきである。また,安全性とい う面でこのような仕事は増えている。例えば食品の添加物だが,疑いがあってら間違った研究結果の可能性があって ら直ちにその時点で使用禁止する。研究が間違っていたら再開する。結論を待っていたら取り返しがつかないからである。民主主義のルールが一遍否定される権 限を与えておかないと間に合わない。今の社会は意思決定のスピードが要求される。その意思決定が不当であれば次の選挙でえらばなければよい。

 これに対して,意思決定に時間をかけてもよい場合がある。とことん議論することでよい場合もある。参加して議論をつくすことが大切である。例えば村の川 をどうするのか。すべての住民が参加して納得づくで川を改修するかどうかを決めればよい。日常生活にかかわっているのものはそれが多い。例えば,ヨーロッ パは,車の入れない道がよくある。手前に駐車して1分 歩いて自宅へ行くことに。でも,毎日荷物があるわけではない。荷物が大きくて不便な人がいれば助けれ挙げればよい。多少不便でも道路を広げなくても相互の 助け合いで解消できる。このような全員参加して話し合うには村は小さいほうがよい。

 日本の市町村合併を見ていると基準となる原理がない。フランスが妥当かどうかはあるがひとつのものさしにはなる。日本では年金をもらいながら働いている 人がいる。フランスではそのようなことはない。60歳になるとほぼ全員が仕事をやめる。農業の好きな農民もやめる。日本ならば好きならばもっと永く働く。 そのリタイヤした人たちがNPOをやっている。健康で働ける人がごろごろいる。それがNPOの担い手となる。早めに仕事を やめる社会だから成り立つ 。

 20世紀のフランスは農山村の過疎化の歴史である。大きな理由は兼業農家は存在しないこと。昔はお金がなくても暮らせた。しかし、規模を拡大しなければ やれない時代になった。フランスの農業産品は,北米農産物と競合する。このため,アメリカ型農業に対抗するためどんどん規模拡大し,100ヘクタール農業 になった。でも,生活できるかどうかすれすれの状況で,300から400万円の収入ぐらいにしかならない。そのうち半分ぐらいは所得補償という具合だ。近 年は,環境への対応が難しくなってきた。無農薬は,小規模であれば人手は何とかなる。大規模な農業であれば,きめの細かさがなくなり,農薬も全部にという ことになる。零細農家がやる気になれば小回りがきく。兼業経営が農業に有利で,農業所得に頼らず工夫が可能である。つくった農家が市場で自分で売る多品種 少量生産は,100ヘクタール農家はできない。

 今,農業と地域の結びつきが怪しくなった。農業が存在することによって 習慣、まつり、風土、文化ができていたがそれが切れてしまった。農家自身が昔の 農業の知恵を受け継いでいない。しかし,自分が暮らす上で農村がよいという人が増えて過疎化がとまった。フランスの村では,100人の村民のうち20人程 度が生粋の村びとで,その他はよそから来た人である。村のほうが人間的な暮らしができる。 都市では自然とはなれた人間的な暮らしができない。自然の中に散歩し、つりをする。人間がかけがえのないという関係が構築できる空間はむらだからこ そできる。会社の中で存在価値は疑問で,パリ市では100万人の一人にしか過ぎない。村にくるとNPO活動をしなが ら,それぞれの人が役割をもって、関係を結んでいる。一人一人がかけがいのない関係にある。代替が利くような人間ではなく ,それは小さい村だからできる。

 世界はグローバル化しているというがそれはアメリカ,日本ぐらいである。ヨーロッパは,グローバリズムと反グローバリズムは半々で,自然や風土を大切に して生きていく人々もいる。世界をひとつのシステムで統合するのではなく,ローカルな世界を大事にしながら抵抗することが,農民を中心に活発化している。 社会はいろんな社会があってもよいのではないか。日本にもいろんな地域があってもいいのではないか。もう一度小さな社会に戻っていく動きが必要である。

  昨年の「第16回国民文化祭・ぐんま2001」と上野村の「山里文化祭」から 体験だが,なぜ文化が生まれたのかというとその背景に自然がある。労働を始めて,文化が生まれた。1年間の村の時間に様々な文化が関係性をもってつながっ ている。食文化にしても,食べ物だけで切れているのではない。農繁期にはこういう食べ物,閑散期にはこういう食べ物と労働という関係があって成り立ってい る。文化は役場には似合わない。文化はやる人間 のものであるが,役場は文化でも公平にあつかわなければならない。

 上野村に図書館を作る会の体験だが,村民が勝手につくる会を立ちあげて,公共の建物で空いているものを占拠して勝手につくっていく方式を考えた。行政が 建物をつくってオープンが普通だが,行政が追認しながら作り上げていくもの。まだ,どこの建物でやるかはきまっていないが,地域の学問は文字を解さないで 伝承されてきた。文字を介在するのは村の外との関係である。自分たちの大切なものは文字を介さない。非文字でかかれたものを伝承してきた。ここに地域に力 がある。非文字で伝わってきた学問を伝え ,それを文字でバックアップしていくことが大切だ。これからの地域づくりはできることは住民がやっていく。自分たちにやっていくことのほうが自分たちのた めになるからやっていく。それに村は邪魔をしない。旧来の市町村は維持できない。これからどういう自治をやっていくかの方向を示さなければならない。ここ にこそ自治的な村づくりがある。広域合併は好ましくない。

 哲学は普遍的な真理はすてた。考えてみると世界に普遍的な真理はあったのだろうか。ヨーロッパが生み出した発想やシステムを導入するしか独立性を維持で きない状態であったが,すべて交換可能な人間に陥ってしまう。それで残っているのは不安だけ,そうではなかったはずだ。近代的な理念が世界を主導した20 世紀,この20世紀ほど皆殺しの戦争はかつてなかった。世界の環境が破壊され、資源が食いつぶされている。本当に人間はどう生活することが幸せなのか?。 アジアにはアジアの、日本には日本の、そして地域には地域の文化がある。同じ文化、自然観をもっているわけはない。日本の中にも様々なローカルがる。かな り小さな地域に人間が生きていくべき真理がある。非文字の真理がある。自然との関係、人間同士の関係が見える世界,そういう世界に戻った時あまり大きくな い地域に根ざして、交流し、勉強し、協力し合うしくみをつくることができる。限りなく小さな単位になっている,そういう単位にしかないものがある。

 群馬県知事が「文化はおにぎりのしおである」といった。塩加減でおにぎりの味は変わる。文化は塩である。すべて変えてしまう塩でもある。儀式は儀式のよ さがあるがまつりにはならない。まつりは形式はあるがそれが破壊され続けている。行政がやると儀式になる。県が小学校区ごとに住民協議会をつくって自治を 見直し,校区に3億円の予算を持たせる方式を募集したが応募がない。しかし,今の自治は行政の自治になりすぎた。たかが3億円ぐらいを使えない。しかし, かなりの課題があるはずだ。可能かどうかは別にしてどんどん住民側から課題がでてきていいのではないか。

 もういちどローカルの世界に,限りなくローカルな世界に,何層もローカルな世界があってよいではないか。それを軸にまちをつくっていくことが大切であ る。 

 第2講 「市民社会の再生と地方自治」 東京大学名誉教授 篠原 一

 市民社会の内実がしっかりしないと自治は成り立ち得ない。市民社会がないと世の中が安定しない。「市民社会の市場経済とない市場経済は異なる」とある韓 国の学者がいったがそれは真である。市民的公共性は,過去のものとは異なる。近代社会の中心概念が変質してきた。近代国家の特色は一番は科学であり,西欧 の近代化を支配したのは科学である。しかし,その科学が作り出したものはよいものばかりではない。科学が人間を破壊することも。

 われわれが近代社会のエッセンスと思っていたことに批判が起きてきている。近代社会も変化してきている。近代社会への問題点が、地域社会に反映してきて いる。田中知事の脱ダム は,近代に対するアンチテーゼといえる。新しい市民社会は昔とは異なる。まったく新しい市民社会はなにかを追求していかなければならない。

  市民社会は地方自治とどう関係するか。討議デモクラシーの立場から考えてみ る。現代は,頭数は数えても討議はされていない。それをいかに復活せせるか。普 通の生活社会の中心は、コミュニケーションでありそれを欠いたら政治というのはありえない。人々のつながりもできてくる。討議を復活しないとわれわれの社 会は形骸化して しまうのではないか。

 最近の政治は地域社会の中でおきている。例えば,遺伝子治療は永田町では決められない。ITの発達も市民社会で決まる。サブ政治が重要になっている。今までの討議は、誰を選ぶかが問題 であった。現在の討議の尊重が大切である。新たに参加からのアプローチ,市民社会の中からのアプローチが必要である。

 パットナムは,「民衆を機能させるために」という著作ー日本では「哲学する民主主義」という題だが,イタリアの南北差の原因を市民社会の成熟しているか 否かによるとした。ソーシャルキャピタルー人間関係ができているところが成功していることを実態調査の中から明らかにした。どうやって社会関係資本をつく るのか。アメリカは人間関係が崩壊しているという危機感をもっていたが,自由な個人の中からどうやって人間関係をつくるか。まず,人々の関係をブリッジす る。そして,インフォーマルな関係をつくること,声を掛け合う関係が重要で,社会関係で重要なものはインフォーマルな関係である。ネットワークと信頼関係 が重要になる。

 ローカルな地域社会を考えなければ現代の政治を考えられない。地方の山村にもコミュニティもある。何が大切かといえば自治である。大都市の中でコミュニ ティをつくることはできない。政治学からいうと地域社会の重要性は高い。社会参加は,阪神淡路大震災から増えたわけではない。社会の中で積極的な支援をす る人をどう増やしていくかが今後の課題である。市民的公共性,自覚した個人として何かできるかを考えていくべきである。

 第3講 「北海道行政基本条例論」 北海道大学大学院法学研究科教授 神原 勝氏

 今,道が北海道行政基本条例を議会に提案している。自民党は「個別の条例に理念が書いてあるから不要であり,住民投票は議会を形骸化する」と主張する。 民主党は,「道民の権利条項が入っていない。最高規範性がない」などマスコミに取り上げられている。私たちは,端的に言うとあのような条例を通して欲しく ない。そうでないならば ,行政理念条例として欲しいと提案している。今回の案は,内容があまりにも空疎である。 

 私たちが道の懇話会で議論したことが条例案に反映されていない。このため,パブリックコメントに応えて案を作成した。これまで道政改革民間フォーラムが 100項目ぐらいの提案 をしてほとんどが実現した。7年前に大規模な不正が発覚したことが契機となって道政改革が着実に進んできている。全国でどこに出しても恥かしくない改革の 集大成として進めてきて,基本条例にはそれを期待していたが案をみて愕然とした。

 さて,北海道がなぜ制定できる状態になったのか?。自己改革を強く認識して,知事も選挙のときに地方自治政府の確立を目指すと公約し,早い認識と取り組 みであった。改革を考えるうえで,道庁は巨大組織であり,従来は組織機構を変えるのが常套手段で,これはこれで必要であり、組織による統合はどこの自治体 もやっているやり方であるが,一過性であり ,それで変わった自治体を聞かないし,政策の質が上がった例はきかない。

 だから,もっと実行性のある改革を考えた。それは,作法による統合である。具体的には,情報公開であり,政策評価であり,もろもろの政策手法であった。 次に,地域のよる統合である。これまで縦割りを基本に点と線の行政を進めてきたが,面といえばそれに対応するものがなかった。地域の課題を総合的に発見し て改善していくというものがなかった。面の行政がないまま、中央に直結した縦割り行政を行ってきた。面の行政を実行あるものにするために支庁制度を変える ことが地域による統合ということであった。

 情報公開条例,全国に誇れる評価条例,そしてオンブズマン条例など行政運営にかかわる制度は整備してきた。巨大な組織の中で知事ができるのは,運営にか かわるしっかりしたフィルタをつくり ,民主主義の実現を図る。それらがしっかり動いていることを監視することで道民に責任を負っている。

 われわれの改革提案は,住民投票を除いて実現された。行政基本条例の中では各論にあたる。基本条例を作って整備していこうというのも考えだが,個別の制 度があってできることである。名実ともに地方政府になろうというならば ,基本条例を制定すべきと提言していた。制度はつくっても形骸化する可能性が高い。そうならないために目標を設定するのが行政基本条例の制定である。全体 を束ねることによってさらに充実して,個別の改革をもう一段高めることが必要である。着実な準備が必要で地道な改革を進めた北海道だからできる 条例制定だ。しかし,今の案は残念である。

 個別的な制度で客観的にみて改革の積み重ねについては,北海道は評価されるべきである。改革といえば三重県,宮城県と言われるが北海道はさらに上であ る。しかし,北海道は,控えめで発信の能力をもたない。北海道について語る論客が北海道に起こっている価値 を知らない。改革がされてもメディアが報道しない。行政基本条例すらほとんど報道していない新聞もあるぐらいである。行政基本条例は都道府県レベルでは全 国初である。だからこそ残念である。

 私たちの基本条例案だが,結論から言えば、条例づくりは難しくない。基本は何かを外してはいけないが,各論があれば簡単である。

 前文は,一番難しくいまだに不十分さを免れない。ここで述べたのは,北海道づくりは道民と市町村の創意と行動を基礎に進めること,道というのは住民と市 町村ができないころを補完するもの という役割を規定。この条例は積み重ねてきた道政改革の成果を踏まえてものであること,そして,自立的な行政を進めるため,自らの行動を律する体制,理念 の確立をするもので,道民の総意で制定するとしている。

 「北海道の民主主義を実現する」「政策の質を上げる」。この2つが条例の目的である。

 理念は複合的な制度活用で,個別の制度があるのに基本条例があるのかという議論はあるが,制度とは連動しあって始めて意味がある。評価する情報がしっか り作られていなければ評価は意味がない。精緻なシステムをつくると,複雑になりすぎてわかる小数の人間でしかない。だから,制度は常に簡素でなければなら ない。

 制度と原則は,情報の公開と参加,道民及び市町村の参加,多様な主体の協力,行政の政策活動の原則,行政組織及び職員政策,公正及び信頼の確保を定めて いる。そして,責務のほか,最後に最高規範性を定めている。最高規範性―最高の条例だと位置付けれなければ意味がない。

  「書かれていることが具体的でなければならない」「道民の権利性」「最高規範性」の3つが行政 基本条例の条件である。自治基本条例とどう異なるのか?。行政条例は、行政の運営にかかわる事項に対し,自治条例は運営を含めて自治体の行政運営全体の事 項を定めるものである。 最初に条例という動きもあるが,具体的なことは基本条例のあとに各制度を定めるのであれば抽象的にならざるを得ない。

 道では知事が権力を掌握をしている。知事がもっている権力を市民がいかにコントロールするのか?。首長民主主義は,議会ばかりでなく住民にもコントロー ルする権利がある。知事は,議会には直接責任を負わない。直接責任を負うのは住民である。首長が住民にどのような責任をとるのか? 。意に添わなければリコールするが,参加民主義はまったく保障されていないのが実情である。

 選挙や自治法上の基本的な制度はあるが,自前の制度を基本につくる。何がその自治体にとって必要化の価値判断が重要になる。法制度と自前の制度を区分す ることが必要である。ルールを通して,仕組みをつくること,道民の権利を明記することが求められる。道民市町村の参加,道民投票,行政基本条例には制度も 明確に書かなけらば意味がない。最高規範性を明記することはは,条例間の上下間を定めることはできないはずであるという議論もあるが,体系的であるために は条例と条例の関係をしっかりさ だめなければならない。制度と制度が連携して動くしくみが必要である。道政が見えるようになれば,首長が果たさなければならないことが見えてくる。それ が,基本条例を見ればわかる 。そうなるためには,具体的でなければ意味がない。そして,職員が行政の中で踏まえなければならないルールが明確になり,政策の質が上がる。あいまいは許 されない 。そうすることで政策が吟味される。最初はつらいかも知れないが,ルーティンになれば質が上がる。これにより,長の責任を実質的に果たすことができる。議 会は,「議会軽視」との印象をもつが,これをつくることによって議会の機能が格段に向上する。なぜなら,監視の実効性が高まる。それを踏まえているかを監 視できる 。議会においても監視の基準をもつことで,飛躍的に議会の機能も向上する。

 首長にとってメ リットもある。巨大な組織 ,職員,予算を抱え責任を負うには,しっかりし仕組みをつくってその動きを監視することによって責任を果たすことができるのである。

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