尼7団のこぼれ話   長 八洲翁




  
「おさ二十世紀」は昭和54年(1979)に品種登録されています。
平成9年(1997)には黒斑病に強く、自家結実性の強い「おさゴールド」も品種登録されました。
鳥取県倉吉市にある「鳥取二十世紀梨記念館」に展示されています。


エピソード1

あるジャンボリー会場での話。7団の若きリーダーが自慢して言いました。7団はラッキーセブンで、たばこはセブンスターを吸ってると言ったところ、5団の若いリーダーが負けずに5団は整髪料にMGファイブを使ってると言い返しました。



エピソード2

ビーバー隊のない頃の話です。カブ隊に1年生、2年生の子どもが入っておりました。カブブックは3年生以上を対象にしていましたので、苦肉の策で1年生はバンビー、2年生はビーバーと名付けてそれぞれのカブブックを隊で作りました。昭和45年頃のことです。偶然でしょうか、その後10年以上たってカナダでビーバー部門が発足し、ビーバースカウトが世界に広まりました。世界で一番最初にビーバースカウトの名称を使ったのは7団でした。名付けたのは現団委員長です。



エピソード3

昭和38年のことです。4月に入り、年長隊はスキー訓練をかねて福井県へ行きました。雁が原スキー場で魚住隊長からスキーの手ほどきを受け、生まれて初めてのスキー体験でした。民宿のおばさんが大きな鍋にいっぱいのぜんざいを作ってくれました。ぜんざいの鍋をのぞき込んだスカウトの一人が言いました。「福井のぜんざいは白いんですか」。おばさんは笑いながら、「たくさん食べてもらおうと思ってお湯を入れすぎたわ」。澄まし汁のようなぜんざいでした。



エピソード4

昭和41年の8月には第4回日本ジャンボリーが岡山の日本原で開催されました。このときのエピソードを一つ紹介しましょう。7団の参加者は大物公園に集まり派遣隊用のバスの到着を待っていました。一匹の猫が公園で遊んでいました。人なつっこい猫で、誰かが(たぶんY君)7団にちなんで「なな」と名付けました。「なな」はすぐにスカウト達と仲良くなりました。間もなくジャンボリー派遣隊用のバスが到着しましたが、ある準指導者(たぶんY君)が「なな」を連れてバスに乗り込みました。バスは夕方に出発し、翌日の早朝に到着予定です。この頃は高速道路はありませんでした。バスの中で「なな」は人気者でした。ジャンボリー会場へ着いて、バスの扉が開いたとたんに「なな」は外へ飛び出していきました。バスの中でさぞかし不安な夜を過ごしたことと思います。「なな」の岡山での放浪生活の始まりでした。



エピソード5

昭和42年のことでした。歌謡曲の作詞家であった宮田団委員長がキングレコードの宮田晴郎として文化会館で新作発表会を開催されたとき、7団のスカウトも友情出演し、プロの歌手に混じって、どきどきしながらも「尼崎第7団の団歌」を披露しました。司会は腹話術で有名な川上のぼるさんでした。



エピソード6

昭和45年に朝霧高原で第5回日本ジャンボリーが開催されました。翌年に日本で初めての世界ジャンボリーの開催とあって、日本連盟もずいぶん力を入れていたようです。7団からも選抜されたスカウトが参加しました。団では日本ジャンボリーの見学隊が組織され、マイクロバスで行く者と列車で行く者に分かれて見学しました。見学団として参加した若き(20〜22歳)女性リーダーの皆さん方はジャンボリー会場内で大歓迎され、いたるところでサイン攻め、握手攻めに合いました。うれしそうにサインに応じる彼女たちでした。尼崎地区のサイトを訪れた私たちは昼食のカレーライスをごちそうになりました。尼崎9団の西田一三さんの「泊まっていってもええで」の言葉に、彼女たちは「泊まりたい!」と、すっかりその気になってしまいました。付き添いの私は派遣隊リーダーで参加していた7団の池田浩三君のタオルケットを借りてテントで宿泊することにしました。富士のすそ野の朝霧高原の夜は寒く、ガタガタ震えながら池田君と一夜を過ごしました。彼女たちは奉仕者用の宿舎へ泊まらせてもらったとかで喜んでいました。「来年の世界ジャンボリーにも絶対に行きたい」、彼女たちの夢は大きくふくらむのでした。



エピソード7

昭和48年に県連主催の合同野営が神鍋高原で行われました。カブ隊のリーダー3名が瀬戸内海から日本海へ向かって兵庫県を縦断する徒歩旅行を計画し、途中で神鍋高原の合同野営に立ち寄ることにしました。3名のリーダーは尼崎を出発し、姫路港で海を見た後、一路北へ向かって歩き始めました。福崎、生野、江原を通過し、いざ神鍋高原へと思ったのは良かったのですが、もう足がガタガタ、とても神鍋高原への登りは無理と判断し、そのまま城崎へ向かい、翌日は日本海へ到着することが出来ました。



エピソード8

昭和49年に第6回日本ジャンボリーが北海道の千歳原で開催されました。ジャンボリーの年には団キャンプをしようということになり、淡路島の江井で行いました。宿舎の前の海水浴場は快適で、カブもボーイも浮き輪をつけてスイスイと泳いでいました。団委員さんにはボートで監視役をお願いしていたのですが、カブ達が泳いでいる場所よりずっと手前の浅いところで一人のデンマザーがおぼれてしまい、大騒ぎでした。幸い大事には至らなかったのですが、みんな胸をなで下ろした次第です。



エピソード9

昭和50年のことでした。ボーイ隊の長期キャンプが行われました。淡路島の成ケ島で5泊6日の楽しいキャンプでした。大変ゆったりとしたキャンプで、スカウトも楽しみ、リーダーも大いに楽しみました。起床の合図にもかかわらず起きてこないスカウトに対し、いたずら好きなY副長はぐっすり眠り込んでいるスカウトの顔に、マジックインキで八の字のひげを書き知らん顔。やっとの事で起きてきたスカウトの小倉君は、みんながクスクス笑っている理由が分からず、そのまま朝食、朝礼、そのうちにひげを書かれたことを知って、怒り出し、半日間、口をききませんでした。またこれもY副長の提案です。リーダーのがまんくらべをしようということになり、真夏の太陽に焼け付く砂浜でそれぞれ自分のシュラフにもぐり込み、熱い紅茶を飲みながらどれだけ耐えられるかを競いました。汗が噴き出し、シュラフの中はぐしょぐしょでした。



エピソード10

昭和53年の夏は第7回日本ジャンボリーが富士山(御殿場市)で開催されました。全国から集まったボーイスカウトは約2万5000人。それに外国からもボーイスカウトが参加して盛大なキャンプ大会になりました。尼崎第7団も代表のリーダーとスカウトがはりきって参加しました。夕方スカウト達を乗せて出発したバスは翌日の朝早く富士山に到着しましたが、バスを降りるやいなや、台風のため強い風と雨が降り出し、全員ビショ濡れになりながらも、テントは建てましたが、暴風雨のため炊事ができません。強い風のためせっかく建てたテントはどんどん風に飛ばされ、しかたなくテントの支柱を半分土に埋めて、屋根だけのテントにしました。スカウト達は屋根だけのテントに入って(まるで屋根裏の生活)丸一日、ナビスコのリッツクラッカーだけで生活をしました。地区委員長のYさんは体の調子を崩して寝込んでしまうありさまです。私も、持ってきたシャツを全部雨で濡らしてしまい、新聞紙を体に巻いてじっと台風の通り過ぎるのを待っていました。不思議なことに、ジャンボリーにはいつも台風が来るのです。しかし、スカウト達はみんな元気でした。翌日には台風も終わり、スカウト達の楽しそうな笑顔があふれ、みんな元気な顔でプログラムに挑戦しておりました。私は今でも、ナビスコの「リッツ」を見ると、ジャンボリーでの屋根裏テント生活を思い出します。



エピソード10

昭和58年、年度末の2月に神鍋スキー場で、団の雪中キャンプを実施しました。生まれて初めて経験する雪の中でのキャンプは寒くもあり楽しい思い出になったのですが、帰りのバスが渋滞に巻き込まれ、尼崎に帰ってきたのは深夜の12時を過ぎていました。資材を積んだ私たちの車は近道が裏目に出て、さらに到着が遅くなってしまいました。杭瀬の団倉庫に資材を降ろす時のみんなの顔は疲れて不機嫌そのもの。帰宅したのは午前3時をまわっていました。





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