Counter

 ジオログ

 日記ページへ

  新視点  北巨摩の古代御牧  白州ふるさと文庫 清水三郎

 

 一、甲斐古代牧の謎

 山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。

 私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。  

一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川家光将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、史実のように記してあっても大半は難解でしかも過去の文献の引用である場合が多く見られる。高名の研究者

が書いたから正しいのではなくて、研究者の探究度と有効な資料の蓄積から方向性が導かれるものである。県内の歴史書は視野が狭い。歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。

 さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している−北巨摩の古代勅使御牧(官牧)−の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。

 二、甲斐の黒駒

 古代巨麻郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、古代の巨麻郡は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(三カ所)、信濃(十七カ所)、武蔵(四カ所)、上野(九カ所)、毎年献上する貢馬(くめ)数は甲斐国六十匹(柏前牧・真衣野牧三十、穂坂牧三十)、信濃国(八十匹)、武蔵国(五十匹)、上野国(五十匹)である。単純に一御牧の貢馬数は、信濃一牧あたり四、七匹。武蔵は十二、五匹。上野は五、六匹。甲斐は二十匹と一御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ一御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかは歴史書は紹介していない。

 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於ても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇十三年(469)の項に《罪に問わた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。

   ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒

 古記が正しければ、雄略天皇十三年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於て高かったことは、五世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。雄略天皇九年(465)には河内国のにおいて換馬の伝説として「赤駿の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていたり、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。

 山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬や乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡・鐙が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。

 甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於ては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於て牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。

 

 三、甲斐の勅使牧(御牧)

 甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜五年(905)年に着手して三十二年後の延長五年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる。甲斐の三御牧とは穂坂牧−現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧−現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧−現在の武川村周辺とするのが定説になっている比定地になっているが、長野県の望月牧ような牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、残された字地名も少ない。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。

 雄略天皇十三年に見られるように、甲斐の馬は当時既に良馬として認識されていたが、甲斐三御牧のうち穂坂牧から天皇に献上する御馬の文献に見える初見は天長六年(829)のことなので、既に三百六十年経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者はいない。一般的には牧が近接していることが考えられるが、定説の武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地定説のうち穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われ、これは数多くの歌に詠まれている。しかし柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料は見えない。『国志』の説明も中央文献以外抽象的でしかも真衣野牧の歌は間違って掲載されている。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平六年(936)で穂坂牧から遅れること百七年経過してのことである。貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び。十カ月間調教して明年八月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進めることを駒牽といい、駒牽の日時は穂坂牧は八月十七日、真衣野。柏前両牧は八月七日と定められた。 貢馬された御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。

 貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇六年四月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇六年(597)四月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋九月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃のに到った云々」とある。この話は後世に於て黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。

 天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日−武持−佐彦−山前−金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。

 天平九年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。(『正倉院文書、天平十年駿河正税帳』による』) (『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子) 天長四年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は千余匹であると記している。

 さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説はうなづけない。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。こうした説は『国志』から始まる。それは「真衣、萬木乃と訓す。又用、真木野字、古牧馬所今有、牧ノ原 、又伴、余戸、惣名、武川は淳川なり。云々」。『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って真実とは言えない。甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。

 「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』−相模古郷皆云有 牛馬之牧 )もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。 

 

 

 

 


山梨歴史講座 甲斐上代国政関係者一覧

    『甲斐国志』「姓氏部」

 甲斐前司家国(宗国)

  建長、正嘉の引付番の内に見ゆ。初甲斐国に任ずる人なるべし。姓氏を知らず。   建長(1249〜1256) 正嘉(1257〜1259)    『東艦』

 甲斐守為時(為成)
  同書正元、弘長中の記に見えたり。又姓氏不詳。
正元(1259〜1260)弘長(1261〜1264)    『東艦』

 甲斐次郎左衛門尉
 甲斐三郎左衛門尉為成
 甲斐五郎左衛門尉為定    『東艦』
  等とあり為時の息子か。  
  延喜の後世既に陵遅の及び国史詳ならず。経歴二百年にして保元・平治(1156〜
  1160)に一変し、鎌倉創業時至諸国守護職を置き政を専にす。是に於て国守の威権漸く衰へ紀綱弛みけれは叙任の事も分明ならず。凡て守護人を斥して国守と称する。  類間々多し。本州は武田一門鎌倉の親族たるを以て、武威殊に厳なれば郡司庄官の所知を併合して国中に延蔓せり。然れども応仁(1467〜1468)擾乱の頃までは猶微々として国衙の号令行はれし趣なりき。但し国守の交替僚属の姓名等は得て記するもの甚だ少なり。

 甲斐大掾中原清重   延慶四年(応長元年/1311)三月三十日県召除目。    『園大暦』
 長井甲斐前司泰広 
  建武年間(1334〜1338)の記に関東廂番の中に見ゆ大江一族なり。

 武田甲斐守 
  太平記建武二年(1335)の項に    『太平記』
 甲斐守盛正    『太平記』 甲斐前司盛信   康永四年(貞和元年・1345)
  天龍寺供養の記なり。園大暦には前司と記して盛信の字なし。盛信は岩崎氏にあり。   『天龍寺記・園大暦』  一条源八時信   
  為甲斐守其孫甲斐太郎信方又為甲斐守以上不詳。  『一蓮寺旧記』
 武田伊豆守信武
  専ら惣領職なり。分流の家より甲斐守に任ずる事覚束なしとなん。

 久下甲斐目成氏 太平記   金勝院本に元弘元年(1331)主上笠置没落する条下生捕人の中に見ゆ。
   『太平記』 甲斐介藤原重尚  
  貞和二年(1346)二月十九日    『園大暦』
 甲斐目藤井有彦  
  今日被始行県召除目也。二十二日入。夜聞書到来と云々。

 甲斐権目坂田重久 
  康永三年(1344)正月の記にあり。

 弾正忠業朝
  貞治三年(1364)十二月十一日    
  寄進状一章の文中に前々目代方寄進状坡見之上は云々とあり。業朝も国衙に居りし目  代なり。  『一蓮寺所蔵花押』

 斯波陸奥守   
  建武四年(1337)七月十六日
  柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書
  散位花押、小岡郷内にて寄進の証状なり。
 観応二年(1351)六月二十日

補任甲斐国東三眛田肆段名主職事最手房丸所云々  柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書
  留守別花押・国別当花押 
 嘉慶元年(1387)十二月十三日
補任甲斐国国衙八幡宮法華経田公文職事柏尾大善寺所云々
  留守所花押  文安六年(宝徳元年/1449)五月二十六日

 河村隼人・船越因幡守
  花押禁制一章あり。文面によるに国衙の書法なり。右合わせて五通前文附録にのす。この頃本州に領地ありし人。観応二年(1351)  『奈良原広済寺文書』  
 石堂右馬允義房・桃井播磨守直常・高播磨守師冬  京攻の条に桃井直常扇が一揆の中より
  秋山蔵人光政云々(秋山は本州の人。本伝の出づ。此時桃井に属し出陣す。高倉殿京都退去の条に石堂右馬允義房・桃井播磨守直常二人高倉殿へ参て申けるは、
  甲斐国と越中国とは己に我等か分国として相交る。敵候はねば旁以て安かるべきにて
  候とあり。
  同二年高師甲斐国に落ちて洲沢城の籠り討ち死にせし事。又阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠采色邑の事等見ゆ。
  当時武田一類六人、逸見・小笠原の一族十六人なりと云う文も見えたりと他姓の人も多く食采せし事なるへし。    『太平記』  

 斯波陸奥守家長  建武四年(1337)七月十六日   
  甲斐国小岡郷内寄進状
暦応二年(1339)四月十九日    『柏尾大善寺文書』   国衙在庁の証状の添状も有之
  一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按に本州の在りし。
   一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。
   『柏尾大善寺文書』  一蓮寺過去帳に永享十一年(1439)二月十日縁仏房(一色参州息女)あり、其党  ならんか。 『一蓮寺過去帳』   
 渋川宮内右衛門尉義長
  志麻庄上条八幡宮、大永四年(1524)の棟札に見えたり。

  甲斐国
 武田臣(姓氏録云、竹田臣)
  孝元天皇皇子大彦之男武渟川別尊ノ俊也。
  (竹・武訓相通ス)日本記祟神天皇十年(日本書紀/紀元前88年)旧事記ヲ按スルニ武渟川ノ裔孫大臣命為諏方国造趣ナリ。
  続日本記養老五年(721)割信濃国始置諏方国天平三年(731)廃諏方国伴信濃国トアルハ後再有置廃之事ニヤ。  
  本州ノ地モ諏方国ニ割キ併セラル故アリテ淳川(今武河ニ作ル)武田ノ地名キカ此ニ起ス日本武尊之皇子亦此ニ封ヲ受ク。武田王ト称スト云。古蹟部ニ委シ。
  延暦廿四年(805)従五位下岳田王為二甲斐守一事日本後紀ニアリ岳田、武田ノ異同未考)
  後ニ武田太郎信義廃柏ヲ風シ絶エタルヲ嗣キ始武田ヲ以テ氏号ト為シ是ヲ以テ其家信  義ヲ宗相ト称シ世々諏方法性大明神ヲ崇敬シテ氏神ト為スナリ信玄号法性院信勝ノ幼名云竹王丸ノ類皆本于此ト云


 布施朝臣 
  姓氏緑ニ武田臣同相也中世ニ布施氏アリ。武田氏ヨリ紹ク親故部ニ出ツ以下所記都郷  圧保旧池名ニ拠ル者ハ所賜ノ姓戸ニシテ氏族所賜ノ姓戸ニシテ氏族ニ非ズト覚エタリ後一変シテ氏ト為ル者へ此ニ略記シテ本伝ニ委ス他皆之ニ隣ヘリ。    
   
 靱大伴部連 ユキヘヲヲトモノムラジ
  景行天皇四十年(日本書紀/110)日本武尊征東夷(中略)至甲斐国居酒折宮中略則居是宮以籾部賜大伴運之遠祖武日也(武日此時副将軍ナリ)
  姓氏録ニ大伴宿欄高皇産霊尊五世孫夫押日命之後也初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命大来目部立御前降千日向高千穂峯然後以大来目部為天靱負部靱負之号起於此也雄略天皇御世以天靱員賜大連公ニ云々続日本紀神護景雲三年(769)陸奥国白河  郡人外正七位下靱大伴部継人、黒川郡人外従六位下靱大伴部等八人賜二大伴蓮一ト見エタリ大伴ハ淳和天皇(823~ 831)ノ御誼也。 『日本紀』
  弘仁十四年(823)改大伴宿禰為伴宿禰蝕レ諱也トアリ。
  従ヨリ爾後単ニ伴ト称ス。(信州有伴圧後伴野氏出之豊後大友氏目藤原姓出)甲斐国山梨郡ノ人伴直富威、三代実録貞観七年(865)八代郡擬大領無位伴直真員同郡人伴秋吉等ノ事アリ酒折ニ兎宅倍山ト呼ブ処アリ。  『続日本後紀』 師ハ軍器ノ名号手ニ繋ケテ受弦モノニテ其文ヲ鞆絵ト云。即チ後世所謂巴ノ紋ナリ。此山草莽ノ間岩石缺ケ落チテ自然ニ鞆絵ノ形アラハル。故ニ之ヲ名トス。酒折ハ古蹟  部ニ記ス。上代ノ都会風致アル天府ノ境地大伴武日居之領靱部之地故ニ子孫靱大伴ト称セシナラ ンカ。蓋シ資地名山大伴部ノ濫觴此処ナルヘシ(城州鞆岡、備州鞆律モ此類ニヤ)
  郡司大少領ハ終身ヲ以テ限ト為ス。麿代之任ニ非ストアレハ伴姓亦連綿ト続キタル在庁ノ官人ナラン。一連寺過去帳ニ文明ノ頃(1469〜1487)伴野作州法名行阿ト云者見ユ壬午ノ時ニ伴嘉石衛門等アレトモ闇エタル者ハ希ナリ酒折」酒依ニ作ル。  今阪折トス。中世酒依氏アリ士庶部ニ記ス。

大伴山前運 
  姓氏緑ニ大伴宿禰同祖日臣命之後也トアリ。山前今山埼ニ作ル中世山前圧ト云又桜井村アリ桜井宿禰ノ事ニ因ルカ皆阪折ノ近隣ナリ。

建部公 
  姓氏緑ニ日本武尊之後也日本紀ニ日本武尊崩化白鳥(中略)作三陵号日白鳥陵欲録功 名即定武部也トアリ。即是也古蹟部ニ記スル所小石和筋ニ竹居村アリ古竹生ニモ作ル。 今モ鳥阪ノ下花鳥陵ニ日本武尊ヲ祀レリ。稚彦路ノ由ル所ニテ日本武尊ノ皇子稚彦王 此ニ封ヲ受ク即チ武部ノ地是ナリト云。建、竹、武ハ古通シ用ヰタリ。建部タテベト訓シ或ハ源姓ヨリ出ツト云ハ非ナルヘシ

 塩海宿禰 
  『旧事記』所戦甲斐国造ナリ己ニ前ニ見エタリ其姓へ後マデ本州ニ伝ハレリ(塩海ハ房州安房都ノ郷名ニテ和名抄ニ見ユ。
  今塩見村存セリト云。本州北山筋ニ塩部村有り旧池名也若シクハ之ニ本力)
   『旧事記』  『保元物語』ニ保元々年(1156)七月官軍勢そろへの条ニかひには、しほみの五  郎同六郎(参考ニ云鎌倉本志保美ニ作ル)又御曹子為朝のために甲斐国の住人塩みの五郎射殺さると云云。   『保元物語』
  大石寺本ノ曽我物語ニ建久八年(1197)富士野ノ裾井出ノ屋形云云。甲斐国住人ノ中ニ渋美弥五郎同六郎兄弟八人トアリ。渋実ハ塩見ノ誤ナルヘシ中古他之記載ニ顕ハレサレハ委シキ事ハ知レザレトモ此頃ニ至ルマテ姓氏伝ハリテ国士タル趣ナリ。後  ニモ流落シテ其氏アリ。

  『曽我物語』
  寛氷三寅年(1626)北山西小松石宮ノ棟札ニ大工塩見左兵衛、同十七辰年(1640)和田村諏方明神ノ棟札ニ塩見官内丞ト見エタリ。今因州取鳥渚中ニ塩見兵太夫  ト云者アリ。其先へ本州ヨリ出聞キタリ

 波多八代宿禰
  古事記ニ建内宿禰之子有波多八代宿禰波多臣、林臣波美臣、長谷部ノ 君等之祖也。 『古事記』  三代実緑ニ貞観六年(864)八月八日右京人故従五位下岡屋公祖代賜姓八多朝臣先  出自八太屋代宿禰也トアリ波多、八多トモニ秦ニ同シ今モ姓氏ト為ス者アリ八代ハ都  名、郷名ニモ呼ブ。 『三代実緑』  小石和筋古跡部ニ委シ後ノ八代氏奴白トモ称セリ武田ノ親族 ナリ屋代ハ信州ニ地名  アリ其義八代ト云ニ同シ。

 波美臣
  速見又逸見ニ同シ。巨麿都ノ郷名ナリ。今逸見筋ト云逸見ノ冠者義清ノ拠ル所子孫相  承ケテ氏トス。此筋ニ大倉、小倉(虚々井、又爰井ニモ作ル)
  二氏ハ後ニ小笠原氏ヨリ続ク。藤井保、熱都ノ圧、須玉ノ類旧族ト見エタリ古跡部ニ  審ニス。

 林ノ臣 
  林戸ハ山梨都ノ郷名又林部ニ作ル。姓氏録ニ林ノ朝臣ハ石川ノ朝臣ノ同祖武内宿禰之  後也トアリ。能呂於曽モ同 郡ノ郷名ナリ共三枝ノ村連条ニ出ツ。

井上
  同郡ノ郷名ナリ後ニ甲斐守源頼信ノ弟乙葉三郎頬季ヲ立テ命氏族ト云。将帥部ニアリ
  塩田荘及岩埼ト云モ此筋ノ著姓ナリ。

 石禾
  同郷ノ郷名ナリ後ニ石禾御厨ト云国衙ニ隣レル都会也。今大石和筋ト呼ヘリ平治物語  ニ石和四郎信景ト云者ヲノス。氏族アリテ武田ノ大姓ナリ。

中臣粟原ノ連
  姓氏緑ニ天児屋根命七世孫雷大臣之後也トアリ栗原へ郷名今栗原筋ト称ス。武田家ヨ  リ柏ヲ紹キ氏族トナル。(等力・トドロキ)ナル。

 等力 或ハ轟ニ作ル。

 大野 共ニ同筋ノ郷名ナリ今記スル所ナシ。

 曽根ノ連 
  姓氏緑ニ神饒速日命之後也トアリ。八代郡ノ荘名ナリ。阿佐制ノ圧(又浅利ニ作ル)
  同郡ニ在り共武田ノ親 族ナリ将帥部ニ記ス

 長江

 白井 郷名ナリ是モ氏族アリ

市川
  姓氏録ニ市川朝臣(又市川臣)大春日朝臣同祖、天足彦国押人命之後也ト云云。市川  又市河ニモ作ル郷名ナリ。    『姓氏録』
  東鑑ニ市川別当行房等アリ将帥部ニ記ス大石寺本曽我物語ニ一河、城ノ小太郎ト記セ  リ。按ニ城氏ハ鎮守府将軍秋田城ノ介平維茂ノ後ヨリ出ツ。今此郷内ニ城山ト云処ヲ  里人ハ相伝へテ城殿ノ堀址也ト云ヘリ。然レバ後ノ市河氏ト云者ハ本、城氏ニシテ平  姓ナリシニヤ。 『東鑑』
 許勢小柄宿欄
  古事記ニ武内宿禰之男也許勢臣雀部臣等祖也。姓氏録ニ巨勢朝臣ハ石川同祖巨勢雄柄  宿禰之後也トアリ。山梨中都ノ古蹟部士庶部委シクス。許勢ハ小瀬氏ナリ。武田ノ親族衆ニアリ。小柄ハ小河原氏ナリ変シテ二氏トナル人亦其姓ナル事ヲ云ハス。又小曲  氏モ此辺ニ村名アリ、旧族ト見エタリ。    『古事記』
 巨勢槭田朝臣
  姓氏録ニ雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後男荒人 畠極御世(日本書紀/642〜644) 遣佃葛城長田其地野上漑水難至荒人能鮮機術始造長槭川水潅田天星大悦賜徹田臣姓也(槭ハ和名秒云和名以比、准南子決塘発槭註云槭所以□竇トアリ今云埋樋也)北山筋  ニ飯田村アリ其訓協ヘリ。後飯田氏ハ武田ノ氏族ニアリ。     『姓氏録』
三枝連 
  日本紀ニ顕宗天皇三年(日本書紀・487)夏四月戊辰置福草部姓氏録ニ三枝ノ連、 天津彦根命十四世孫建呂巳命之後也    『日本紀』
  頭宗天皇御世集ニ諸氏賜饗醺于時宮廷有三茎之章献之因賜姓三枝部連云々(延喜式云  福草端草也朱草別名也生 宗廟中云々。

  和名抄云佐木久佐、又加賀国江沼郡、飛騨国大野都等ニ三枝郷アリ佐以久佐ト訓ス、是福草ノ遺称ナルヘシ)    『和名抄』
  拾芥抄ニ率川社南在社三枝御子也以三枝華・餝・酒樽祭故日三枝ノ祭神祇令ニノセ和  歌ニモ詠リ。    『拾芥抄』
  続日本後紀 承和十一年(844)五月丙由甲斐国山梨郡人伴直富成カ女、年十五嫁  郷人三枝直平麻呂生一男一女而承和四年(837)平麻呂死去也。厥後守節不改、年也四己十四而攀号不止、恒事斎食榜於霊床宛如存日量彼操履堪為節婦考勅宣終身免其  戸田租即標門閭以旌節行トアリ。  『続日本後紀』
  三枝家伝ニ守国罪ヲ蒙り甲州東都能路ニ配流セラレ後ニ在庁官人トナリ鎌田氏之女ヲ  娶リ四男子ヲ生ム(中略)柏尾寺ヲ建テ氏寺ト為ス長徳四年戊戊(998)九月十九日卒年百六十ト見エタレハ其生誕ハ承和六年(839)ニ当レリ。然レハ彼ノ配流以  前ヨリ本州ニハ三枝直ヒ者アリシ事明ナリ。是即チ三枝部ノ祖ナルヘシ。
  『三枝家伝』
  長寛勘文ニ甲斐守藤原朝臣忠重、目代右馬允中原清弘在庁官人三枝守政絞刑ニ処スト見エタレハ、斯ル時ニ三枝ノ本家断絶ニ及ビシカ後ノ記載ニ顕レタル者ナシ。柏尾山所蔵正安三年(1301)上マキ用途勧進ノ記ニ三枝吉家、三枝正家アレト其  人へ審ナラス。   『長寛勘文』
  信虎ノ時石原丹波守ニ命シテ旧祀ヲ秦ジ三枝姓ヲ輿サシム事ハ将師部ニ委シ。
  三枝系図ニ所記守国五男子アリ(兄弟ノ行次ハ異説アリテ不分明)


 石原太郎守氏
  母ハ石原氏長男為り。或五男石原介守時ニ作ル後ノ三枝氏ハ此苗裔ヨリ興ル。

 能呂介守将 
  母ハ鎌田氏以下同シ。能呂ハ山梨郡ノ郷名也。後ニ其一類ヲ称シテ能呂党ト云。辻ト云地名モ郷中ニアリ。別ニ氏トナル各土庶部ニ記ス。

 林戸介守党(守当守常ニ作ル)
  同郡ノ郷名ナリ。前ニ出ツ。

 立河介守忠
  同郡ノ庄名ナり。或ハ太刀河、竪河、館川ニモ作ル彼条ニ委シ。

 隠曾介守継
  於曾ハ同郡ノ郷名ナリ。後ニ武田家ヨリ紹ク。親族部ニ記ス。萩原ト云地モ近隣ニ在  リ同族ナリト云。世ニ称スル所ノ三枝七名トハ三枝、能呂、林戸、於曽、石原、立河、辻(辻 或萩原ト為ス)是ナリ。外ニ窪田、石坂、山下、沓間(久津間ニ作ル)内田  等ノ諸氏三枝姓目ラ出ツト云。但シ三枝ハ姓也諸記ニ三枝松氏トモ書ス。未ダ其所以  ヲ知ラズ。又柏尾山、窪八幡等所蔵寛氷中(1624~1643)三枝伊豆守守昌等ノ文書ニ  ハ皆源姓ト記セリ。其余紀姓トシ平姓ト称スル者アリ。明拠ナクンバ誤ト云へシ。
  熊野村熊野神社応仁元年(1467)ノ棟札ニ三枝臣菱山真徳、同社天文十八年(1549)ノ棟札ニ三枝朝臣石原孫石衛門甫直ト記セリ。三枝グ尸(カバネ)へ連ナルヲ臣又朝臣トモ書セルコト如何ナレトモ姓ヲハ忘却セザリシナリ。

  日本紀ニ天武天皇白鳳元年(672)発束海東山軍云々、甲斐勇者トアリ。又按諸史古時令諸国貢進捻膂力人(或相撲人ニ作ル)及軍団兵庫倉廩ヲ置キ防人ヲ命セラル。
   『日本紀』  延喜式ニ健児甲斐国五十人トアリ。凡べテ姓名ヲ記サズ。
  同書ニ持統天皇二年(688)五月戊午朔、乙丑以百渚敵須徳那利移甲斐国ト見ユ。其事解スヘカラス。    『延喜式』
田辺史 
  姓氏録ニ豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也。又田辺宿禰アリ。続日本紀天平中(729〜765)甲斐国守田辺史広足見ユ後ノ田辺氏是ヨリ伝ハルカ。其世ハ既ニ□焉タリ。    『姓氏録』
 小谷直 
  続日本紀神護景雲二戊申年(766)五月辛未甲斐国八代郡人小谷直五百依以孝見称復其田祖終身ト按ニ八代郡ニ大谷山アリ。大ノ言へ小ニ混ズ大田切、小田切ノ類ノ如シ是其遺名なランカ。又其条ニ委シ。   『続日本紀』
 石川・広石野
  日本後紀延暦十八年己卯(799)十二月五日甲戊甲斐国人止弥若蟲、久信耳鷹長等一百九十人言己等先祖元是百済人也。仰慕聖朝航海投化即天朝降縞旨安置摂津職後依丙寅歳正月廿七日格更遷甲斐国自爾以来年序既久伏奉去既久伏奉去天平勝宝九歳(天  平宝宇元年/757)四月胃勅稱其高麗、百済、新羅人等遠慕聖化来附我俗情願賜姓悉聴許之而己等先租未改蕃姓伏請蒙改姓者賜若蟲姓石川、鷹長等姓広石野トアリ。
  『日本後紀』
  姓氏緑ニ石川朝臣孝元天皇皇子彦太忍信命之後也、広石野都留郡ニ小篠村アリ若シク  ハ其遺名ナランカ。    『姓氏緑』
 上村村・小長谷直
  日本逸史天長六年己酉年(829)十月乙丑甲斐国人節婦上村主万女叙位二級終身免戸田租万女年十五嫁小長谷直浄足生三男一女去大同三年(808)浄足死去自爾以後礼敬虚霊猶甲如在村里称之ト按ルニ姓氏録ニ上村主出自魏武帝陳思王植之後也。一号  東阿王又広階(ヒロハシ)連同祖通剛王之後也トアリ。   『日本逸史』
  山梨郡ニ加美郷、都留都賀美郷アリ。小長谷モ都留郡ニ強瀬村アリ。永正十七年(1520)岩殿権現棟札強瀬四郎三郎同六郎ト見ユ。
  又小長谷長門守道友ト云者壬午ノ後幕府ニ奉仕ス同十九卯年死六十二歳也法名常栄ト号ス。

 大村ノ直 
  姓氏緑ニ天道根命六世孫若積命之後又紀直岡祖大名草彦命男枳弥命之後也。 
  (紀州ニ名草都牟婁都アリ室、村ハ通用)山梨郷、加美郷ニ後牧之荘ヲ層キ馬城ヲ三段ニ分チテ中牧、西保(保ハ部也)等ノ名アリ。中牧ニ大村ト云処アリテ大室、大牟礼トモ呼ヘリ(牟礼トハ族集ノ義ニテ村室モ同言葉ナリ)是大村直ノ拠ル所カ。後ニ  ハ大村一党トテ党ヲ樹ル土人アリ。室 臥、奥葛間、西保、小田、武河等ノコトハ古跡部ニ記ス。

 要部、田井、古爾、玉井、要部、大井、解礼、中井、
  続日本紀延暦元壬成年(782)六月庚辰甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改 本姓為田井古爾等為玉井鞠部等為大井解礼等為中井並以其情願也。  『続日本紀』 田井ハ地名不詳後ニ武田氏ヨリ紹キ田井五郎光義ト云者アリ。   玉井ハ山梨郡東部ノ郷名也。八雲御鉱ニハ玉ノ井ノ里ト見ユ。本州ノ姓氏ニハ聞エタ ル人ナシ。鞠部「カナマリ」ト副スヘシ

  東鑑ニ上総国ニ金鞠藤次アリ。後ノ記録ニ金丸氏トス。本州ノ金丸氏ハ武田ヨリ嗣キ鞠部ノ廃迹ヲ輿スナリ。将帥部ニ委シ信州ノ丸子駿州ノ鞠子亦之ニ類スヘシ。
  国守部ニ記スル所ノ丸部臣ハ鞠部ニ同シカラス。東鑑ニ安房国丸ノ御厨又丸五郎信俊ト云者見エタリ。後ニ丸、東条、安西、金鞠トテ彼国ノ四家ト称ス。本州ニ丸氏ハ所聞ナシ 『東鑑』
 解札
  後世塩入氏ノ類ニテ加入海瀬ナト云氏族アリ。是其遺称ナランカト云者アリ未穏。

 中井
  本州ニ所闇ナシ。並ニ要部、古爾、未考。

 大井
  巨摩都ノ郷名ナリ。山梨郡ニモ大井窪ト云処アリ。大井郷ハ後ニ大井ノ圧トモ云。

   宇治袷遺物語ニ
  甲斐国の相撲大井光遠はひざふとにいかめしく力つよく足はやくみめことからよりは  いみじかりし相撲なり。それが妹に年廿六七ばかりなる女のみめことからけはひもよ  くすがたもほそやかなるありけりそれはのさたが家にすみけるにそれが門に人におは  れたる男の刀をぬきてはしり入てこの女をしちにとりて脇に刀をさしあてゝ居ぬ人は  しり行てせうとの光遠に姫君は質にとられ行ぬとつげられは光遠がいふやうそのおも  ては薩摩の氏長ばかりにこそはしちにとらめといひてなにとなくてゐたれはつけつる  をのとあやしと流もひてたちかへりて物よりのぞけは九月はかりの事なれば薄色の衣 重に紅葉の袴をきて口おほひしてゐたり男は大なるおのこのおそろしけなる大の刀を  さかてにとりて腹にさしあてゝあしをもてうしろよりいたきてゐたりこの姫君左の手  してはかほをふたぎてなく右の手しては前に矢のゝあとつくりたるが二三十ばかりあ  るをとりて手すさみに節のもとを指にて板敷にをしアてゝにじれば朽木のやはらかな  るをおしくだくやうにくたくるをこのぬす人目をつけて見るにあさましくなりぬいみ  しからんせうとのぬしかな槌をもちて打くたくともかくはあらしゆゝしかりけるちか  らかなこのやうにてはたゞいまのまにわれはとりくだかれぬべしむやくなりにげなん  と思て人めをはかりてとびいてゝにげはしる時にすゑに人ともはしりあひてとらへ行  しばりて光遠かもとへぐして行ぬ云々

  日蓮年譜ニ弘安五年(1282)九月九日大士大井ノ荘司ニ投宿スト見エタリ。諸書  ニ荘司ハ日蓮ノ弟子日興ノ父トス。

  日輿ハ六老僧ノ一員ニテ富士派ノ所祖ナリ(信州ニ大井圧二所アリ東鑑ニ載セタル大  井兵三次郎実治、大井紀石衛門実平等ハ紀姓也。
  又小笠原次郎長清ノ七男大井太郎朝光ト云者佐久郡大井ヲ食テ岩村田ニ居ス。子孫繁  シ皆本州ノ大井姓ト異ナリ(武田陸奥守信武ノ次男信明大井弾正少弼ト号ス)廃祀ヲ  輿スナリ。
  是ヨリ本姓源ヲ称シテ大井ハ氏族ノ如クナレリ。西郡士庶部ニ詳ナル故ニ此ニ略ス。   
吉弥候部 キミコベ
  日本逸史弘仁十四年(823)五月戊午甲斐国賊首吉弥候部井出麻呂等大少男女十三  人悉配流伊豆国。   『日本逸史』  天長八年(831)二月戊寅甲斐国浮囚吉弥候部三気麻呂、同姓草手子二烟附實駿河 国使無塩也。(類聚国史ニ吉弥候部ヲ作二吉弥雙部一誤也又使無塩也。作下便無塩也。  天平宝字元年(757)三月勅故君子部為吉美候部姓氏録ニ吉弥雙部ハ上毛野朝臣同 祖也トアリ)

 壬生直
  三代実録元慶六年(880)十一月朔己巳甲斐国巨塵都人左近衛将曹従六位上壬生直  益成男三人女四人山城国愛宕郡ヲ實隷ストアリ。逸見筋小尾ニ丹生ト云地名アリ。壬  生ノ忠岑本州ノ役ニ補セラル事アリ。   『三代実録』
 清原真人 
  三代実録元慶八年(882)十二月五日壬戌甲斐国言嘉未禾管山梨郡石禾郷正六位清  原真人当仁宅一其一十三茎五十穂、其一十二茎三十六穂当仁是従四位下豊前王之子也  (石氷当作 石禾)其子孫ノ事ハ大石和筋ニアリ。   『三代実録』
 小野
  姓氏録ニ小野朝臣大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也。大徳小野  臣妹子家于近江国滋賀郡小野村因以為氏、又小野臣天足彦国押入命七世孫人花命之後  也、    『姓氏録』
  本朝世紀天慶四年(941)十一月二日戊午甲斐国真衣野柏前御馬十五匹到来云云。  其解文左馬少允小野国輿持参トアリ。都留郡ニ小野村アリ。又穂坂ノ小野ハ歌ニモ詠  メリ。国輿ハ本州ニ在リシ牧監ノ類ナルヘシ同紀左馬権少届秦忠見御馬便彼国大目伴  並高左馬少允源致等見ユ皆牧馬ノ吏ナリ    『本朝世紀』
 榎下・宮道・麻生 
  東鑑ニ建久五年(1194)八月廿日戊申遠江守ノ(安田義定ナリ)伴類五人名越辺 被刎首所語前滝口榎下重兼、前石馬允、宮道遠式、麻生平大胤国、柴藤々三武藤五郎  等也トアリ。榎下ノ事ハ大石和筋ニ記ス。姓氏録ニ榎本連ハ大伴運同相也、麻生ハ逸  見筋ニ地名ニアリ今浅尾村ト云、宮道柴藤ハ所伝詳ナラス其頃官名ヲ帯ビタル人ハ皆  在庁ノ国土ト見エタリ。称スル所モ姓ニシテ氏族ニ非サル人多力ルヘシ。 『東鑑』
榛源公 
  姓氏緑ニ息長真人同祖 誉田天皇ノ皇子大山守ノ命ノ後也トアリ。榛原ハ泰原(ハリバラ)ニ同シ。遠州泰原郡(倭名抄訓波伊波良)貝原ガ大和本草ニ榛ノ葉榿木(ハンノキ・ハリノキ)似タリ。故ニ榛原ヲ「ハリハラ」ト訓スル由見エタリ。    『姓氏緑』武州ノ榛谷(ハンガヤ)榛沢ト云地名ノ如シ。
  本州ニ榛原氏アリ又埴原ト書ケルハ信州埴科(ハンシナ)郡ノ地名ナリ「ハニ」ト訓スヘシ。相混セシト見エタリ。
余戸
  和名抄所載ノ郷名也。他州ニモ同名多シ其義延喜式等ニ見ユ「アマリ」ト副スベシ。後甘利ニ作ル武田ノ親族ナリ     『和名抄』
 真衣
  (真衣野・真木野トモアリ)共ニ武河筋ニ在ル郷名ナリ。氏族ノコト未考。

 高村ノ宿禰 
  姓氏録ニ出目魯恭王之後 青州刺史列宗王也。今作高室地名在巨摩西郡小笠原氏ヨリ紹ク所也。   『姓氏録』

 錦織村主
  同書ニ出目韓国人波努志也。地名同郡奈胡圧ニ在リ。錦織判官代ト云者太平記ニ見エタリ。奈胡五味等モ此庄ニ出ツ。

加賛美部(又鏡ニ作ル〉
  姓氏録各務(カガム)ハ未者ノ内ニアリ。武田親族加賀美氏ノ拠ル所ナリ。小笠原モ此西ニ在リ。   『姓氏録』

川合
  姓氏緑ニ上毛野同氏多寄波世君之後ナリ。川合ハ郷名ニ在リ。後ニ河内ト云。武田親族ヨリ紹ク南部、下山岩間、下部等此郷ノ庄名ナリ。    『姓氏緑』
 神服部  
  逸見郷ニ神取村アリ。或加鳥ニ作ル。日本紀神護景雲三年(769)奉神服部天下諸社トアリ。是其遺名ナルヘシト云。

 青沼
  北山筋ノ郷名ナリ後ノ青沼氏ハ将帥部ニアリ。又穂坂圧モ此筋ニ在リ。

鹿角(カツヌ) 又加澤野ニ作ル 
  ヌノ仮名ハ通用ナリ。将帥部ニ出ス。亦勝沼氏之ニ同シカルヘシ都留郡ニ葛野村アリ。  
波加利  
  都留郡ノ荘ノ名ナリ。初雁氏。初鹿野氏ニ之ニ同ジカラント云ヘリ。将帥部ニ出ツ。
 古郡   
  古都ハ同郡ノ郷名ナリ東鑑ニ古郡左衛門尉保志ノ事アリ。旧キ国人ナルヘシ。後ノ古郡氏ハ蓋シ此ニ出ツ。将帥部ニ委シ。

   甲斐国志 巻之九十三終 甲斐国志巻之四十古蹟部 人物

 謂波多八代宿禰 
  林戸郷謂波多八代宿禰の胤林臣受レ封ノ處盖し是か。三枝系図による林部之介守の党の事は人物部に出つ。 

 矢作部宅雄 毎世  
  軍団跡 貞観14年( 872 )甲斐国都留郡大領外正六位上
  甲斐国都留郡少領 

 三枝 守国
  軍団跡 承和中(834〜847)仁明帝、本州野呂に左遷する。(三枝系図) 

 平 将門  
  上岩崎村 天慶中(938〜947)平将門下総国猿島郡岩井郷に據りて謀反し、自号平親王誅に伏して後残党諸州に沈落して止まり居る處を自ら岩井郷と称せり。

 古郷左衛門 
  坂東山 建保 5年(1217)五月四日、古郷左衛門兄弟於甲斐国坂東山波加利之東競石郷二木自殺矣(東艦)みさかかた山つるばんとう(曽我物語)鎌倉へ出仕の道すじを云う趣なり。或いは篠山即ち坂東山なりと云々 

 波多八代宿禰  
  八代郷 景行天皇25年(95)秋七月、遺武内宿禰令察二北陸及び東方諸国之地形  且百姓之消息也。『日本記』  27年(97)春二月、武内宿禰自東国還之云々『日本記』  建内宿禰の子有波多八代宿禰波多臣、林臣、波美臣、長谷部の君等祖。 『古事記』 又許勢小柄の宿禰あり許勢臣、雀臣、等之祖。(以上の姓氏皆本州に據りて出しと見  ゆ。各其條に詳にす.

波多(秦)  
  秦氏所貢絹綿軟於肌膚故訓秦字謂之波陀と見えて機織の事に通す。本郡に又蠶絲に名  あり。   『古語拾遺』    
伴直眞貞   
 八代郷 貞観 七年(865)八代郡擬大領 富士浅間神霊の事を載せる。

伴 秋吉
 郡人  『残簡風土記』





 山梨県歴史講座 古代 甲斐の鏡  赤烏元年の銘を持つ鏡

 1、鳥居原古墳(西八代郡三珠町)の中国江南の呉()の年号である赤烏元年(238)   の銘を持つ。

 古墳の形態……円墳。直系20 未満、高さ3 。
 鏡の銘
   赤烏元年五月廿五日丙午造作明鏡百凍清銅・服者君侯・宣子孫・寿万年
   (九州大学岡崎啓教授判読)   解説…山本寿々雄氏(『日本の古代遺跡・山梨』)
 「赤烏」(せきう)と云う年号は江南に国を立て魏(ぎ)や蜀(しょく)と対立・抗争した呉の年号であり、その元年は西暦238年にあたる。この年は遼東半島を中心に勢力をふるった公孫氏の建てた燕(えん)が魏に滅ぼされ、魏が遼東を勢力下におさめただけでなく、燕の勢力下にあった楽浪・帯方の二郡を接収し、東アジアにしの勢力を大いに伸長した年である。こうした状況を察知した「耶馬台国」の卑弥呼は、翌年、大夫の難升米等を帯方郡に派遣し、その使節は魏の都洛陽にいたり、明帝に朝貢した。この年は魏の年号で景初三年にあたる。景初三年の紀年銘をもった鏡には、大阪府の黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡と島根県の神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡がある。
 鳥居原古墳出土の陶磁片…筆者は鳥居原古墳出土の陶磁片と出品物との対比を時間をかけておこなった。その結果江南の浙江省上虞窯出土品の胎土とよく似ていることに気がついた。(中略)鳥居原古墳の陶磁片は日本の古墳出土資料に類似物はなく、これこそ赤烏元年銘鏡ぽおなじ地域で作られたものと推定している。


 2、東八代郡中道町銚子塚古墳(五点)

  ○鏡の種類   長宜子孫内行花紋鏡  
   鏡の銘   長宜子孫・寿如金石
  ○鏡の種類   神人四意虎鏡  
   鏡の銘   陳氏作鏡□青同上有仙人不知 君宜高官保子宜孫長□

 参考−『耶馬台国論争』山口宗和氏著
陳氏作鏡用青同上有仙人不知老君宜高官保子宜孫長寿   『中道町誌』   
陳氏作鏡国青同上有仙人不知□君宜高官保子宜孫長国

 参考−島根県神原町の神原神社古墳の三角縁神獣鏡の銘
景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人□之
位三公母人之□之保子宜孫寿如金石兮
  ○鏡の種類   三角縁三神三獣鏡
  ○鏡の種類   三角縁神人車馬画像鏡
 参考−岡山県車塚古墳・群馬県三本木古墳・福岡県藤崎遺跡出土鏡と同笵関係にある)

  ○鏡の種類    製半円方格帯環状乳神獣鏡
  ○鏡の分類   ダ龍鏡

 3、丸山古墳−東八代郡中道町(米倉山小平沢)
  ○鏡の種類   舶載、斜縁二神二獣鏡
  ○鏡の銘   吾作明鏡 幽凍三商 統徳序道 曽年益壽 宜孫子

 4、団栗塚−東八代郡八代町北、
   鏡の種類    製鏡(銅鏡、乳文鏡の範疇、直径11,5 )
   素縁から外区には菱雲文帯、三角入組文をもち、内外区の境界には半円方格帯を配する。内外には四乳を配し凸線によって四区分されている。  『山梨県史』
   天王日月銘?北八代村ヅングリ塚石室(『考古界』第一篇第五號に斎藤延正氏著)
 5、樹塚−東八代郡八代町永井
   鏡の種類   和鏡

 6、銚子塚−東八代郡八代町岡
   鏡の種類

 7、銚子塚(他に一面)−東八代郡八代町岡 
   鏡の種類

 8、加牟那塚古墳−甲府市千塚三丁目
   鏡の種類   神獣鏡
   鏡の種類   盤龍鏡
   鏡の種類   ダ龍鏡

 9、横根・桜井積石塚古墳−(桜井支群B号墳)甲府市横根町・桜井町
   鏡の種類   珠文鏡(直径7,5 ・文様は素文縁、外向鋸歯文帯、素文帯、二重円圏、一重円圏を経て紐に至る)

10、亀甲塚古墳−東八代郡御坂町成田字亀甲塚
   鏡の種類   盤龍鏡(両頭式、舶載漢式鏡、朱の付着がある)

11、法華塚古墳−南巨摩郡増穂町春米字北林(2面)
   鏡の種類   掘削当時に市川代官所に届け出する。
   鏡の種類   変形獣帯鏡(直径9,9 。厚さ0,1 〜0,3 。朱が付着)

12、五里塚遺跡−東八代郡八代町南字五里原
   鏡の種類   八稜鏡(破片)
13、右左口村発見のと称する五鈴鏡並に鉄冑について。
   中道町古墳分布調査−仁科義男氏(昭和10年)

   表題の遺物は既に本報告執筆意義に於て著者の触目したる事実なるに依り、項外ではあるが茲に追記する所以である。
   直径−12 。厚さ−0,5 。鈴直径約2,7 。矩径約2 。
   内区−丸座の上に饅頭形素紐、相互に向ける二頭の竜と二神像とを支配。
   外区−一段高く鋸歯紋帯。複線よりなる並行波状紋帯。神獣鏡。

14、明治四十年三月三十日付け「埋蔵物発見ノ件別項之通及報告候也」
   (前文略)古鏡一面丸形にして直径六寸ばかり、一見青銅の如き金質なるも判明せず。裏面に唐模様人物畫及文字十二個あり。発見の際、誤て地上に取落したる為に   既に十二片に破壊したりしもの一個。

15、『甲斐国志』巻之四十 古蹟部第三 八代郡大石和筋
   【都塚・京塚】北都塚村の項
   (前略)宝暦十二年の秋、里人某一塚を撥き石筐より八角の鏡など異様の物を得た り。云々

16、『甲斐国志』巻之四十一 古蹟部第四 八代郡小石和筋
   【御前山累蹟】岡村の項
   (前略)宝暦十三年三月、盗有、夜銚子塚を撥く翌日視るに(中略)古鏡三枚。

17、『甲斐国志』巻之四十二 古蹟部第五 八代郡中郡筋
   【曽根郷】上曽根・下曽根・寺尾
   (前略)曽根村に鎧塚あり。(中略)寛文中悪少年ありて其塚を発きしに鏡一面。

18、『甲斐国志』巻之五十 古蹟部第十三 八代郡西郡筋
   【刑部三郎義清墓】
   (前略)農夫一坏を発き所レ獲、円鏡二(径五寸五分)

19、『甲斐国志』巻之五十六 神社部第二 山梨郡萬力筋
   【酒折宮】
   (前略)神宝火打嚢、秘物のよし。唐鏡三面・前立鏡一面

20、大丸山古墳 東八代郡右左口村大字向山小字東山
   『史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五輯』昭和六年刊
   三面
   鏡の種類   白銅鏡−直径17 。約0,2 の反り。
  鋸背の構図は三角縁の内形に並行する二條の波紋線を円らしたる鋸歯紋帯、一段低い斜面には放線半円帯、櫛歯紋帯、銘・日月と相互に鳥獣とを配す内縁、鱗片状凸帯あって内区と区別。内区に六個の   乳ありて六等分、三神三獣が相対する。   
   鏡の種類  …一面、半円方格獣帯鏡。一面、 製鏡。21、

『史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五輯』昭和十年刊 

21、大塚村・豊富村
   丸山古墳−鏡
   大丸山古墳−鏡
   城原古墳群第四号墳−鏡( 製鏡)

   第四群(田美堂及び鳥居原古墳群)第三号墳 鏡(漢鏡)二面西八代郡高田村浅間 神社奉納
   狐塚 一面…四神四獣鏡(赤烏元年在銘)直径12,5 。
  一面…内行花文鏡直径10,5 。
   赤烏元年五月二十五日云々の銘がある。

22、第六群道林古墳群 第五号墳(オエン塚) 鏡

 (この項続編あり)



  祥瑞 延喜式巻第二十一 治部省 
 
祥瑞
  
 1 景星    徳星也。或如二半月一。或如二大星一而中空。
 2 慶雲    状若レ烟非レ烟。 若レ雲非レ雲。
 3 黄・眞人    金人也。又曰玉女也。
 4 河精  人頭魚身。
 5 麟   仁獣也。麕身羊頭。牛尾一角。瑞有レ肉。
 6 鳳  状如レ鶴。五綏以文。鶏冠□喙蛇頭龍形。
 7 鸞   状如レ□(きし)。五綏以文。
 8 比翼鳥 状如レ鳧。一翼一目。不レ比不レ飛。
 9 心鳥・永楽鳥  五色成レ文。丹後喙赤頭。頭上有レ冠。鳴云天下泰平。

10 富貴    鳥形獣頭。
11 吉利    鳥形獣頭。
12 神亀    黒神精也。五色鮮明。知二存亡一明二吉凶一。
13 龍 被二五色一以遊。能明。能小能大。
14 □虞    義獣也。状如レ虎。白色黒文。尾長二於身一。不レ食二生物一也。
15 白沢    一名沢獣。能言語知二万物情一。
16 神馬    龍馬長頸。額上有レ翼。踏レ水不レ沒。騰黄其色黄。状如レ狐。背上有二両角一。飛兎日行三万里。  □□亦喙黒身。日行三万里。沢馬。白馬赤鬣。白馬朱髦。青馬白髦。□□状如レ馬。出二北海一。
 □□自能言語。
17 周市(スチフ)    神獣也。知二星宿之変化也。
18 角瑞    日行万八千里。能言語暁二四夷言一。
19 解□    如レ牛一角。或状如レ羊。有二青色一知二性曲直一。有レ罪則觸。
20 比肩獣   前足鼠。後足兎。不レ比不レ行。
21 六足獣   瑞獣也。
22 茲白    形似二白馬一 鋸牙食二虎豹一。
23 白象    其形咬身六牙。
24 天鹿    純霊之獣也。五色光耀洞明。一角長尾。
 ( 7 鶏冠 ・状如レ )( 14 虞)( 16  亦喙黒身。・自能言語。)( 19解 )

     
   甲斐古代が見える年表

甲斐を治めた官人と甲斐源氏&甲斐勅使牧

              《註》参考資料、山梨県史他



…詳細は『国書』・『山梨県史』・『各市町村誌』の各編を参照…

○雄略13年(469)9月【『日本書記』】
…木工猪名部眞根の死罪を赦す勅使が甲斐の黒駒に騎り馳せて刑場に至り眞根の命を助ける。……ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒…

○推古6年(598)4月【『扶桑略記』】
…聖徳太子が良馬を求めて、甲斐烏駒を得る。
…太子命左右、求善馬竝符諸国令貢、甲斐国貢、烏駒数百匹太子指此馬曰是神馬也、令舎人調使麿飼養。云々
 
○推古6年(598)9月【『一代要記』】
…太子試験馭甲斐烏駒浮雲東去。云々  
【『見聞集』】
…烏駒は足は四本白であった。此馬は甲斐の穂坂産。    
【『節用集』】(零写本)
…烏駒(クロゴマ)聖徳太子の御馬也。甲斐国より出。
【『塵袋』】    
…黒駒と云ふは聖徳太子の御馬甲斐の黒駒の外はなき歟、黒き馬をは黒駒と云はむか、なき歟如何。名物に混乱すれは、くろきこまなれと、くろこまとは云はす。但しかひのくろこまと云ふ事は太子の御馬ならねとも、昔もありけり。
…雄略天皇の御宇十三年秋九月猪名部、云々(参考−日本書紀、雄略十三年の項)
【『今昔物語集』】
…亦、太子、甲斐の国より奉れるき小馬の四の足白き有り、其れに乗て、空に昇て雲に入て東を指て去給ぬ。〔調〕使丸と云ふ者、御馬の右に副て同く昇ぬ。諸の人、是を見て、 空を仰て見て (ののし)る事尤限し 太子、信濃の国に至給て、神輿の境を廻て三日を経て還給へり。
【『三宝絵詞』】
…聖徳太子とその妃は、同日死去した。その日、太子の黒駒は草水を口にせず、太子の墓まで行って一度いななき、倒れ死んだ。また、太子がかって衡山より持って来た経も、その日消え失せた。
【『源氏物語』】「黒駒」
…さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。
《筆註》 
…奈良県生駒郡斑鳩町東福寺には聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」の駒塚古墳があり、飛鳥の橘寺には黒駒の像がある。

○考徳1年(645)8月5日【『日本書記』】
…東国国司の発遣
…国造と郡領とだけは従わせてよい。公用でゆききするときに限り、管内の飯を食べることができる。

○天武1年(672)6月24日【『日本書記』】「駒関連記事」
…この日、天皇は出発して、東国にお入りになった。急なことで乗物もなく、徒歩でお出
かけにになっが、程なく犬養連伴の乗馬の出会ったので、これにお乗りなった。皇后は輿に乗せてお従わせになった。津振川に着く頃、やっと天皇の乗馬が追 いついたので、 これにお乗りなった。(略)大伴連馬来田(略)追いついた。(略)屯田司の舎人、土師連馬手が天皇の従者の食事を奉った。湯沐の米を運ぶ伊勢国の馬五十匹と莵田郡家の前で出会ったので、米を捨てさせ、徒歩の者をそれに乗らせた。云々

○天武1年(672)6月24日【『日本書記』】
…大海人皇子 東国に入る。

○天武1年(672)7月2日【『日本書記』】「甲斐の勇者関連」
…紀臣阿閑麻呂らに数万の兵を率いさせ、伊勢の大山より倭に向かわせる。

○天武1年(672)7月4日【『日本書記』】
…甲斐の勇者
…近江方に破れた吹負は、僅か一人二人の騎馬兵を連れて遁走す。吹負は散り散りになった兵士を召集した。(略)来目という名の勇士があり、刀を抜いて馬を駆り、まっしぐら に、敵陣に突入した。騎兵がすぎこれに続き、遁走する近江の軍を追って、多くの兵士を斬った。一方この日、三輪君高市麻呂と置始連菟とは三本の道路のうち上道の守りにあたり、箸陵のほとりで戦って近江軍を大破し、勝ちに乗じて鯨の軍の背後を切断した。このため鯨の軍は散り散りとなって逃走しし、多くの部下が殺された。鯨は白馬(あをうま)に乗って逃げたが、馬が泥田に落ち込み動けなくなった。
…これを見た将軍吹負は甲斐の勇者に、「あの白馬に乗っているのは廬井鯨だ。急いで追って射よ」と命じた。甲斐の勇者は、馬を馳せて鯨を追ったが、今にも鯨に追いつこうと したとき、鯨が激しく馬に鞭をあてたので、馬は泥から抜け出し、駆けて免れることができた。

   甲斐国司 〜延暦21年(802) 《御牧関係は別述》

☆持統天皇、在位(690〜697)
☆文武天皇、在位(697〜707)

○和銅4年(711)〜霊亀(716)
 【『山梨県考古学論集』】村石眞澄氏著
…所載記事
 「甲斐の馬生産の起源」…塩部遺跡SY3・SY4方形周溝墓出土のウマ歯から‥(略)8世紀前半の資料としては長屋王邸跡から出土した木簡群の中に、甲斐と馬の関係を物語るきわめて重要な木簡6点が存在し(原2002山梨県2001)その中の1点には次 のように記されている。

表…御馬使信濃−□甲斐−上野二口右
裏…四米四升五月二日「受板部…黒万呂」

 原正人(1995)によれば、「馬司」は長屋王邸に属する家政機関の一つで、邸内の厩舎で馬の飼育を任務としたとされる。馬司には甲斐・信濃・上野などの出身の専門職員が複数人おり、木簡はいずれも一人あたり一升の米を請求し、支給を受けた際の帳簿として使用されたものらしい。長屋王邸跡出土の紀年木簡の年代幅は、711〜716年に限定されるという知見から、この時期に甲斐など三国にはすでに御牧の前身にあたるような牧が存在し、良馬の生産として知られていたため、朝廷や有力貴族のもとで、その専門技術を生かして馬の飼育に従事していた専門職員が存在していたと推定している。

《参考》奈良文化財研究所の「木簡デ−タベ−ス」によれば、甲斐関係の木簡として次の物を挙げている。

形式番号…039(平城宮1−14)
…□「甲斐国」山梨郡

形式番号…031(木研1−56頁)
…「甲斐国」山梨郡雑役胡桃子−
天平寶宇六年十月(762)

形式番号…031(平城宮1−20)
…「甲斐」山梨郡雑役胡桃子−
天平寶宇六年十月(762)

形式番号…6039(飛5)
…大井里人

形式番号…081(木研10−91頁)
…依私改度不破関往本土甲斐国戸人麻呂=

形式番号…081(平城宮4−4199)
…泉伊勢参河近江甲斐下総常陸
【「」小野朝臣人公】 

形式番号…019(木研9−118頁)
…甲斐国山梨郡加美郷丈部宇万呂六百
天平寶宇八年十月(764)

形式番号…011(城21−21上)
表 御馬司信濃 口甲斐 口上野二口右
裏 四米四升五月二日「受板部黒万呂 」

形式番号…081(平城宮2−1916)
表 馬司帳内甲斐常石 廣末呂 右四人米
裏 〈〉受赤人十一月九日 稲虫書吏

形式番号…081(平城宮1−295)
表 馬司甲斐二人*上*野四人六人
裏 米一斗二升十月十二日「大島」

形式番号…019(平城宮2−1917)
表 馬司帳内甲斐四口米四升
裏 受勝麻呂十月廿四日石嶋書吏

形式番号…6011(平城宮1−297)
表…馬司上野二口甲斐四口
……右六口米六升受
裏…「馬馬郡馬馬馬分…右京馬…」(全体に重書)

形式番号…081(城31−27上)
甲斐国山梨郡

形式番号…091(城33−22上)
国都

形式番号…091(城33−22上)
国都

形式番号…011(長岡京2−783)
大乃年料米五斗

形式番号…019(長岡京2−784)
大乃

形式番号…033(城24−31上
大野郷小田村里舎人部石足

形式番号…031(城31−32上)
加美里物部色布知簀一枚

形式番号…091(長岡京2−785)
大乃

形式番号…030(城34−10下)
茂郷五斗

形式番号…6091(平城宮5−6703)
甲斐

形式番号…6091(平城宮5−6704)
甲斐

形式番号…011(木研22−35頁−2)
大乃白米

形式番号…032(白37−26下)
大井里委文部鳥〈〉米五升

◎ 平城京出土木簡
…………………………甲斐国…………………
依私故度不破関往本土…………人□万呂□□
…………………………戸□□…………………

○和銅7年(714)11月11日【『続日本記』】
騎兵…新羅使節を迎える為に、機内七道から騎兵九百八十騎を徴収。

☆元正天皇、在位(715〜724)
   
○霊亀1年(716)5月16日【『続日本記』】
高麗人…甲斐国など七カ国の高麗人を武蔵国に移して高麗国を置く。(1799人)
 
○霊亀1年(716)この頃か。【『長屋王邸木簡』】
甲斐舎人…甲斐国出身の舎人が、平城京の長屋王邸の馬司に出仕し、食米を受け取る。
  
○養老2年(718)【『万葉集』】
富士山噴火…高橋連虫麿の歌…もゆる火を雪もて消ち(以下省略)

○養老3年(719)7月13日【『続日本記』】
按察使…按察使を設置。駿河・伊豆・甲斐は大伴宿禰に管掌させた。

○養老5年(721)1月1日【『続日本記』】
甲斐献上…甲斐国が白狐を献上する。  

☆聖武天皇  在位(724〜749)

神亀1年(724)4月14日【『続日本記』】
騎兵、坂東の九カ国の兵士三万人に乗馬、射術をさせ、布陣の仕方を訓練させた。
  
○天平3年(731)12月2日【『続日本記』】
甲斐…甲斐国が神馬を献上した。体は黒でたてがみと尾が白かった。

○天平3年(731)12月21日【『続日本記』】
甲斐国主…田辺広足
★詔★   
…朕は君主として全国に臨み、すべての人々をはぐくみ、日が傾くまで食事をとることも忘れ、夜は寝るのに床をのべるのを忘れるほどである。ここに治部卿で従四位上の門部王らが奏上していうのに「甲斐国守で外従五位下の田辺史広足らが進上した陣馬は、体は黒色で白いたてがみと尾があります。謹んで符瑞図を調べてみると『神馬は河の精である』とあり、また援神契(孝経)には『徳が山や岡の高きに達する時、神馬が現れる』とあります。これはまことに大瑞というべきです」と。しかしこれは朕の徳によるものではない。祖先や国の守り神の賜ったものである。不徳の朕がどうして一人でこれを受けるべきであろうか。天下の人々と共に悦べば、天意にかなうであろう。そこで天下に大赦して、孝子・順孫・高齢者・男女のやもめ・みなし子・独居の老人で自活のできない者に恵みを与えよう。馬を獲た人には位を三階昇進させ、甲斐国の今年の庸と調を免ずる。甲斐国の国司および史生以上の者と、瑞を獲た者に、地位に応じて物を賜った。 
《筆註》
…甲斐から献上された神馬(じんめ)は当時の吉祥の一つとして進上された。甲斐国以外にも進上した国があり、それは年譜の中に掲載してある。また新羅国からの献上された貢ぎ物の中に馬も見える。

◎甲斐国司の確認
○天平10年(738)4月22日【『正倉院文書』】
『正倉院文書』「天平十年駿河国正税帳」

◆甲斐国司 丹比乙万呂。補任。

………………………………………………………上一口……………
従甲斐国進上御馬部領使山梨郡参事小長谷部麻佐 六郡別一日
………………………………………………………従一口……………
…………………上六口
食為単壱拾弐日
…………………従六口
……………………………上一口……………………上六口
山梨郡散事小長谷部練麻呂 六郡別一日食為單壹貳日
……………………………下一口……………………下六口
《筆註》
…甲斐国より進上の御馬の部領使である山梨郡散事小長谷部麻佐とその従者は、一日一郡の行程で、その路次にあたる駿河六郡から糧秣の官給を受けて、平城京を目指して御馬を牽き挙がっていった。この時の御馬の様子や頭数は明らかではないが、甲斐の貢馬の実態を知る資料となる。小長谷部は御馬部領使で山梨郡散事であり、三御牧を想定する巨摩郡ではない。巨摩の地名の最初の登場は天平勝宝四年(752)の巨麻郡青沼郷で、天平宝宇五年(762)の記事中の巨麻郡栗原郷の人と続く。

○天平13年(741)12月10日【『続日本記』】
◆甲斐守、馬史比奈麻呂 従五位下。補任。
  
☆考謙天皇、在位(749〜758)  

○天平勝宝四年(752)4月9日【『正倉院文書』】
高嶋…巨摩郡青沼郷の人物高嶋が出した調が、東大寺大仏開眼供養の際、舞楽の伎楽面を収納する袋の裏裂として使用される。

○天平勝宝四年(760)6月25日【『正倉院文書』】
◆甲斐国目…桑原足床、云々。  

☆淳仁天皇、在位(758〜764)

○天平宝宇5年(761)10月1日【『続日本記』】
◆甲斐守…山口沙弥麻呂。従五位下。補任。

天平宝宇5年(761)12月23日【『正倉院文書』】
◆甲斐守…山口沙弥麻呂。従五位下。在任。
◆目………小治田(名欠)。在任。
◆員外目…桑原足床。在任。

☆称徳天皇、在位(764〜770)考謙天皇重祚。

○天平宝宇8年(764)10月20日【『続日本記』】
◆甲斐守…坂上刈田麻呂。従四位下。補任。   
…甲斐守山口左美麻呂解任、恵美押勝の乱で功績のあった坂上刈田麻呂が中衛少将のまま甲斐守を兼任する。

○天平宝宇8年(764)10月【『続日本記』】
…用銭…甲斐国山梨郡加美郷の丈部(はせつかべ)宇万呂の用銭六百文が都に送られる。

○天平神護1年(765)1月7日【『続日本記』】
◆甲斐守…坂上刈田麻呂、勳二等を授けられる。   

 天平神護1年(765)6月1日【『続日本記』】
…甲斐国飢饉…これを賑給する。   
   
○天平神護1年(765)7月14日【『続日本記』】
◆員外目…丸部宗人。    

○天平神護2年(766)2月21日【『続日本記』】
◆甲斐守…坂上刈田麻呂が恵美押勝の乱を鎮圧し功績として功田二十町を与えられる。

○神護景雲2年(768)5月28日【『続日本記』】
…八代郡の人…小谷直五百依、孝を以て終身田税を免除される。

○神護景雲2年(768)10月15日【『続日本記』】
◆甲斐守…坂上刈田麻呂、従四位に昇任。  

☆光仁天皇、在位(770〜781)

○神護景雲2年(768)9月16日【『続日本記』】
◆甲斐守…豊国秋篠真人。従五位下。補任。  
◇坂上刈田麻呂−陸奥鎮守将軍になる。

○神護景雲2年(768)10月23日【『続日本記』】
◆甲斐守…豊国秋篠…甲斐守のまま治部大夫に。   

○宝亀元年(770)5月9日【『続日本記』】
◆甲斐守…坂上刈田麻呂。

○宝亀3年(772)【『続日本記』】
◆甲斐守…栗田鷹守。正四位下。衛門佐。補任。
◆甲斐掾…山上船主。五位下。陰陽助。

○宝亀9年(778)3月10日【『続日本記』】
◆甲斐守…葛井連道依。従五位下。在任。中衛少将

○宝亀11年(780)3月17日【『続日本記』】
◆甲斐守…山上船主。従五位上。補任。兼、陰陽頭天文博士。

☆桓武天皇、在位(781〜806)

○天応1年(781)7月6日【『続日本記』】
…富士山噴火…駿河国言す。富士山の下に灰をふらす。灰の及ぶ所は木葉彫萎すと。
《註》…噴火地点、静岡側。噴火様式、火山灰 小川考徳氏調査発表

○天応1年(781)10月16日
…甲斐など五カ国の十二人が私力で軍粮を陸奥国に運んだ功績で位階を授けられる。

○延暦1年(782)閏1月17日【『続日本記』】 
◆甲斐守…藤原内麻呂。従五位下。補任。大納言真楯三男

○延暦2年(783)閏1月【『大鏡裏書』】
◆甲斐守(〜延歴4年)   

○延暦3年(784)4月30日【『続日本記』
◆甲斐守…紀豊庭。従五位下。補任。

○延暦3年(784)11月11日【『続日本記』】
☆遷都…桓武天皇、長岡京に遷都。

○延暦8年(789)3月16日【『続日本記』】
◆甲斐守…大伴王。従五位下。補任。桓武天皇第三子。

○延暦8年(789)6月9日【『続日本記』】
…改姓…甲斐国、請願により渡来人山梨郡の人、要部上麻呂・古爾鞠部・解礼らの本姓を田井・玉井・大井・中井に改姓する。

○延暦10年(791)7月4日【『続日本記』】
◆甲斐守…橘安麻呂。従五位下。補任。

○延暦13年(794)5月24日【『続日本記』】
…甲斐国…白鳥二羽を献上する。

○延暦16年(797)3月2日【『日本後記』】
…甲相国境…使を遣わし甲斐・相模の国境争いを裁定、都留郡都(鹿)留村東辺、砥沢をもって領国の境とする。

○延暦18年(799)12月5日【『日本後記』】
…改姓
…甲斐国、百済系渡来人止彌若虫・久信耳鷹長ら百九十人石川・広石野姓を与える。

○延暦19年(800)3月14日【『日本後記』】
…富士山噴火
…駿河国言、去りぬる三月十四日より四月十八日まで、富士山の巓自ら焼く。昼は即ち烟気暗瞑にして、夜は即ち火光天を照らす。其の声雷のごとく、灰ふること雨の如し。山下 の川水皆紅色なりと。
《註》噴火地点…静岡側。噴火様式…火山灰・溶岩流。小川考徳氏調査発表

○延暦19年(800)5月22日【『日本記略』】
…甲斐蝦夷…甲斐国に住居する蝦夷が乱暴を働き、朝廷は国司に対して教喩と法的処分を命じる。

○延暦21年(802)1月8日【『日本記略』】
…富士山噴火…(実際の噴火は20年)是の日、勅すらく、駿河・相模国言す。駿河国富士山、昼夜、砂礫霰の如してへり。之を卜筮の求むるに、占いて曰わく、ここに疫ありと。宜しく両国をして鎮謝を加え、及び経を読み以て災殃を攘わしむべしと。
《註》噴火地点…静岡側。噴火様式…火山灰。小川考徳氏調査発表。

○延暦21年(802)1月11日【『日本記略』】
…甲斐浪人… 甲斐など十か国の浪人四千人を陸奥国沢城に移す。

○延暦21年(802)5月19日【『日本記略』】
…足柄路廃…延暦廿一年五月十九日、相模国足柄の路を廃して、箱根の途を開く。富士の焼け砕きたる石、道を塞ぐを以てなり。

○延暦21年(802)8月14日【『日本記略』】
…諸牧課欠駒…牧の課欠については、必ず担当者を処罰し、馬を弁償させることを、甲斐 など諸国に命じる。

○延暦22年(803)3月9日【『日本記略』】
…諸牧課欠駒…諸牧の課欠の駒については、馬の徴収をやめ、かわりに駒一頭ごとに代価の稲四百束を徴収する事が、甲斐などの諸国に命じられる。

○延暦22年(803)5月8日【『日本記略』】
…足柄旧路…延暦廿二年五月八日、相模国箱根の路を廃して、足柄の旧路を復す。

《参考》「奈良〜江戸期に起きた富士山噴火」
…………山梨県文化財保護審議委員 小川考徳氏発表(山日2001、3、10)抜粋。
…古文書に記載、確実に噴火があったとされる富士山噴火は、奈良時代から江戸時代にかけて計九回。このうち八六四(貞観六年)一七0七(宝永四年)の二つは既に噴火地点が判明していたが、平安期に起きた残りの噴火七回についてはよく分かっていなかった。
…調査方法は津屋氏(元東大地震研究所長)が手掛けた富士山の地質図を基に、各地点在する噴火口近くの溶岩流や溶岩樹型から木炭を採取し。炭の中に含まれる放射性炭素の減 り具合を調べることで噴火の時期を絞り込んだ、その上で古文書の内容と照合して噴火地点を特定した。(略)

《参考》
山梨県側の噴火
937(承平七年)火山灰と溶岩流を伴った噴火
1032(長元五年)火山灰と溶岩流を伴った噴火
1083(永保三年)火山灰と溶岩流を伴った噴火
静岡県側の噴火
781(天応元年) 火山灰だけの噴火
800(延暦十九年)火山灰だけの噴火
801(延暦二十年)火山灰と溶岩流を伴った噴火
864(貞観六年) 青木ヶ原樹海を形成したこの噴火は当初、南都留郡鳴沢村・長尾山火口から噴火したとされてきたが、その他に十カ所の噴火口があることを突き止めた。
999(長保 元年) 火山灰と溶岩流を伴った噴火

甲斐国司年表2

○大同4年(809)この頃【『類聚国史』】
◆甲斐守…安部真勝。従五位下。

☆嵯峨天皇、在位(809〜823)

○弘仁3年(812)1月12日【『日本後記』】
◆甲斐守…藤原真川。従五位下。補任。

○弘仁6年(815)【『平安遺文』】
◆甲斐守…藤原真川。在任。   
…この年、甲斐国などに空海が書状を送り、真言宗布教を協力を要請する。甲斐国には安行を遣わし甲斐守真川に要請する。

○弘仁8年(817)5月【『続日本後記』】
◆甲斐守…文室秋津。従五位下。補任。

○弘仁9年(818)【『文華秀麗集』】
◆甲斐掾…藤原(名欠)
…この年、勅撰漢詩集『文華秀麗集』が完成し、甲斐掾藤原らのために巨勢識人が作った餞別の詩が収められる。   

〓弘仁11年(820)【『弘仁式』】
…主税式…広仁式が撰上、甲斐国の貢馬・駅馬などに関する規定がなされる。
…この年、甲斐・武蔵・信濃・上野四カ国の貢馬が上京する路地で支給される飼秣の量が『弘仁式』に定められる。

○弘仁13年(822)12月19日【『公卿』】
…甲斐守…文室秋津。補任。

☆淳和天皇、在位(823〜833)

〓弘仁14年(823)9月24日【『日本記略』】
…信濃国の御馬が、武徳殿に牽進される。

〓天長3年(826)2月11日
…甲斐・武蔵・信濃・上野四カ国の貢馬使の構成・定数が定められる。

○天長4年(827)10月15日【『類聚三代格』】
…甲斐国…牧監を置く。(太政官符)
…太政官符…定諸国貢上御馬騎士数事。
…右得美濃国解稱。件騎士等其数不同。或騎士已衆。牧長又従。或馬醫両人。居飼相添。望請折中彼此。以定限数。謹請處分者。左大臣宣。依請者。 信濃、上野、両国各牧牧監 一人。甲斐武蔵両国各主當一人。馬醫毎国一人。但、騎士者率馬六疋充一人。

○不詳
◆暦甲斐守…安部真勝,卒。

○天長4年(827)10月19日【『日本紀略』】
…節婦表彰…甲斐国の人上村上万女(かみのよろずめ)が節婦表彰。

○天長8年(831)2月9日【『類聚国史』】
…甲斐国…居住する蝦夷吉弥侯部三気麻呂ら二世帯が駿河国に移住させられる。

☆仁明天皇、在位(833〜850)

○天長10年(833)3月24日【『続日本後紀』】
…甲斐守…藤原貞雄。従五位下。補任。

○天長10年(833)5月11日【『続日本後紀』】
…相撲人…甲斐等十二国に相撲人の貢進が命じられる。

○承和2年(835)1月6日【『続日本後紀』】 …空海…空海奏上、東寺施入官家功徳料
千戸のうち、甲斐五十戸を割って僧侶の用充が認められる。

○承和2年(835)3月14日【『続日本後紀』】
…甲斐不動倉…甲斐国の不動倉二宇、器仗屋一宇の全焼を報告。

承和2年(835)4月【『続日本後紀』】
…葛原親王…賜地、甲斐国巨摩郡郡馬相野空閑地五百町賜一品式部卿葛原親王。
《筆註》…葛原親王…延暦5年(786)〜仁寿3年(853)。葛原親王への賜地については『続日本記』に記してあり、この年次周辺では「賜地」の記事が多く見られる。
(後述)葛原親王に関わる記事は二件である。

☆嵯峨天皇の御代、
○弘仁1年(810)10月【『続日本後紀』】
…長野牧…上野国利根郡長野牧賜三品葛原親王。
☆仁明天皇の御代
○承和2年(835)4月 
…馬相野…甲斐国巨摩郡郡馬相野空閑地五百町賜一品式部卿葛原親王。
《筆註》…馬相野空閑地の五百町については諸論があるなかで、「有野」〔現在の南アルプス市有野(旧白根町有野)〕に比定を急ぐ向きもあるが、有効な史料を持たない地名比定の議論は推説や私説の範疇であり、定説とは成り得ない。

○承和5年(838)7月【『続日本後紀』】
…噴火…甲斐など十六か国に灰のような物が降ったとが相次いで報告される。

○承和6年(839)1月11日【『続日本後紀』】
◆甲斐守…藤原伊勢雄 従五位下。補任。

○承和9年(842)6月3日【『続日本後紀』】
◆甲斐目…飯高浜水。従五位下。
…甲斐目飯高浜水など、伊勢国の飯高公の一族二十七人が、飯高朝臣の姓を与えられ、左京三条に本籍を移す。

○承和10年(843)1月12日【『続日本後紀』】
◆甲斐守… 橘時枝。補任。

○承和10年(843)5月14日【『続日本後紀』】
…節婦表彰…甲斐国山梨郡の人、伴富成の娘節婦表彰を受ける。

☆文徳天皇、在位(850〜858)   

○仁寿1年(851)1月11日【『文実』・『古今』】
◆甲斐守…小野貞樹。補任。

○仁寿2年(852)2月22日【『三格』】
◆甲斐目…小野貞樹。在任。小野貞樹の解により、目一員が増員。
…太政官符…応(まさ)に甲斐国に目一員を加え置くべきの事。
…右彼の国守従五位下小野朝臣貞樹の解を得るにいわく、周防・阿波等の上国皆大小の目あり。しかるに此の国に至りては唯一人を置く。衆務斯れ多く、事に従うの人少なし。望み請らくは、彼の両国に準え件の官員を加えむことを。慎みて官裁を請うてへれば、右大臣宜す。勅を奉るに、請によれ。

○仁寿3年(853)10月16日【『古今和歌集』】
◆甲斐守…小野貞樹。従五位下。補任。
…かひのかみに侍ける時京へまかりのぼりける人につかはしけりを をのゝさだき
……都人いかにととはゝ山たかみはれぬ雲井にわぶろこたえよ
《参考》小野貞樹、貞観二年(860)に肥後守になる。
○斉衡2年(855)1月7日【『文徳実録』】
◆甲斐守…小野貞樹。従五位下。在任。

○天安1年(857)1月14日【『文徳実録』】
◆甲斐守…紀貞守。従五位下。補任。

☆清和天皇、在位(858〜876)

○天安2年(この頃)【『走湯山縁起』】
◆不詳…麻績(不詳)
…竹生賢安…甲斐国八代郡の人、竹生賢安(たけいのけんあん)が、甲斐国に赴任していた麻績(不詳)と共に走湯権現の霊験を得て、本地仏千手観音像や仏堂の造営に尽力し出家して竹生賢安と称する。

○貞観2年(860)1月16日【『三代実録』】
◆甲斐守…佐伯真利。従五位下。補任。散位。  

○貞観2年(860)5月5日【『三代実録』】
…富士山…駿河国より富士山に五色の雲が現れたと報告。

○貞観4年(862)6月5日【『三代実録』】
◆甲斐守…橘末茂。従五位下。中務少輔
…以中務少輔従五位下橘朝臣末茂為甲斐守。 

○貞観6年(864)5月25日【『三代実録』】
…駿河国言…正三位浅間大神大山噴火しその勢い甚だしく、十二、三代実録里四方の山を焼く。その火災の高さ二十丈(約60m)、雷あり、地震三度、十余日を経ても火勢衰えず。岩石を焦がし、嶺を崩し、火山灰雨の如し。煙雲深くして人の近寄るを得ず。富士山の西北本栖湖に溶岩流入する。溶岩の長さ、三十里、幅三四、四里。高さ二十二丈ばかり、火災ついに甲斐国の国境に達すと。(『富士吉田史』)

○貞観6年(864)7月17日【『三代実録』】
…甲斐国言…駿河国富士の大山に、忽ち暴火あり、崗欄巒を焼き砕き、八代郡本栖并にセの両の水海を埋む。水熱きこと湯の如く、魚鼈皆死し、百姓の居宅、海と共に埋もれ、或いは宅ありて人無きもの、其の数記し難し。両の海以東に、亦水海有り。名付けて河口湖という。火焔赴きて、河口湖に向かう。本栖・セの海、未だ焼け埋もれざるの前、地大いに震動して雷電暴雨あり、雲霧晦冥にして、山野をわかち難く、然るに後のに此の災異有りと。(『富士吉田史』)
○貞観6年(864)8月 5日【『三代実録』】 …甲斐国下知…甲斐国下知して云う。駿河

国富士山に火ありて、彼の国言上す。之を蓍亀に決するに云わく、浅間神社の禰宜・祝等、斎敬を勤ざるの致す所なりと。仍りて陳謝すべきの状国に告げ知らせ訖わりぬ。宜しく亦奉幣解謝すべしと。

○貞観7年(865)3月9日【『三代実録』】
…甲斐国に介を置く。

○貞観7年(865)この春、【『三代実録』】
◆甲斐権掾…土師忠道。補任。
…左大臣源信の家人土師忠道が、甲斐権掾に任。  

○貞観7年(865)12月9日【『三代実録』】
◆甲斐擬大領…甲斐国八代郡擬大領伴真定の託宣により、同郡に浅間神社の祠を立てて官社とする。

○貞観8年(866)1月13日【『三代実録』】
◆甲斐守…藤原弘道。従五位下。補任。散位。

○貞観9年(867)1月8日【『三代実録』】
◆甲斐介…藤原安縄。正六位上。在任。従五位下に。

○貞観10年(868)1月16日【『三代実録』】
◆甲斐介…道島村島。従五位下。宿禰。

○貞観12年(870)1月13日【『三代実録』】
◆甲斐守…清原真人。従五位下。補任。

○貞観12年(870)3月25日【『三代実録』】
◆甲斐守… 清原真人が右京亮に転じる。
◆甲斐守…高階菅根。従五位下。補任。
◆甲斐権守…小野春江。従五位上。陸奥介。
◆甲斐介…御春峯能。従五位下。

○貞観13年(871)6月13日【『類聚三代格』】
…大政官符…甲斐武蔵両国に令す。先に郡領駅長等が申状に云、牧監主當等の人馬を乗用するは皆其位階に従て法制に恆條あり、而るに御馬長及馬醫、諸生、占部、足工、騎士等の白丁、官符なくして轍く之を乗用す。而るに郡司駅長其暴威を畏れてを制せず。加之天長三年(826)二月の格に、信濃上野両国は各牧監一人、甲斐武蔵両国は各主當一人、馬醫毎国一人、但騎士は馬六匹を率て以て一人に當つ、自陪従其格に従ふべし。
…而るに多く雑色を率い公乗を濫用するものあり。国司件の格に據りて其濫行を糺治せんと欲するも、或は事を貢御に託して強て舊附を秘し、嗷論抗争轍く之を改更せず。
請ふ厳命を下して永く其濫用を絶たん、若尚ほ恣に之を乗用せば使人は名を録して言上し、雑色人は位蔭を問はず杖六十に决せん、皆應に承和十二(846)の符に依て之行ふべし。路次の諸国も亦皆之に准ず。甲斐武蔵両国宜しく此新制に准じて之を改行すべし。信濃上野の牧監等も亦須く武蔵甲斐両国に准じて厳に懲罰を加ふべし。

○貞観14年(872)3月20日【『三代実録』】
…矢作部連を賜る。
◆甲斐大領…矢作部宅雄。正六位上。甲斐国都留郡。
◆甲斐少領…矢作部毎世。従八位上。甲斐国都留郡。

☆陽成天皇、在位(876〜884)

○貞観18年(876)1月26日【『類聚三代格』】
…太政官符…応に牧監等をして牧の格を検校しせしむべきの事。
…右、信濃国の解を得るに爾(いわ)く、案内を検するに、太政官の去る貞観七年六月廿八日、符を被るに爾く、諸牧の格の料の稲を請ふを停め、牧の内の浪人の徭を以て、破損に随ひて修造せしめよといへり。しかるに牧長等謹守を加へず、或は火の為めに焼け損じ、或は競ひて以て盗取す。茲に因り常に造格の幣あり。曽て園牧の益なし。今、在る所の勅旨牧の御馬、二千二百七十四疋、格の外に放れ散りて湟中に留まらず、唯に民業を践み害ふのみに非ず、兼ねてまた頻りに亡失を致す。国司はすべからく格に依りて検校し、損失せしめざるべし。しかも国務繁多にして巡糺にいとまあらず。牧監の職とする所は専ら撫飼を事とす、摂するところの長・帳・牧子・飼丁等は、牧毎に数多く、
守禦に堪ふるに有らん。望み請ふ、栫(かこい)を造るの後、件の人を預け、一向に謹めさせ、検校を加へしめん。若し朽損の外焼亡失盗失せば、拘ふるに解由を以てし、尽く造 り備へしめん。
…謹んで官栽を請ふてへり。右大臣宜す、請ひに依り、立てて恒例と為よ。上野・甲斐・武蔵等の国も亦た宜しく此れに准ずべし。

○貞観18年(876)10月22日【『日本三代』】
…甲斐都留郡…甲斐国都留郡の人、当麻部秋継が、同郡の百姓丈部鷹長を闘殺し、遠流に処される。

○元慶2年(878)1月11日【『日本三代』】
◆甲斐守…従五位上。田口統範。補任。散位。

○元慶6年(882)11月【『日本三代』】
…壬生直益成…甲斐巨麻郡の人左近衛将曹壬生直益成男女七人を山城国愛宕国に、男三人。女四人、を貫隷す。

○元慶7年(883)1月11日【『外記補任』】
◆甲斐介…山田時宗。従五位下。   

☆光考天皇、在位(884〜887)

○元慶8年(884)3月9日【『日本三代』】
◆甲斐守…藤原当輿。従五位下。補任。兵部少輔。

○元慶8年(884)11月5日【『日本三代』】
…山梨郡石禾…山梨郡石禾郷清原当仁の宅に嘉禾が生えたと報告。

○仁和1年(885)2月【『日本三代』】
◆甲斐介…橘嘉樹。従五位下。散位。

…この頃… 駒牽。太政大臣藤原基経が『年中行事障子文』を内裏に献上する。
八月 七日、牽、甲斐国勅旨御馬事。
八月十三日、牽、武蔵国秩父御馬事。
八月十五日、牽、信濃国勅旨御馬事。
八月十七日、牽、甲斐国穂坂御馬事。
八月廿 日、牽、武蔵国小野御馬事。
八月廿三日、牽、信濃国望月御馬事。
八月廿五日、牽、武蔵国勅旨牧並立野御馬事。
八月廿八日、牽 上野国勅旨御馬事。


○仁和2年(886)2月3日・5月18日【『日本三代』】
◆甲斐守…藤原当興。在任。
…召問、左右大臣、甲斐守藤原当興ら拝任後任国に赴かない国主十名を召問する。次いで
当興ら四名の告身を取り上げる。

○仁和2年(886)6月13日【『日本三代』】
◆甲斐守…平任世。従五位上。補任。大判事。

☆宇多天皇、在位(887〜897)

○寛平5年(893)3月16日【『類聚三代格』】
…太政官符…應令牧監填償缺失牧馬事。
…右ハ甲斐、武蔵、信濃上野等ノ国ノ御牧使右馬助源悦ノ解状ヲ検スルニ、ク、牧ニシテ官馬牛ヲ失ヘバ、牧子長帳ニ徴すベキノ文已ニ明ナリ。国司及牧監ニ於テハ、其法未ダ立タズ、唯諸ヲ牧帳ニ勘シ、国司牧監相共ニ署印ス。然ラバ則チ御馬ノ缺失、何ゾ知ラザルベケンヤ。今検実ノ日ニ、若シ無實ノ馬数多ケレバ、令ニ依テ牧子長帳ニ徴センカ、将タ署帳ニ依勘シテ国司牧監ヲ責メンカ、若シ共ニ責ムベクハ、牧子長帳ニハ已ニ率分アリ、国司牧監ニハ未ダ其数ヲ見ズ。何ノ法ニ准ジテ将ニ辨行セシメン。中納言兼右近衛大将従三位藤原朝臣時平宣、勅ヲ奉ルニ、凡ソ缺失ヲ致スニ於テハ、国司牧監共ニ其罪アリ。然而しテ国司ハ雑務繁多ニシテ、専一ナルニ、凡ソ遑アラズ。須ラク其怠ヲ責メテ物ヲ徴スべカラザルベシ。但牧監ハ牧事ヲ専行シ、兼濟スルニ所ナシ。亦須ラク其怠ヲ勘シ、牧子ニ准ジテ之ヲ徴スベシ

〔解説、抜粋〕【『甲府市史』】
…今後検査のある日に欠失の馬数が多かった場合、令によって牧子・長・帳だけに弁償させるか、国司・牧監に責任を取らせるか、もし両者に責任を取らせるとすれば、国司・牧監には弁償の比率の規定がないので、どの法律を適用したらよいのか。国司は仕事が煩雑なので弁償は酷で、牧監は牧の仕事に専念しているので当然弁償責任を認めて弁償を命じた。

○寛平6年(894)2月28日【『古今和歌集目録』】
◆甲斐権少目…凡河内躬恒。在任。
…かひのくにへまかりける時道にてよめる
……夜を寒むみおくはつ霜をはたひつゝ草の枕にあまたゝび寝ぬ…
《雑録》
…凡河内躬恒…『南部町誌』には篠井山に因んで凡河内躬恒のことが記載されている。
…躬恒の甲斐赴任してこの地に住んだのでこの土地を大河内と呼び、都を懐かしむ篠井山に登り、山頂に霊を鎮めたという。篠井山は躬恒の官位、従四位が転化したものという。山頂には四ノ位明神が祀られていて躬恒の宝が埋められているという。

○昌泰1年(898)10月【『忠峯集』】
…壬生忠峯…この頃、陽成上皇の使者として壬生忠峯が甲斐国へ下向する。
…かひのくににまかる、まかりまうしに
……きみがためいのちかひへぞわれはゆくつるてこほりちよをうるなり……

…たたみねがもとに 紀貫之【『貫之集』】
……甲斐がねの松に年ふる君ゆゑに我はなげきと成りぬべらなり……

☆醍醐天皇、在位(897〜930)

○昌泰2年(899)2月【『古今和歌集』】
◆在原滋春…甲斐守赴任。
…甲斐の国にあひ知りて侍りける人とぶらはんとてまかりけるを、みちなかにてにはかに病をしていまいまとなりにければ、よみて「京にもてまかりて、母にみせよ」といひて人 につけて侍りける歌
……かりそめのゆき甲斐路とぞ思ひこし今はかぎりの門出なりけり
【『大和物語』】
…この在次君、在中将の東に往きたるにあらむ、この子どもも人の国通ひをなむしける。
心ある者にて、人の国の哀に心細き所々にては、歌よみて書付けなどしける。(中略)
…かくて、人の国ありきくて、甲斐の国に到りて住みける程に、病して死ぬとて詠みたり
ける。

《参考》【『古今和歌集』】所収、甲斐に関する歌
…しほの山さしでの磯に住む千鳥君が代をばやちよとぞ鳴く
…頭注…能因が歌枕を引いて、甲斐国に在りとある。今同国甲府から東北三里許、笛吹川に沿って、小邸あるあたりを「さし出」といひ、それより二里許北方にある山を「塩山」 といっている。(中略)
…さし出の磯はさし出た磯の義だから、何処でもいはれる語である。
…契沖にいふ、「平家物語に、しほの山打ち越えて能登の国小田中親王の前に陣を取る。
…又能登越中の境なる「志保の山」と見えたるその「志保の山」にて、「さし出の磯」もそのあたりならん。
【『古今和歌集評釈』金子本臣著】
…真淵いふ、(略)之乎(しほ)を後に「しほ」と誤り、それよりさし出の磯とは設けてよめるか。云々
   
…かひうた…【『古今和歌集』】所収
…かひがねをさやにも見しがけゝれなく横ほりふせるさやの中山
…甲斐がねをねこし山こしふく風を人にもがもや言づてやらむ

○昌泰12年(870)7月【『寒川神社社記』】
…富士山…中央火口噴火。

○昌泰13年(871)6月
…太政官符…甲斐武蔵両国に令す。先に郡領駅長等が申状に云、云々

○昌泰18年(876)
…太政官符…応に牧監等をして牧の格を検校しせしむべきの事。云々

○寛平5年(893)3月16日
…太政官符…應令…牧監填償缺失牧馬事。
…右ハ甲斐、武蔵、信濃上野等ノ国ノ御牧使右馬助源悦ノ解状ヲ検スルニ、云々

甲斐国司年表4

○寛平6年2月(894)【『古今和歌集目録』】
◆甲斐少目…凡河内躬恆。甲斐権少目。(おおしこうちのみつね)
【『古今和歌集』】
…かひのくににまかりける時道にてよめる
……夜を寒みおくはつ霜をはらひつゝ草の枕にあまたたびねぬ
【『甲斐国志』】
…拾芥歌人三十六人を載す。云、躬恆古伝云、不見甲斐権少目、淡路守、或本云、大井川行幸和歌書に書する所、散位。
【『『甲斐国志』】
…壬生忠岑…古今集序右衛門府生とあり、本州の役に補せられ在国せし由諸書に見える。
【『夫木和歌集』】
…かひの国へくたりまかりけるに
……君かため命けひにそ我はゆく鶴のこほりに千世はうるなり……
【『古今和歌集』】
…甲斐の国にあひ知りて侍ける人とぶらはむとて、まかりける道なかにて、にはかに病ひして、いまいまとなりにければ、よみて京にもてまかりて母に見せよといひてつけ侍りける歌…在原滋春…
……仮初にゆきかひぢとぞ思ひこし今は限りの門出なりけり……

○年不詳【『甲斐国志』】
◆甲斐守…藤原元眞…拾芥抄載歌人三十六人。元眞甲斐守清邦の男丹波介五位とあり。
…大系図に武智丸五世有貞雄清邦也。元眞亦甲斐守也。

○寛平9年1月25日(897)【『類聚符宣抄』】
…甲斐采女…甲斐国の采女の定員が一名と定められる。

○昌泰1年閏10月(898)
…壬生忠岑(ただみね)
【『忠岑集』】
… 生忠岑が陽成上皇の使者として甲斐国下向。  
…かひにくににまかる、まかりまうしに
……きみがためいのちかへぞわれはゆくつるてこほりとよをうるなり
【『貫之集』】
…忠岑がもとに   
……かひがねの松にとしふるきみゆえにわれはなけきとなりぬへらなり……

●国司、不明…仁和3年(887)〜延喜7年(907)

○延喜8年(908)【『政事要略』】
◆前甲斐守…藤原滋根、国務について勘解由使勘判が下される。

○延喜9年1月11日(909)【『西宮記』】
◆甲斐守…(姓欠)正基 前上総守、為甲斐守。

○延喜14年5月7日(914)【『類聚符宣抄』】
◆甲斐守…藤原貞淵。従五位下。前上総介。

○延喜21年9月7日(921)【『類聚符宣抄』】
◆秦繁覧(しげみ)…検甲斐国交替使主典退任。

○延喜21年9月7日(921)【『類聚符宣抄』】
◆奈癸良貞(なきのよしさだ)…甲斐国交替使主典(さかん) に任じられる。

○延長2年(924)【『貫之集』】
…紀貫之…
…延長二年ひだりのおとどの北のかたの御屏風のうた十二首
……甲斐がねの山里みればあしたづの命をもたる人ぞすみける……

●国司不明…延喜15年(915)〜延長5年(927)

○延長6年1月29日(928)【『古今和歌集目録』】
◆甲斐守…高向利春(たかむこの)。従五位下。  

■承平2年10月13日(932)【『富士史』】
…富士山噴火。

■承平7年11月某日(937)【『日本記略』】
…富士山噴火。
……十一月某日、甲斐国言、駿河富士山神火埋水海。

●国司不明…延長7年(929)〜承平7年(937)

○天慶1年(938)【『勘解由使勘判状』】
◆前甲斐守…藤原望江(もちえ)在任中の国務について、勘解由使勘判が下される。

○天慶4年6月2日(941)【『本朝世紀』】
◆櫟井直幹(いちいのなおもと)右馬少属櫟井直幹が甲斐・武蔵国の択馬使として派遣される。

○天慶中(938)〜(946)【『前太平記』】
◆前甲斐守…(姓欠)保盛。前太平記天慶中、貞盛の次将に甲斐前司保盛を載す。

○天暦2年2月5日(948)【『貞信公記』】
◆前甲斐守…小野維幹(これもと)これより以前、前甲斐守小野維幹の子が、平将門の乱
の際、常陸国府・国分寺に異変があったと話す。

○天暦6年2月(952)【『富士史』】
■富士山噴火。富士山峰より北東に噴火。

○天禄3年2月19日(972)【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原時光。従五位下。為甲斐守。補任。

○天延1年2月29日(973)【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原時光。従五位下。為甲斐守。在任。

○天延2年8月10日(974)【『本朝文粋』】
◆前甲斐掾…刑部良秀。前甲斐掾刑部良秀、云々
【『甲斐国志』】
…慶保胤の文中に前の国司司馬刑部良秀とあり。按に司馬は国介を斥すなるへし。

○天元2年1月28日(979)【『大間成文抄』】
◆甲斐介…源宗利。正六位上。補任。
 
○永観1年1月27日(983)【『大間成文抄』】
◆甲斐権掾…安部信義。正六位上。甲斐権介。補任。

○永観1年1月27日(983)【『大間成文抄』】
◆甲斐権介…菅野倫随(ともゆき)正六位上。甲斐権掾。補任。

○永観2年2月1日(984)【『大間成文抄』】
◆甲斐権介…源興堪(おきとう)正六位上。甲斐権介。

○永観2年2月1日(984)【『中古歌仙三十六人殿』】
◆甲斐権守…大江匡衡(まさひら)従五位下。甲斐権守。

○永延年間(987〜988)【『続詞花和歌集』】
◆甲斐守…源師綱(もろつな)任国甲斐から京都へ和歌を送る。
…甲斐守にて国を侍りけるころ、朝光大将のもとに侍りける人のもとへいひつかはしける
…源師綱朝臣
……さすらふる身をいづくにと人とはばはるけき山のかひにとをいへ……

○永祚1年2月26日(989)【『小右記』】
◆甲斐守…菅原忠貞。甲斐守辞任。其甲斐守忠貞が就任を辞退。

○永祚1年2月26日(989)【『小右記』】
◆甲斐守…橘道時。補任。

○正暦4年(993)
■富士山噴火。

○長徳2年1月25日(996)【『長徳二年大間書』】
◆甲斐権掾…大春日遠明。正六位上。
◆甲斐掾…坂本広茂。正六位上。
◆甲斐掾…三国重信。名替停。

○長徳3年1月28日(997)【『大間成文抄』】
◆甲斐介…賀陽文時(かやのふみとき)

○長徳3年1月28日(997)【『大間成文抄』】
◆甲斐権掾…山背師光 もろみつ 正六位上 補任。
◆甲斐権大目…伊豆友近(ともちか)甲斐権大目。補任。
◆甲斐権小目…大和(名不詳) 甲斐権小目 補任。

○長徳3年5月19日(997)【『権記』】
◆甲斐守…源忠規。甲斐守源忠規の従者、勅旨に狼籍をして逮捕される。

○長徳4年1月25日(998)【『大間成文抄』】
◆甲斐介…賀陽文時。名替停。
◆甲斐介…私氏民(きさいのうじたみ)正六位上。補任。
◆甲斐権掾…山背師光(もろみつ)正六位上。名替停。
◆甲斐権掾…子部吉景(こべのよしかげ)正六位上。補任。

○長徳4年10月27日(998)【『大間成文抄』】
◆甲斐権小目…六人部茂興。正六位上。補任。

○長保1年1月30日ころ(998)【『任国例』】
◆甲斐権大目…秦(名不詳)。前春宮籍。秦忌寸。

○長保1年3月7日(998)【『本朝世紀』】
■富士山卜占…富士山噴火について卜占が行なわれる。

○長保3年10月10日(1001)【『母后代々御覧記』】
◆甲斐守…源高雅。甲斐守源高雅。従四位下。在任。

○長保4年7月9日(1002)【『権記』】
◆前甲斐守…源高雅。前甲斐守源高雅、権記長保四年七月十六日条に見える。

○寛弘3年1月28日(1006)【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原惟憲(これのり)従五位上。為甲斐守。

○寛弘3年1月28日(1006)【『公卿補任』】
◆甲斐大目…伊豆友近。正六位上。為甲斐大目。補任。

○寛弘5年10月17日(1008)【『御産部類記』】
◆甲斐守…藤原惟憲。敦平(あつひら)親王家の別当になる。

○寛弘7年2月16日(1010)【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原惟憲。離任。公卿補任治安三年の項。

○寛弘8年3月8日(1011)【『小右記』】
◆甲斐守…藤原能通。甲斐国に帰国。在任。

○寛弘8年8月23日(1011)【『権記』】
◆甲斐権守…源保任(やすとう)在任。
…甲斐守保任が、元服の儀式に参列。定数通りに貢馬するように命令がでる。

○長和2年1月15日(1013)【『小右記』】
◆甲斐権守…源保任。従五位下甲斐権守源保任。五位蔵人になる。
○長和3年1月26日(1014)【『小右記』】
◆甲斐権守…源保任。在任。
○長和4年4月18日(1015)【『小右記』】
◆甲斐権守…源保任。在任。

○寛仁1年8月30日(1017)【『小右記』】
◆前甲斐守…藤原能通。記事中見える。

○寛仁1年9月17日(1017)【『御堂関白記』】
◆甲斐守…源保任。…甲斐守保任、馬十疋を藤原道長に贈る。

○寛仁1年9月26日(1017)【『御堂関白記』】
◆甲斐守…源保任。
…甲斐守保任、前年分の穂坂牧駒牽を遅延させために、怠状の提出を命じられる。

○寛仁1年9月(1017)【『富士史』】
■富士山噴火。
 
○寛仁3年8月28日(1019)【『東宮』】
◆甲斐権守…源章任。在任。

○寛仁4年3月28日(1020)【『範永朝臣記』】
◆甲斐権守…藤原範永(のりなが)従五位下。補任。

○治安2年6月18日(1022)【『小右記』】
◆甲斐守…藤原公業(きんなり)。在任。新任甲斐守藤原公業が申請した雑事の審議。
○治安2年7月14日(1022)【『小右記』】
◆甲斐権守…藤原範永。

○治安3年10月14日(1023)【『小右記』】
◆甲斐守…藤原公業。甲斐守藤原公業が任国へ下るにあたり藤原実資を訪問する。

○万寿1年3月1日(1024)【『小右記』】
◆甲斐守…藤原公業。藤原公業の邸宅が火事のより焼失。

○万寿1年11月3日(1024)【『小右記』】
◆甲斐守…藤原公業。甲斐守藤原公業が上京する。

○万寿2年3月24日(1025)【『小右記』】
◆甲斐守…藤原公業。甲斐守藤原公業が任国へ下る。

  
○万寿3年(1026)【『江談抄』】
◆甲斐守…平範国。従五位。蔵人。補任。

○長元 1年 4月15日  1028【『小記目録』】
◆前甲斐守…藤原公業。前甲斐守藤原公業が死去。

○長元2年1月24日(1029)【『大間成文抄』】
◆甲斐掾…秦成信

○長元2年10月22日(1029)【『公卿保任』】
…藤原公季…長元二年十月十七日逝去、時年七十三。贈正一位、
         封甲斐国、謚曰仁義公。

○長元この年(1030)【『本朝文集』】
◆甲斐守…源頼信。補任。  
○長元3年9月2日(1030)【『日本紀略』】
◆甲斐守…源頼信。在任。
…仰甲斐守源頼信並坂東諸国司等可追討平忠常之条依右衛門尉平直方旡勲功召還。

○長元4年1月6日(1031)【『樗嚢抄』】
◆甲斐守…源頼信。国司功績により、在任中に従四位下を授かる。
 長元4年2月23日。…源頼信、在任。【『小右記』】
 長元4年4月28日。…源頼信、在任。【『左経記』】【『記略』】
 長元4年6月7日。……源頼信、在任。【『左経記』】
 長元4年6月11日。…源頼信、在任。【『左経記』】
 長元4年6月12日。…源頼信、在任。【『左経記』】
 長元4年6月16日。…源頼信、在任。【『扶桑略記』『応徳』『百錬』『山槐』】
 長元4年6月27日。…源頼信、在任。【『左経記』】
 長元4年7月3日。……源頼信、在任。【『左経記』】
 長元4年7月13日。…源頼信、在任。【『小右記』】
 長元4年9月18日。…源頼信、在任。【『小右記』】


○長元4年4月28日(1031)【『日本紀略』】
…平忠常…申平忠常進来仍随身可参上之状。

○長元4年5月16日(1031)【『日本紀略』】
…平忠常…梟忠常首入京件忠常受病死去但有議定給彼忠常従類依為降人也。
…扶桑略記にも此事有

○長元5年2月8日(1032)【『類聚符宣抄』】
◆甲斐守…源頼信。遷任。任美濃守。

?《参考》年不詳【『甲斐国志』】
◆甲斐守…源義光。称新羅三郎(頼義三男)任甲斐守即甲斐源氏所祖

○長元6年2月19日(1033)【『日本記略』】
■富士山噴火。

○長元7年8月22日・8月25日【『左経記』】
◆甲斐守…藤原頼経。在任。

○長元9年10月10日(1036)【『僧綱補任』】
◆甲斐守…藤原頼経。在任。興福寺維摩会の賢者(りゅうじゃ)となる。

○長暦1年11月18日(1037)【『行親記』】
◆甲斐守…藤原永職(ながもと)在任。甲斐守藤原永職の母が焼死する。

○長久1年1月25日(1040)【『九条家本春記』】
◆甲斐守…藤原隆経。正四位下。補任。受領甲斐。
『後拾遺和歌集』】…紀伊式部‥
…隆経朝臣甲斐守にて侍ける時、たよりにつけてつかはしける
……いづかたのかひのしらねはしらねどもゆきふるごとにおもひこそやれ……

○長久3年10月28日(1042)【『法隆寺文書』】
◆甲斐介…三統(名欠)みむね。刀禰として署判を与える。

○長久3年(1042)この年 【『任国例』】
甲斐掾…平(名欠) 。甲斐掾に任じられる。
甲斐国司5

寛徳元年(1044)この頃?【『中御室』】
◆甲斐守…藤原道政。補任。

寛徳元年(1044)11月6日この頃?【『伊勢勅使』】
◆甲斐介…藤原惟盛。在任。

永承元年(1046)10月28日【『法隆寺文書』】
◆甲斐介…三統(名欠)。在任。
◆甲斐掾…平(名欠)。この年補任。【『任国例』】

○天喜2年(1054)【『大弐資通卿家歌合』】
◆甲斐権守…在任。源師俊が、冬以前に和歌を詠む。
…永承五年(1050)以降補任。(『山梨県史』)

○天喜4年(1056)7月22日・11月14日
◆甲斐介…紀(名欠)。在任。

○天喜4年(1056)春。【『大間成文抄』】
◆甲斐小目…紀光安。従七位上。補任。

○康平1年(1058)春。【『大間成文抄』】
◆甲斐掾…三枝成義(しげよし)正六位上。補任。

○康平3年(1060)【『洞院家記』】
◆甲斐守… 藤原章経(あきつね)。従五位下。

○康平4年(1061)【『康平四年春叙目大間尻付抄』】
◆甲斐大目…(名不詳)在任。   

○康平7年(1064)3月3日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原実政。前甲斐守。四位下。補任。 …『公卿補任』承暦四年(1080)頃。
【『本朝世紀』】
…藤原実政本朝世紀治暦四年七月十九日条に見える。
【『新古今集』】
…みこの実やと申しける時太宰大弐実政学士にて侍ける。
…甲斐守にてくたりけるに餞給はすてと
……思ひ出はおなし空とは月を見よ程は雲井にめぐりてあふまで……

○治暦2年(1067)1月22日【『道院】】
◆前甲斐守…藤原章経。

○治暦3年(1068)1月【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原実政。従四位上。在任。

○治暦3年(1068)3月3日【『王朝無名漢詩集』】
◆甲斐守… 藤原実政。在任。藤原実政が詩宴を催す。
  
○治暦4年(1068)7月19日【『本朝世紀』】
◆前甲斐守…藤原実政。正四位下を授けられる。
【『後拾遺和歌集』】紀伊式部の歌。
…隆経朝臣甲斐守に侍ける時たよりつけてつかはしける
……いつかたと甲斐の白根はしらねとも雪降るごとにおもひこそやれ……

○治暦4年(1068)【『水左記』】
◆甲斐守…橘成経。この頃補任か。(『山梨県史』)

○延久1年(1069)【『大間成文抄』】
◆甲斐権守…(不詳)この年、甲斐権守(姓名不詳)が任じられる。

○承保3年(1076)3月15日【『宮寺縁事抄』】
◆甲斐守…源仲宗。甲斐守源仲宗が陪従をつとめる。

○承保3年(1076)3月15日【『興福寺別当次第』】
◆前甲斐守…藤原頼経。入滅。年六十七。    

○承暦1年10月30日(1077)【『水左記』】
◆甲斐守…源仲宗。甲斐守源仲宗が春日神馬使をつとめる。

○承暦3年(1079)3月13日【『宮寺縁事抄』】
◆甲斐権守…藤原惟信。在任。

○承暦3年(1079)7月10日【『御産』】
◆甲斐権守…藤原惟信。在任。甲斐権守藤原惟信が陪従をつとめる。

○承暦4年(1079)4月7日【『水左記』】
◆甲斐権守…藤原惟信。在任。

○承暦4年(1079)8月24日【『大納言』】
◆甲斐権守…藤原惟信。在任。

○承暦4年(1080)9月20日【『師記』】
◆甲斐進士…(姓欠)為季(ためすえ)甲斐進士為季が尋問を受ける。

○永保1年(1081)1月5日【『師記』】
◆甲斐守…源仲宗。在任。甲斐守源仲宗の受領功過定が行なわれる。

○永保1年(1081)10月11日【『水左記』】
◆甲斐守…橘成経。在見。

○永保2年(1082)12月【『東大寺文書』】
◆甲斐守…藤原永親。在任。甲斐守藤原永親が下文に署判を与える。

○永保3年1月(1083)【『拾遺往生伝』】
◆甲斐守…藤原永親。死去。甲斐守藤原永親が死去する。

○永保3年(1083)3月28日【『扶桑略記』】
■富士山噴火

○永保3年(1083)【『世紀』】
○甲斐守…藤原有佐。この頃補任カ(『山梨県史』)

○寛治1年(1087)11月18日【『本朝世紀』】
◆甲斐守…藤原有佐(ありすけ)。従四位下。甲斐守に在住していた時の功績による。

○寛治2年(1088)1月25日【『公卿補任』】


○寛治2年(1088)3月13日・3月23日【『王朝漢詩』・『寛治之記』】
◆甲斐守…藤原為隆。正四位下。在任。
  
○寛治2年(1088)3月23日【『寛治之記』】
◆甲斐権守…源盛長。在任。

○寛治3年(1089)1月22日【『大饗』】
◆甲斐守…藤原為隆。正四位下。在任。

○寛治4年(1090)6月5日【『為房』】
◆甲斐守…藤原為隆。正四位下。在任。

○寛治5年(1091)1月28日【『師通』『江記』】
◆甲斐守…藤原為隆。正四位下。在任。

○寛治5年(1091)8月6日【『後二条通記』】
◆甲斐守…藤原為隆。遷任。任淡路守。

○寛治5年(1091)8月6日【『師通』『為房』『世紀』』
◆甲斐守…藤原行實。正四位下。補任。

○寛治6年(1092)1月19日・3月19日【『中御室』『血脈』】
◆甲斐権守…藤原朝輔。在任。権守藤原朝輔が堂童子をつとめる。
◆前甲斐守…藤原盛実。在見。【『為房】】
◆前甲斐守…藤原道政。在見。【『中御室』】

○寛治7年(1093)3月20日【『白河』】
◆甲斐守…藤原行実。在任。

○寛治7年(1093)10月17日【『中右記』】
◆前甲斐守…藤原為隆。功過定。

○嘉保1年(1094)2月22日【『除目大間書』『任国』】
◆甲斐守…藤原永実(ながざね)従五位下。補任。

○嘉保1年2月22日(1094)【『除目大間書』】
○甲斐大掾…藤原行貞(ゆきさだ)。正六位上。(この年の除目甲斐介・権介不在)

○嘉保1年(1094)3月19日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原行實。従四位下。補任。

○嘉保1年(1094)8月15日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原行實。従四位下。在任。

○嘉保1年(1094)9月17日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原行實。甲斐守藤原行實の任期が嘉保二年まで。

○嘉保2年(1095)3月26日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原行實。在任。

○嘉保2年(1095)12月29日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原行實。重任。

○永長1年(1096)1月10日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原行實。従四位上。在任。
○永長1年2月29日
○永長1年3月1日
○永長1年 4月16日

○承徳1年(1097)1月29日【『中右記』】
◆甲斐掾…日下部武国。従五位上。補任。

○承徳1年(1097)12月28日【『近衛家所領目録』】
《逸見荘園》
…藤原師実の妻源麗子が、内親王の養女として、甲斐国逸見荘園を伝領する。

○承徳1年(1097)3月24日・10月17日【『大納言』・『時範』】
◆甲斐守…藤原永実。在任。

○承徳2年(1098)2月30日・3月6日・8月27日【『小右記』】
◆甲斐守…藤原行実。在任。

○承徳2年(1098)3月9日・11月14日【『宮寺』・『長秋』】
◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。

○康和元年(1099)5月28日【『僧綱』】
◆甲斐守…藤原行実…在任。

○康和2年(1100)3月・8月28日【『百錬』】
◆甲斐守…藤原行実…在任。

○康和2年(1100)7月1日【『為房』】
◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。

甲斐国司6

○康和2年(1100)1月【『柏尾白山出土経筒』】
…僧、寂円、甲斐国山東郡牧山村米沢寺に於て写経を開始。

○康和2年(1100)3月【『為房卿記』】
◆甲斐守…藤原惟実。伊勢神宮神人を凌轢する。  

○康和2年(1100)6月28日【『百錬抄』『甲府市史』】
◆甲斐守…藤原惟実。
…六月廿八日、甲斐守惟信・大膳亮仲範を贖銅(しょくどう/罪を犯した者に実刑の代償として、相当額の銅を納めさせたことをいう)すべく、左近府生秦武忠を禁獄すべきの由宣下す。是去る三月伊勢太神宮の神人、途中に於いて前の大相国(だいそうこく/太政大臣)に遇い、無礼いたすの間、武忠神人を搦め取る。神宮の訴えに依りてなり。

○康和2年(1100)7月1日【『為房卿記』】
◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。
…内覧となって最初の着陣に向かう藤原忠実の前駈をつとめる。

○康和2年(1100)8月28日【『百錬』】
◆甲斐守…藤原惟実。在任。三月の件について惟信は贖銅に処される。

○康和3年(1101)7月1日【『宮寺縁事抄』】
◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。石清水八幡宮臨時祭で陪従をつとめる。

○康和3年(1101)10月13日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。右大臣忠実に馬二頭を贈る。

○康和3年(1101)12月9日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。在任。藤原忠実邸に家司として出仕する。

○康和4年(1102)1月23日【『魚魯愚抄』
   甲斐掾 (不詳) 甲斐掾に任じられる。  

○康和4年(1102)5月13日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原惟実。甲斐守を重任する。
《解説》【『甲府市史』】
…甲斐守、藤原惟実は4年の任期が終わったが、成功(じょうこう)により、重任を許された。平安時代中期以後、中央の財政が乏しく行く中で、国司の中には任期中に私財を肥やし巨富を積む者が多く現れた。そこで国司に内裏の殿舎の修築、宮廷の各種の行事、あるいは寺社の堂塔・社殿の造営など、本来は公費から支出すべきものを負担させその「功」を「成」し遂げる者に特に重任することを認めた。

○康和4年(1102)2月3日 【『殿暦』】
◇源義光 ☆刑部丞源義光、右大臣馬二疋を贈る。

○康和4年(1102)7月15日・21日【『諸寺供養類記』『殿歴』】
◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。楽行事の補佐及び堂童子をつとめる。

○康和4年(1102)3月18日・7月21日【『諸寺供養類記』『中右記』】
◆前甲斐守…藤原行實。在任。
…受領成功(じょうごう)として五寺五大尊像の費用負担。

○康和4年(1102)11月12日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。馬二頭を藤原忠実に献上する。

○康和5年(1103)
…1月22日・4月3日・10月12日・11月14日・11月21日、在任。
…【『御産部類記』『柏尾経筒』『殿歴』『本朝世紀』『中右記』】
◆甲斐守…藤原惟実。宗仁親王の誕生七夜読書儀で、読書博士にう禄をとりつぐ。

○康和5年(1103)2月30日【『本朝世紀』】
◆甲斐権守…源惟兼(これかね)従五位下。在任。

○康和5年(1103)2月30日【『本朝世紀』】
◆前甲斐守…藤原行實。武蔵守に任じられる。離任。
  
○康和5年(1103)7月25日【『僧網補任』】
◆前甲斐権守…藤原仲宗。在任。
…前権守藤原宗仲が再建された興福寺の落慶供養において南大門行事をつとめ、この賞で従五位下となる。

○康和5年(1103)10月12日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。在任。舞姫を献ずるよう五節定で決定される。

○康和5年(1103)11月14日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。在任。惟信らの献じた五節舞姫が参入する。

○康和5年(1103)11月22日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。甲斐守藤原惟信が賀茂臨時祭の陪従をつとめる。

○長治2年(1105)1月27日【『大間成文抄』】
◆甲斐少掾…源国次。正六位上。補任。

○嘉承1年(1106)10月28日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。在任。甲斐守惟実、関白忠実に馬七疋を贈る。
《解説》【『甲府市史』】
…甲斐守藤原惟信の忠実への貢馬は、康和三年二疋、重任直後の同四年二疋、それに今度の七疋と満五年間に三度も見える。公的な駒牽に代わる国司の権門への私的駒牽の感がある。

○嘉承2年(1107)12月28日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原惟実。在任。(10月28日、在任記事)
…藤原忠通の右中将就任の慶申にあたって馬四頭を忠通の父忠実に献上する。

○嘉承2年(1107)4月【『平安遺文』】
※東寺、甲斐など十カ国の封戸の済物進未勘文を注進する。
…勘進未済国
甲斐国…康和二…以後七年未済…千五百五十石

○天仁1年(1108)1月7日【『中右記』】
◆甲斐権守…平知信(とものぶ)。従四位上。兵部大輔。在任。
…平知信が摂政藤原忠実の使者をつ める。

○天仁1年(1108)1月24日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原師季(もろすえ)正四位下。補任。甲斐守に任じられる。
…保安元年(1120)7月19日卒。

○天仁1年(1108)7月27日【『中右記』】
◆甲斐権守…平知信。摂政藤原忠実の使いで藤原宗忠のもとに赴く。

○天仁2年(1109)9月6日【『殿暦』】
◇甲斐甘利馬。
◆甲斐守…藤原師季。摂政藤原忠実の高陽院(かやのいん)で競馬が行なわれ、甲斐守藤原師季の馬と忠実の甲斐国甘利の馬が出場する。
…六番…右…右番長佐伯国重余随身。鹿毛。阿万利余馬也。

○天仁2年(1109)9月26日【『殿暦』】
◇甲斐甘利馬…甘利の馬が摂政藤原忠実の高陽院の競馬に甘利栗駒出馬する。

○天永1年(1110)6月9日【『武田系図』】
◇甲斐源氏…源清光。源清光が生まれる。   
…新羅三郎義光−武田冠者義清−逸見黒源太清光
……義清。久安五年(1149)於、市河荘卒、七十五歳。
……清光。仁安三年(1168)甲州卒、年五十九歳。
 
○天永2年(1111)10月5日【『殿暦』】
◆甲斐守…藤原師季。馬十頭余りを白河法皇に献上。

《参考》
○天永2年(1111)11月20日
◆甲斐…大江匡房 死去。『江家次第』の著者。

《参考》
…年不詳…
◆甲斐権守…源季明。従五位。在任。
◆甲斐権守…源朝臣季明。在任。【『大間成文抄』春】
◆甲斐権掾…永原貞雅。正六位上。在任。【『大間成文抄』秋】
◆甲斐大掾…大原助道。七位上。在任。【『魚魯愚抄』】
◆甲斐掾……藤原守秀。正六位上。在任。【『魚魯愚抄』】

○天永3年(1112)2月12日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原師季。在任。朝覲行幸に奉仕した賞で、正四位下を授けられる。

○永久1年(1113)3月25日【『長秋記』】
◆甲斐守…藤原師季。在任。醍醐寺釈迦会の費用を出す。

○永久2年(1113)3月9日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原師季。在任。奏上を白河法皇に取り次ぐ。

○永久2年(1113)4月3日【『近衛家文書』】
◇逸見荘…藤原師実の妻麗子が死去する。
…この頃、藤原忠実が、祖母麗子より甲斐国逸見荘を伝領する。

○永久2年(1113)10月1日【『近衛家文書目録』】
…堀川天皇中宮篤子内親王が死去する。
◇小笠原牧…この頃、藤原忠通が篤子親王より、甲斐国小笠原牧を伝領する。
……庄々間事。相伝所々
……甲斐国。小笠原。篤子内宮領内。
……同国。 逸見荘。

○永久2年(1114)12月29日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原師季。在任。白河法皇の院司として藤原宗忠の奏上を取り次ぐ。

○永久3年(1115)1月29日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原師季。離任。

○永久3年(1115)1月29日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原長輔。正四位下。在任。

○元永1年(1118)3月27日【『中右記』】
◆前甲斐守…藤原師季。在任。前甲斐守藤原師季が出家する。

○元永2年(1119)1月24日【『 任国例』】
◆甲斐少掾…紀(不詳)。在任。校書殿執事。
   
○元永2年(1119)1月24日【『任国例』】
◆甲斐大掾…秦(不詳)。在任。

○元永2年(1119)2月23日【『中右記』】
◇大井荘…前遠江守源基俊が、甲斐国大井荘を娘に譲る意志を藤原宗忠に語る。

○元永2年(1119)5月29日【『長秋記』】
◆女房甲斐…女房甲斐が、この日誕生した皇子(嵩徳天皇)の乳母となる。

○元永2年(1119)5月30日【『長秋記』】
◇甲斐国鶴郡…鳥羽天皇皇子(嵩徳天皇)の三夜産養の廻粥において、甲斐国鶴郡のか
かわる問答が行なわれる。

○元永2年(1119)7月20日【『長秋記』】
◇乳母甲斐君…乳母甲斐君が、顕仁親王(嵩徳天皇)の御行始儀で白河殿に赴く。

○元永2年(1119)12月8日【『長秋記』】
◆甲斐守…藤原長輔。在任。三河守源有賢の娘と結婚する。

○元永2年(1119)12月8日【『任国例』】
◆甲斐大掾…秦(名欠)。補任。
◆甲斐小掾…紀(名欠)。補任。

○保安1年(1120)1月28日【『大間成文抄』】
◆甲斐権守…藤原顕憲。補任。

○保安1年(1120)1月28日【『大間成文抄』】
◆甲斐掾… 安部(名不詳) 。補任。

○保安1年(1120)4月3日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原長輔。在任。左兵衛権左を兼任する。

○保安1年(1120)7月19日【『中右記』】
◆前甲斐守…藤原師季。甲斐守入道師季去夜卒。年六十二。

○保安1年(1120)12月24日【『中右記』】
◆前甲斐守…藤原長輔。離任。丹後守に転任。

○保安1年(1120)12月24日【『中右記』】
◆甲斐守…源雅職。正四位下。補任。相模守源雅職が甲斐守になる。

○天治1年(1124)3月27日【『中右記』】
◆甲斐守…源雅職。在任。白河法皇の命令で仏像を造進し、この日供養される。

○天治1年(1124)5月29日【『御産部類記』】
◆前甲斐権守…藤原顕憲。前日に誕生した通仁親王の御湯殿始で鳴弦をつとめる。

○天治1年(1124)10月6日【『醍醐雑事記』】
◆甲斐大進…(不詳)。仏像を建立し、供養を行なう。

○天治2年(1125)5月26日【『御産部類記』】
◆前甲斐権守。…藤原顕憲。在任。
…前々日の誕生した鳥羽上皇皇子君仁の湯殿始で、鳴弦をつとめる。

○天治2年(1125)6月16日【『御産部類記』】
◆甲斐守…源雅職。在任。鳥羽上皇皇子君仁親王家の別当になる。

○大治元年(1126)10月12日【『中右記』】
◆甲斐権守… 源盛邦 賀茂社への奉幣使に選ばれる。

○大治2年(1127)10月20日【『大聖寺過去帳』】
◆甲斐守?…源義光。従五位上 甲斐守(?)没。
《解説》【『甲府市史』】
…源義光が大治二年十月二十日に没したとするのは、『尊卑文脈』以下異説がない。大聖寺(だいしょうじ)は山梨県南巨摩郡中富町八日市場にある真言宗の寺。義光の曽孫加賀美遠光が、高倉天皇から下賜されたという空海作と伝える不動妙王座像を本尊として一寺を建立、義光の位牌安置し、かれを開基としたとする寺伝を持つ古刹である。

○大治元年(1126)11月22日【『中右記目録』】
◆甲斐守…源雅職。在任。献じた五節舞姫が、内裏に参入。

○大治3年(1128)1月24日【『二中暦』】
◆甲斐守…藤原範隆。従五位上。在任。

○大治3年(1128)8月15日【『武田系図』】
◇逸見冠者…源光長。生まれる。逸見冠者太郎。上総介。母同池田遊女義清の子

◇源信義。武田太郎、光長同胞。光長巳時、信義午時生。号、駿河守。義清の子
《参考》『尊卑文脈』『武田系図』浅羽本…清光の子する。【『山梨県史資料』】

○大治4年(1129)7月26日・閏7月11日・閏7月22日・12月16日
…【『永昌記』・『中右記』・『長秋記』・『百錬』】
◆甲斐守…藤原範隆。在任。7月26日鳥羽上皇の御仏供養で堂童子をつとめる。

○大治4年(1129)閏7月21日【『永昌記』】
◆甲斐権守…源盛邦。在任。
…前日誕生した鳥羽上皇皇子本仁の御湯殿始で鳴弦をつとめる。

○大治4年(1129)閏7月21日【『永昌記』】
◆甲斐守…藤原範隆。在任。五夜産養に御衣を負担すべきことが定められる。

○大治5年(1130)4月3日・11月14日・11月16日・11月17日
……………………………11月18日・11月28日。
【『中右記』・『長秋記』・『中右記』・『時信』】
◆甲斐守…藤原範隆。在任。4月3日左馬権頭を兼任する。

○大治5年(1130)12月23日【『長秋記』】
◇源義清…源義清と子清光、濫行をもって告発され、宣旨により甲斐国市河庄に配流。

○長承1年(1133)2月11日【『治信記』】
◆甲斐権守…高階為基。在任。関白藤原忠通家の執事となる。

○長承2年(1133)8月27日【『中右記』】
◆甲斐守…藤原範隆。死去する。

○長承2年(1133)9月21日【『公卿補任』】
◆甲斐守…源宗賢。従五位下。在任。

○保延3年(1137)4月1日【『中右記』】
※甲斐鎌田荘…藤原宗忠が、甲斐国鎌田荘を関白藤原忠通に寄進する。

○保延3年(1137)【『中右記』】
※甲斐鎌田荘…藤原宗忠が、甲斐国鎌田荘を斎院怡子親王への同荘寄進をはかる。

○保延3年(1137)12月29日【『中右記』】
◆甲斐守…源宗賢。重任。

○保延5年(1139)1月24日【『公卿補任』】
◆甲斐権守…平信範。従五位下。補任。

○保延6年(1139)1月12日【『殿下政所下文案』】
◆甲斐権守…平信範。在任。政所別当として署判を加える。

○保延6年(1140)7月23日【『殿下政所下文案』】
◆甲斐権守…平信範。在任。政所別当として署判を加える。

○康治1年(1142)1月23日【『本朝世紀』】
◆甲斐守…藤原顕遠。従五位下。在任。除目入眼。

○康治1年(1142)1月23日【『本朝世紀』】
◆甲斐掾…源清政。在任。内舎人。

○康治1年(1142)2月26日【『台記』】
◆前甲斐守…源宗賢。前甲斐守、源宗賢が出家する。

○康治2年(1143)1月3日【『本朝世紀』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。朝覲行幸に奉仕した賞で、正五位下を授けられる。

○康治2年(1143)1月27日【『本朝世紀』】
◆甲斐権守…源盛業。在任。従五位下。蔵人宿

○康治2年(1143)1月27日【『本朝世紀』】
◆甲斐掾…橘盛久.在任。従五位下。内舎人。

○天養1年(1144)1月24日【『九条家文書』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として院丁下文に署判を与える。

○天養1年(1144)9月29日【『九条家文書』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として院丁下文に署判を与える。

○久安1年12月30日(1145)【『清原重憲記』】
◆甲斐守…藤原顕遠。重任。

○久安2年7月10日(1146)【『根来要書』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として院丁下文に署判を与える。

○久安3年(1147)1月28日【『本朝世紀』】
◆甲斐権守…藤原成佐。在任。従五位下。式部。

○久安3年(1147)6月10日【『神護寺文書』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽法皇の院宣の奏者となる。

○久安4年(1148)1月28日【『本朝世紀』】
◆甲斐権守…藤原成佐。甲斐権守を離任し、式部権少輔となる。

○久安4年2月1日(1148)【『本朝世紀』】
◆前甲斐権守…源盛業。在任。前甲斐権守源盛業が左馬助に任じられる。

○久安4年(1148)3月15日【『本朝世紀』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として祇園感心院の一切経会に参仕。

○久安5年(1149)4月9日【『本朝世紀』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。甲斐守藤原顕遠が勘解由次官を兼任する。

○久安5年(1149)4月9日
◆甲斐   平範家 正五位下。小除目あり。勘解由次官   『甲斐国志』
  藤原顕遠皇后権大進甲斐守平範家去年任右少辨替。

○久安5年(1149)7月23日【『武田系図』】
◇源義清…甲斐市河荘で死去(年七十五)
○久安1年(1145)7月23日【『大聖寺過去帳』】
◇源義清…久安元年七月廿三日卒。

○久安5年(1149)8月3日【『院号定部類記』】
◆甲斐守…藤原顕遠。在任。美福門院の判官代となる。

○久安5年(1149)7月26日【『甲斐国志』】
◆藤原惟任…正四位下。行兵部権大輔平朝臣時信卒母
…(中略)正四位下藤原朝臣惟任女也。

○久安6年(1146)1月29日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原顕遠。甲斐守を離任する。

○仁平2年(1152)9月30日【『兵範記』】
◆甲斐守…(姓欠)信行。在任。
…甲斐守信行が伊勢斎王喜子内親王の御禊の野宮入前駈をつとめる。

○久寿1年(1154)1月23日【『兵範記』】
◆甲斐守…藤原盛隆。甲斐守に任じられる。補任。

○久寿1年(1154)1月30日【『兵範記』】
◆甲斐判官代…源清雅。甲斐判官代源清雅が春日祭使藤原兼長の前駈をつとめる。

○保元1年(1156)7月11日【『兵範記』】
◇甲斐源氏…塩見五郎・六郎 源義朝勢として、保元の乱に甲斐から参加して、六郎は戦死する。

○保元2年(1157)8月9日【『兵範記』】
◆甲斐守…藤原盛業。在任。
…甲斐守藤原盛隆が、藤原基実の任右大臣大饗を割り当てられる。

○平治1年(1159)1月29日【『保元四年大間書』】
◆欠員◆除目…欠員の甲斐介・権介・権掾は不任となる。

○平治1年閏5月(1159)【『東寺百合文書』】
※甘利荘…甲斐国甘利荘が、宝荘厳院領荘園のうちの一つとして注進される。

○平治1年12月(1159)【『平治物語』】
◇甲斐源氏…井沢四郎信景。保元の乱に源頼朝方に参加。朝方に参加。

○永暦1年(1160)9月20日【『山槐記』】
◆甲斐守…藤原盛隆。在任。
…甲斐守藤原盛隆が競馬の於て纏頭(勝者に与える褒美を取る役を勤める)

○応保1年(1161)2月26日【『妙法院文書』】
◆甲斐守…藤原盛隆。在任。後白河院判官代として院庁下文に署判を加える。

○応保2年(1162)1月27日【『山槐記除目部類』】
◆甲斐守…藤原忠重。従五位上。藤原忠重が甲斐守に任じられる。

○応保2年(1162)4月7日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠茂。
…甲斐守藤原朝臣忠茂並目代右馬弁中原清弘在庁官事人三枝の守正ら罪名爰に忠茂去年
春除目被拝除。

○応保2年(1162)10月6日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠重。
…忠重が目代中原清弘・在庁官人三枝守政に命じて熊野社領八代荘を停廃する。

○応保2年(1162)10月28日【『応保二年除目大間』】
◆甲斐権介…不任。除目。欠員の甲斐権介は不任。

○長寛1年(1163)1月29日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠重。熊野社の訴えに対して、陳状を提出する。

○長寛2年(1164)1月21日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原盛隆。父藤原顕時の大宰権師辞任の替として、甲斐守に任じられる。

○長寛2年(1164)6月29日【『山槐記』】
◆甲斐権守…橘以明。在任。梅宮社への奉幣使をつとめる。

○仁安1年(1166)1月10日【『丹生文書』】
◆甲斐守…藤原信定。在任。後白河院庁下文に判官代として署判を加える。

○仁安2年(1167)10月18日【『兵範記』】
…退…藤原泰房。藤原顕長が死去、子の藤原泰房は甲斐守を一時退任する。

○仁安3年(1168)1月11日【『山槐記除目部類』】
◆甲斐介…和気季光。補任。

○仁安3年(1168)1月11日【『山槐記除目部類』】
◆甲斐大掾…中原盛貞。補任。正六位上。

○仁安3年(1168)1月11日【『山槐記除目部類』】
◆甲斐少掾…源道久。補任。正六位上。

○仁安3年(1168)7月8日【『武田系図』】
◇甲斐源氏…源清光。甲斐国で死去する。
(天永元年六月九日生)59才。伊豆守・甲斐守。
《参考》【『大聖寺過去帳』】
…俗号、逸見兵部少輔、源清光、仁安三年七月八日逝。

○仁安3年(1168)8月22日【『兵範記』】
◇甲斐守…源通定(みちさだ)。在任。
…故藤原基実の妻平盛子の参内の準備のために、内裏に赴く。

○嘉応1年(1169)1月11日【『兵範記』】
◆甲斐権守…大中臣定輔。大中臣定輔が、甲斐権守に任じられる。

○承安1年(1171) 1月19日【『春除目抄』】
◆甲斐守…藤原泰房。在任。朱器大饗に於て、剣非遺使の饗二十前を負担する。

○承安4年(1174)1月21日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原宗隆。補任。正四位下。

○承安4年(1174)12月1日【『玉葉』】
◆甲斐権介…中原助広。補任。従五位下。

○安元1年(1175)4月27日【『玉葉』】
◆甲斐権守…源国行。在任。従四位上。藤原良通の侍従就任の拝賀に従う。

○安元2年(1176)1月12日【『玉葉』】
◆甲斐権守…源国行。在任。甲斐権守源国行が、蔵人基親の書状を取り次ぐ。

○安元2年(1176)2月【『平安遺文』】
※甲斐荘園…安楽寿院領−甲斐小井川荘
……八条院目録
……歓喜光院領−甲斐鎌田荘
……八条院庁文−篠原荘

○安元2年(1176)7月8日【『玉葉』】
〓甲斐飯野牧…施楽院領甲斐飯野牧住人、貞重殺害事件起きる。

○治承1年(1177)11月15日【『玉葉』】
◆甲斐権守…源季明。補任。

○治承2年(1178)1月28日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原宗隆。転任。備後守に。

○治承2年(1178)1月28日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原為明。 従五位下

○治承2年(1178)1月28日【『玉葉』】
◆甲斐大目…大原正行。補任。正四位下。

○治承3年(1179)11月17日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原為明。解任。
…甲斐守藤原為明等後白河院近臣が、平清盛の要求により罷免される。

○治承3年(1179)12月12日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原宗隆。再任。

●治承4年(1180)5月10日【『長野県史/通史編』】
◇甲斐源氏…源行家、美濃・尾張を経て伊豆の頼朝に以仁王令旨を伝え、ついで、常陸・信濃・甲斐へ向かう。

●治承4年(1180)9月8日【『長野県史/通史編』】
◇甲斐源氏…頼朝、北条時政に甲斐源氏を率い信濃を平定するように命じ、この日時政甲斐に向かう。

●治承4年(1180)9月10日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…一条忠頼…兵を挙げて信濃国伊那郡で菅冠者の城を討つ。

●治承4年(1180)9月15日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…一条忠頼…逸見山から石和御厨に移り、土屋宗達と会する。

●治承4年(1180)10月13日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇一条忠頼・板垣兼信・武田有義らの甲斐源氏、駿河国向かう途中大石駅に止宿。
…武田太郎信義・一条次郎忠頼・板垣三郎兼頼・武田兵衛有義・安田三郎義定
…逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光

●治承4年(1180)10月14日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…鉢田で駿河目代橘遠茂の軍勢と戦い、これを破る。

●治承4年(1180)10月17日【『玉葉』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…一条忠頼、使者を平家方に送り、戦いを挑む。

●治承4年(1180)10月18日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…甲斐・信濃源氏ら、黄瀬川で頼朝と会い、菅冠者討伐や駿河目代との戦いを報告する。

●治承4年(1180)10月20日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…平家軍、富士川を挟んで頼朝軍と対戦し、甲斐源氏の奇襲を受け、戦わず して背走する。

●治承4年(1180)10月21日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…遠江守護…安田義定。在職期間、治承四年(1180)~建久四年(1193)
◇甲斐源氏…駿河守護…武田信義。在職期間、治承四年(1180)~元暦3年(1184)

●治承4年(1180)10月21日【『玉葉』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…一条忠頼らの武田軍、遠江・参河を制し、美濃。尾張らの在地武士らを味方にする。

●治承4年(1180)10月21日【『山槐記』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…武田有義の妻子、京で殺され、自宅の門前に首を梟される。

●治承4年(1180)10月21日【『玉葉』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…武田有義、左兵衛尉の職を解かれる。

○養和1年(1181)11月28日【『吉記』】
◇甲斐権守…藤原為明。今日除目也。

○寿永2年(1183)8月16日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原宗隆…遷任。公卿補任建久九年項。任備後守。

●寿永3年(1184)1月20日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…源範頼・義経軍、木曾義仲と戦い、粟津において敗死させる。この戦いで一条忠頼ら活躍する。

●寿永3年(1184)1月20日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…一条忠頼・安田義定・範頼・義経・梶原景時、それぞれ鎌倉の使者を送り木曾義仲敗死を報告する。

●寿永3年(1184)2月5日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…範頼・義経軍、摂津国へ入り、平資盛・有盛らとの戦いに、武田有義・板垣兼信らが従軍する。範頼軍に、武田信義・加賀美遠光・加賀美長清らが属する。

●寿永3年(1184)3月17日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるが、頼朝これを退ける。

●元歴元年(1184)6月5日【『長野県史』通史編】
◇甲斐源氏…頼朝、義高与党の討伐のため、小笠原長清らを甲斐に送ることを決める。

●元歴元年(1184)6月5日【『長野県史』通史編】
◇甲斐源氏…源範頼を三河守、源広綱を駿河守、武田信義を武蔵守とする。

●元歴元年(1184)6月16日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…一条忠頼、鎌倉に呼び出され、頼朝の命により、殺害される。

●元歴元年(1184)6月18日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇一条忠頼の家人、甲斐秋家、歌舞に堪能のため頼朝の召し抱えられる。

○文治1年(1184)6月24日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原宗隆(略)。

○文治1年(1184)8月16日【『吾妻鏡』】
◇除目…信濃守−加賀美遠光。越後守−安田義資。 《参考》【『玉葉』】
…右大臣藤原兼実言う「国守に源氏六人が任命された。今後とも耐え難いことだ」

○元歴2年(1185)1月26日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…範頼の豊後国上陸に際し、甲斐、武田兵衛尉有義ら随行する。

○文治2年(1186)1月3日【『吾妻鏡』・『甲府市史』】
◇甲斐源氏…頼朝、鶴岡八幡宮に参詣の随兵、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信。

○文治2年(1186)8月1日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原宗隆。在任。可昇殿之由云々

○文治2年(1186)11月27日【『弁官補任』】
◆甲斐守…藤原長兼。補任。従五位上。

○文治3年(1187)5月15日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原長兼。在任。余始召前、且為見其器量也。云々

○文治4年(1188)1月1日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原長兼。


○文治5年(1189)11月15日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原長兼。在任。此日発遺三社奉幣、云々

○建久1年(1190)1月1日【『玉葉』】
◆甲斐守…藤原長兼。在任。家司甲斐守藤原長兼。云々

○建久3年(1192)3月21日【『心記』】
◆甲斐守…藤原宗隆。在任。

○建久6年(1195)10月7日【『三長記』】
◆甲斐守…藤原宣宗。在任。

○正治1年(1199)3月23日【『資経卿記』】
◆甲斐守…藤原宗房。在任。左大弁、宰相。


甲斐国司7

○建治 1年 8月28日  1201 
甲斐守   藤原宗房 (略)前駈二人、甲斐守藤原宗房。    『三長記』
 建治 2年11月19日  1202 
甲斐守   藤原宗房 (略)此日五節参入也。  『猪隈関白記』
 元久 2年 4月10日  1205 
甲斐守   藤原資季 今日祭除目。    『明月記』
 健保 1年 7月25日  1213
甲斐権守  季宣   季宣(大中臣)前駈十人云々。    『明月記』
 承久 3年 4月23日  1221 
甲斐宰相  範茂   甲斐の宰相中将範茂、云々。 『増鏡』
 嘉禄 1年 1月28日  1225 
甲斐守   藤原維綱    『明月記』
 安貞 1年 4月14日  1227 
甲斐守   高階基邦 前駈廿二人、甲斐守高階基邦。  『猪隈関白記』
 安貞 1年 4月14日  1227 
甲斐馬助  藤宗保  前駈廿二人、甲斐馬助藤宗保。  『猪隈関白記』
 安貞 1年10月 4日  1227 
甲斐守   藤家国    『明経記』
 安貞 1年12月10日  1227 
甲斐守   藤公頼  従二位   『公卿補任』
 安貞 2年 2月 1日  1228 
甲斐介   源顕定  従四位下   『公卿補任』
 安貞 2年 2月 1日  1228 
甲斐権守  菅原高長 正六位   『公卿補任』
 寛喜 1年 3月 5日  1229 
甲斐権守  菅原為長 正三位   『公卿補任』
 寛喜 1年12月29日  1229 
前甲斐守  高階基邦    『明経記』
 寛喜 2年   1230 
甲斐権守  菅原為長 正三位   『公卿補任』
 寛喜 2年 4月15日   
前甲斐司  藤原資親    『明経記』
 寛喜 3年   1231 
甲斐権守  菅原為長 正三位   『公卿補任』
 貞永 1年 4月 2日  1231 
甲斐権守  菅原為長 正三位   『公卿補任』
 天福 1年 1月28日  1233 
甲斐守   藤原吉長 今夜除目名云々、臨時内給。    『明経記』
 天福 1年 4月 8日  1233 
甲斐守   平康高 祭除目事。    『明経記』
 天福 1年 4月15日  1233 
甲斐権守  菅原為長 正三位   『公卿補任』
 暦仁 1年 4月 7日  1238 
前甲斐守  高階基邦 今日新大納言拝雅也。 『玉葉』
 暦仁 1年   1238   
甲斐守   長井泰秀 『玉葉』
 暦仁 1年12月28日  1238    
甲斐守   長井泰秀 『玉葉』
 仁治 1年 1月22日  1240    
甲斐権介  藤原資平    『平戸記』
 仁治 1年閏10月28日  1240 
甲斐守   藤原経業 先是被行除目。遷任。    『平戸記』
 仁治 3年 3月15日  1242   
前甲斐守  泰秀    『吾妻鏡』
 仁治 3年 3月25日  1242 
前甲斐守  高階基邦 小厩別当。  玉葉

 仁治 3年 4月 9日  1242 
甲斐守   藤原顕兼 除目沙汰早速事了云々    『平戸記』
 寛元 2年 1月23日  1244 
甲斐守   大江実景 今夜除目入眼也。    『平戸記』
 寛元 2年 1月23日  1244
甲斐権介  藤原伊基    公卿補任

 寛元 2年 8月15日  1244   
前甲斐守  泰秀    『吾妻鏡』
 寛元 2年10月13日  1244 
甲斐守   平行継 今夜被行小除目。    『平戸記』
 寛元 3年 5月 8日  1245 
甲斐守   藤原政綱 今夜被行小除目。    『平戸記』
 寛元 4年 8月15日  1246
前甲斐守  泰秀    『吾妻鏡』
 宝治 1年 3月16日  1247
甲斐守   藤原高定    『葉黄記』
 宝治 1年 6月10日  1247 
甲斐前守  春日部実景    『吾妻鏡』
 宝治 2年 1月23日  1248 
甲斐権守  源雅言    正四位下   『公卿補任』
 正元 1年 1月 1日  1259 
甲斐守   為成  評定衆以下人々、甲斐守為成。    『吾妻鏡』
 文応 1年 1月22日  1260 
甲斐守   為成  甲斐三郎左衛門為成。    『吾妻鏡』
 弘長 1年 2月20日  1261 
甲斐権介  藤原伊基 従三位   『公卿補任』
 文永10年 5月 3日  1273
甲斐守   平常親   『公卿補任』
 文永11年12月21日  1274 
甲斐守   平仲兼 正四位下 叙書無殊事。  『仲兼卿暦記』
 弘安 2年 1月18日  1279 
甲斐守   (不)仲信 仲信、被仰御厩別当、云々。    『勘仲記』
 弘安 2年 1月24日  1279 
兼甲斐介  源通重   『公卿補任』
 弘安 6年 7月20日  1283 
甲斐守   平康仲 今夕被行小除目。    『勘仲記』


 甲斐の御牧の概要

 平安時代頃(或いはそれ以前より)に甲斐の国巨摩地方に在ったとされる天皇の勅旨牧(御牧)は今その面影を忍ぶものは歴史書物以外には何も残っていない。

 勅旨牧とは天皇の命令によって天皇のために置かれた牧のことで、『延喜式』によると甲斐には穂坂牧・柏前牧・真衣野牧の三牧、信濃国には望月牧を含めて十六牧、武蔵国には立野牧ほか三牧、上野牧には利刈牧ほか八牧が確認できる。ここで育てられた御馬は毎年定められた日時に「駒牽」の行事が行なわれる。天皇がご覧になり後に宮廷の人々に分けられる。

 甲斐の勅旨牧について県内では『甲斐国志』以来次のような内容が定説とされている。

 「甲斐にあった三牧は穂坂牧が現在の韮崎市坂町付近、真衣野(まいぬ)牧は武川村牧原付近とするのに異論なく、柏前(かしわざき)牧は勝沼町柏尾とする説があるものの高根町樫山に比定するのが通説となっている」(『山梨県郷土史研究入門』)

 しかしその根拠とするところは『国志』以来の漠然としたもので確かな根拠など無く、また遺跡や遺構によるものではない。柏前牧については『北巨摩郡勢』に柏前神社の存在を記しているがその真贋は解からない。

 県内の歴史研究も少ない資料から私論や推論に頼って『甲斐国志』の論をさらに発展させ定説化を進めているが、空白の部分が多く真実は紐解かれてはいない。

 歴史学ほど閉鎖的な学問はない。門外漢を寄せつけないし、自由に研究させる土壌も少なく人材も育ちにくい。歴史学は決して専門家の分野ではなく、多くの研究を志す人々の挑戦を正面から受け入れることが必要である。歴史は人々の共有財産なのである。

 これまで私は自力で峡北地方の歴史を様々な史料をもとに論じてきた。「誤伝山口素堂」・「宗良親王の事蹟」・「実証、馬場美濃守信房」・「新視点、甲斐源氏」等々である。

 歴史研究は史料の積み重ねであり、その史料の確実さと広範囲な調査が歴史真実に近づける道であり、どんな著名な研究者であっても一方的な資料からの判断や持論や推論の展開では真実には近づけない。また無理して定説を創ることは歴史を歪めることにもなる。   

 最近旧石器時代の石器をその発掘地に埋め発見する、いわゆる「捏造」事件が報道を賑わしているが、これは単に旧石器時代だけの事だけではなく古代の歴史から現在までの歴史にも言えることかも知れない。歴史は時の権力者により都合よく創り替えることはごく当たり前のことであり、そうした事例は枚挙に暇がなく、それは都合の悪い記事の削除や焚書行為にみられ、系譜や出自それに事蹟や経歴を創り替えることに時の権力者の力を誇示し保持する為の必要不可欠なことであったと思われる。

 通常私たち一般人の歴史認識は求めるものではなく与えられるものである。例えば史実と違っていてもその道の人が繰り返して話したり小説やドラマを見たり聞いたりしているとそれが史実のように記憶される。特に一般人が弱いのが著名人の言である。疑うことなく真実のようにとらえてしまうものである。だからこそ歴史に携わる人は軽はずみな私論・推論などを展開して人々を惑わしてはならない。

甲斐の古代駒

 さて甲斐の勅旨牧及び古代の馬について調査の一端を述べてみたい。山梨県内で馬に関して確認されている古墳は

 五世紀後半の「かんかん塚古墳」が本県最古の轡などの馬具が確認されている。関係する古墳を抜粋してみると次のようにんある。

 さらに、山梨市・御坂町・一宮町・龍王町・甲西町・双葉町・春日居町・それに未確認では須玉町、長坂町の古墳からも小数の馬具が出土している。これらは五世紀から七世紀中葉にかけての古墳であるといわれている。また武川村の宮前田遺跡から「牧」の墨書土器が発見されたがこれが真衣野牧に関係あるかは不詳である。

 12月4日の山日新聞に「国内最古の馬具出土」の記事が掲載。それは四世紀初めの木製の鐙が奈良県の箸墓古墳から出土した旨の記事である。

 また国内最古の馬の骨や歯が甲府塩部遺跡や中道東山遺跡から出土した事を掲載している。

 甲斐の馬が文献上確認されるのは

 雄略天皇十三年(469)の

「ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒」   (『日本書紀』)

 が初見であり、推古天皇六年(598)には現在の御坂町の神社仏閣と深い関わりのある聖徳太子の乗った甲斐の烏駒(くろこま)の記事が見え(『聖徳太子略傳』)その烏駒は甲斐穂坂の産(『見聞集』)とも伝わる。

 天武天皇元年(672)には壬申の乱に参戦した甲斐の勇者の戦いも騎馬戦であったが、甲斐の勇者の騎乗した馬が甲斐の産馬かは定かではない。

 天平三年(731)には甲斐の国司田辺広足が神馬を献上した。これは当時の朝廷で定めていた祥瑞にあたり(符瑞図で調べると神馬は河の精であるとあり、援神契には徳が山や岡の高きに達する時神馬が現れるとある。大瑞にあたる『続日本記』)

 甲斐国は数々の報奨や税の免除を受けた。山梨の歴史書にはこの事を甲斐のことだけのように特筆してあるが、当時は多方面にわたり祥瑞の物品貢上の事例があり、神馬にしても信濃国など数ケ国が散見でき、中には瑞祥の偽物を貢上して罰を受けた事例もある。(『続日本記』)

 続いて天平十年(738)には甲斐国から進上する馬の記事が駿河国正税帳に見えて、勅旨牧が設置される以前から甲斐国から御馬が養育、貢馬されていたことを示している。

 この時の御馬領使は山梨郡散事の小長谷部麻佐である。

 天平勝宝四年(741)には甲斐国巨麻郡青沼郷物部高嶋の名が正倉院文書に見え、巨麻郡の範囲が広域であることが理解できる。

 天平宝宇(762)には巨麻郡栗原郷もあり、当時巨麻郡の中心は甲府から山梨郡に隣接していた事が理解できる。この時代甲斐は災害も多発して

山梨県古代の災害

 富士山の噴火はさらに続き、

 が史料により確認できる(噴煙を含む)。

 富士山の噴火は甲斐の古道に大きく関わる災害で、『延喜式』は勿論、甲斐の定説も富士山の噴火と古道の関係を記していない。(別述)

 真衣野牧は一度だけ信濃望月の牧と共に駒牽の儀式に参列している。これは歌の前書に望月の牧と真衣の牧を引き違えた事が記されていることから判る。

 現在も残る武川村牧ノ原地名であるが、古代に於いて牧ノ原地名が存在したかは知る由もないことで、比定の曖昧さばかりが目につく。延喜式の「真衣野」を「まきの」と読んで比定しているが、古代では「まきぬ」であろう。また「真衣郷」が武川にあったとされる書が多いがこれも戴けない。地名比定の根拠が希薄であればそれは史実には繋がらない。

他にも現在の韮崎市甘利地域を「余戸郷」に比定しているがこれも史実とは重ならず、甘利地域は広大な土地であり、その後の歴史展開を見ても当時とても「余り地」とは思えない。双葉や韮崎の穂坂それに明野、須玉まで一望できさらに八ヶ岳山麓も視野に入る。この一帯が「真衣野」牧であっても何の不都合もない。武川村には大武川沿いの段丘上に古くからの集落がある。黒沢・山高・柳沢集落などであるが、その中に真原(さねはら)がある。これは何の史料も持たないが「真原」はその昔は「槙原」(まきはら)ではなかったのかと推論する人もいる。しかし遺跡や遺構などは見えない。地名比定優先である。なお「牧」も「まい」と読むという。

 また、当時の牧の殆どが火山周辺に設置されているが、真衣野牧が武川牧ノ原であったすれば、段丘上では可能であっても、取り巻く大河(釜無川・大武川)やウトロ川・小武川など中小の河川は自然の柵にはなるが、流路の定まらない古代の河川は移動や貢馬の通行には大きな妨げになる。地名比定だけでは牧の存在の確証はできない。

御牧の貢馬

 弘仁十四年(823)に文献上初の勅旨牧から貢馬が信濃のから始まる。(文献上初。牧名は不明)天長三年(826)には甲斐などの四カ国貢上の御馬付添騎士等の員数を定める。(『類聚楽三代格』)天長四年(827)甲斐の駒数は千余ともあり、同年十月に甲斐国に牧監を置き、天長六年(829)には甲斐国から初めての貢馬が文献(『日本記略』)に見えて、駒牽(天皇御覧)の行事が行なわれた。

 承和二年(835)には

甲斐国の空閑地巨麻郡馬相野五百町

式部卿葛原天親王に与えられる。この馬相野について山梨の歴史書は現在の白根町有野を比定し後に八田牧になったとしているが、『日本馬政史』ではこの地は後の真衣野牧の事とする。この時代にはこうした賜地の事例が多く見られ、空閑地はその後牧となった例もある。

 その他にも『続日本記』には記録がみえる。

 当時日本国内の牧は甲斐など四国の勅旨牧の他に近都牧や院牧もあり、甲斐国にあった小笠原牧などもこの院牧であった。こうした御牧の全てが甲斐の北巨摩地方に存在したという定説はあってもその根拠は希薄である。

 甲斐の貢馬や駒牽の記事は天長六年(829)初見以後、延喜四年(904)まで何故か空白であり、この間の貢馬の有無も文献資料からは不明である。(貢馬と駒牽それに年表については拙著を参照) 当時国司往来や貢上の道は定められていて甲斐は東海道に属し、東海道を通じて貢馬や貢ぎ物を献上していた。

貢馬の道

 甲斐の古道は国府から御坂−河口−籠坂を通り東海道に入ったとされる鎌倉街道説が定説になっているが、富士山の噴火を横に見ながら朝廷への大切な貢ぎ物を運ぶことは大変な困難と危険を伴う。駒牽の期日までに納める御馬であってはより確実で安全な道を選択する事は当然である。

 長野県『富士見町誌』には富士見町の山道に甲斐からの貢馬の道が通じていたとの記述もある。甲斐の古道についての定説は曖昧なもので『延喜式』には駅名を「水市−河口−加吉」とあるのに、著名な歴史家はこれは誤りで逆に記載してあり、本来は「加古−河口−水市」であり、「加吉」は「加古」の誤りで「籠坂」のことである。との無理な推論を展開している。驚いたことに山梨県ではこうした根拠のない定説擬きを再研究することなく平気で定説として引用している歴史紹介書が散乱している。定説と史実の差は大きい。

 『山梨県の歴史』には、

 甲斐路は駿河国横走駅(御殿場市)で東海道本路から分岐し、西北に進んで甲斐駿国境籠坂峠(もとは加古坂と書いた)を越えて甲斐に入った。最初の駅加吉駅は加古坂の北麓山中湖山中付近にあったと推定される。『延喜式』の加吉は恐らく加古の誤りであろう。次の河口駅は河口湖町河口で河口湖岸にあり、両駅とも駅設置の条件である水草の富んだところに位置している。水市駅の位置は不明であるが、通説の一宮市蔵説もそれほど有力な根拠はない。地理的には御坂町上黒駒あたりに比定するほうが妥当のように思う。」

 甲斐国へ赴任する役人の中には有名歌人が含まれて小野貞樹、凡川内弭恒、壬生忠岑などがいる。又甲斐の駒や御牧(勅旨牧)を詠んだ歌も多く見られる。特に『土佐日記』の著者紀貫之の詠んだ歌が甲斐の古代の勅旨牧解明に様々な憶測と混乱をおこしている。

   都までなつけてひくはをがさわらへみの御牧の駒にやあるらん (『紀貫之集』)  をがさわらへみ(小笠原逸見)

 貫之がこの歌を詠んだ年代は定かではないが、貫之は生まれが貞観十年(868)で沒年は天慶八年(945)であるから、天慶八年以前での歌であることは明瞭である。

 『西宮記』に見る小笠原牧は応和元年(961)年の事なので、それ以前から小笠原逸見牧は存在したのである。『貫之集』の編纂年時や詠んだ年も不明であるが、貫之の認識の中に「をがさわらへみ」が歌枕として存在した事は間違いないといえる。なお紀貫之は『土佐日記』のなかで「甲斐の歌謡について述べている箇所があるが、これは甲斐の古代を開く上で大切な記述である。

 永承五年(1050)の能因法師の『能因歌枕』には甲斐の名所として「黒ごま山」(黒駒山)「かひの黒駒」が見え、仁安元年(1166)頃成立の『和歌初学抄』には甲斐の歌枕として、「くろごまの牧「「ほさかの牧」「をがさわらの牧」などが載せている。

 「美豆の御牧」について県内の多くの歴史学者は言及していない。和歌の世界では使牧のみを御牧と称していたのではない。「美豆の御牧」これは山城の近都牧であるが、和歌の世界では混乱して「小笠原美豆の御牧の」などと詠われていた為に、『甲斐国志』や後の甲斐の歴史研究者の中には「みず」を「三つ」として甲斐の三牧の総称として紹介している。さらに「穂坂の小野」も『国志』編纂時に双葉町に小野という地名があったと記述してあるが、中央歌人の歌枕に詠まれるほどの地名認識があったとは思われない。

 甲斐の歌枕とされる「塩の山」や「差出の磯」も「地名不詳」とする解説記述書もある。また残念ながら歌集からは真衣野牧や柏前牧の歌は見えず、『国志』の真衣野牧の項に見える歌は何ら関係のない歌である。

 甲斐の歴史書の中には甲斐に全く関係ない歌やその地に関係のない俳句を掲載する例が多く見られ、松尾芭蕉の句や各地の宗匠らによる芭蕉句碑建立などは混乱に輪をかける所業である。

  春草の穂坂のをのゝはなれ駒秋は宮こへひかんとすらん     (『夫木』)

  小笠原美豆の御牧にあるゝ駒もとれはそ馴るこらが袖かも  (『六帖』)

 これ等の歌はどう解釈すればよいのか。『西宮記』には応和元年(961)冷泉院小笠原牧御馬の貢上の記事が見える。穂坂牧は延喜四年(904)、真衣野牧・柏前牧は遅れて承平元年(931)が文献に現れる駒牽の初出である。貢馬定数は穂坂牧が三十疋、真衣野・柏前牧が合わせて三十疋と決められていた。甲斐の穂坂・柏前・真衣野牧からの貢馬は定数を欠く年次もあるが他国を圧倒する勢いで続く。不思議なこと穂坂牧・真衣野牧は単独でも貢馬しているが柏前牧は必ず真衣野牧とセットで行なわれている。真衣野・柏前牧は通年に於いて初の駒牽で八月七日、穂坂牧は八月十七日が天皇御覧の駒牽の期日である。先述した小笠原牧の御馬も駒牽があり、勅旨牧と同等の扱いがあったことが史料により確認できる。勅旨牧の穂坂・真衣野・柏前の三牧と院牧小笠原牧は併設されていた時期が存在したことが史料でわかる。これも今までの定説にはないことである。

 駒牽行事への貢馬は全てにわたって厳しく規定されていた。牧監・馬医・書生・占部・足工・騎士が六疋に一人付き添った。さらに沿道の駅では貢馬一疋に対して一人、牧監に三人、馬医・書生などの牧士二人に一人ずつの人夫を出し、さらに牧監に三疋、馬医・書生・牧士には一疋ずつの馬を提供した。また駅では一日一疋あたり一束の飼秣(まぐさ)も負担させられた。

 勅旨牧の貢馬にあたってはその立場を利用した引率者の横行も目立ち、それを諫める太政官符が何度となく発布されている。各国の貢ぎ物にあたる人々の難儀は絶句に値する内容である。往路は駅路の国でも官給を受けられるが帰りは悲惨な処遇で、道筋にはこうした人々の屍体が放置してあり、その片づけの太政官符も発令されていた。勅旨牧には様々な規定があり、違反についての太政官符が度々発せられている。

 勅使牧の牧士は百匹(一群)ごとに二人が配置され、馬は毎年母馬百疋に対して六十疋の割合で繁殖させるのが基準で、逆に損耗は百疋につき十疋を限度とした。飼育された馬は二才になった九月に国司と牧長が同席して「官」の焼印が押され、馬の特徴を記録した帳簿も作成した。牧帳(事務担当者)以下は地域の有力者が任命された。馬の飼料には細馬で一日に粟一升・稲三升・豆二升他に干草・青草・木の葉や塩二斤も与えられた。

 一群(百疋)の一年間の所用米(半糠米)は推定五百八十四石位になる。天平六年(734)の「出雲国計会帳」には駅馬帳・伝馬帳・種馬帳・飼馬帳などが進上されているので甲斐国でも同様な書類が作成されたいたことは間違いない。

 こうしてみると牧場は単に馬を放牧するだけの施設でなく、管理を徹底するために相当な規模の貯蔵庫や厩(うまや)、調教施設、飼育に関わる人々の居住施設などが必要である。

 また広大な牧田も存在したことは諸史料から明らかで、併せて比定地研究の課題となる。不明な部分が多いほど研究者の推量の余地は広がるもので、著名な研究者の言が大きな意味を持つ。遺構や遺跡、牧に関する遺物が発見されれば甲斐の勅旨牧の動向の有力な手がかりとなるのだが、開発の激しい山梨県では難しく不詳のまま後世に残る可能性が強く、真実は闇の中に封じ込められたままとなる。

 御牧の運営については、甲斐には牧監が置かれ、(信濃・上野とも、武蔵は別当)毎年四才以上の用に耐える馬を選んで調教した。調教した馬は翌年八月の期日に牧監らが引率して貢上した。甲斐からは六十疋(穂坂牧三十、真衣野・柏前で三十疋)。貢上した馬は天皇の前で駒牽の儀式が行なわれた。(真衣野・柏前−八月七日。穂坂−八月十七日)貢上に適さない馬は、駅馬や伝馬に充てられか売却された。馬は細場(上)・中馬(中)・駑馬(下)に区別され飼料も厳格に規定されていた。牧監の任期は六年として国司と同じく責任の重い要職であった。などなどが定められていた。

 さて甲斐の三勅旨牧のその所在地について比定史料が不足していることは理解していただけると思う。真衣野牧が何故武川牧ノ原周辺なのか。識者はその根拠を示さないまま定説にする。柏前牧の比定地の「樫山」と「柏前」は資料で結びつくのか。未だに謎の部分が九割位あり、現存地名比定をもって牧名を断定することは避けなければならない。どの牧がどの地域にあったかは永遠の謎である。

 現在甲斐に於ける勅旨牧の遺跡や遺構の研究は進まず、地名比定や研究者の私説や推説の展開が見られ、三勅旨牧所在地の比定をさらに混乱させている。「定説」は創るものではない。史料研究や発掘調査などのたゆまざる研究から生まれるもので、信濃の御牧や上野・武蔵御牧の研究も視野に入れて幅広い論証が必要になる。遺跡・遺構、勅旨牧の飼馬関連地名、馬飼場の適地、文献史料を読み直しも必要と思われる。

 歴史研究を志すとき最も必要なのは、通説や過去の著書などは参考程度にして出発することが大切で、結果的に研究と整合すればそれはより史実に近くなるし、過去の研究書の信憑性が増すことになる。一般の人は史実と小説やテレビドラマなどとの境が分からず、全てが歴史事実と誤認してしまうものである。市町村誌などは分厚く難しくてどれだけの人が紐解くか分からない。確かに重要事項も多々記載してあるが、一般人に読みやすく理解しやすいようには記されてはいない。古代部分などは専門用語の羅列でその道の人以外ほとんど見られることはない。また編纂者によっては市町村誌で自説を展開している方も多く、史実とかけ離れる原因ともなっている。

 信玄を記した『甲陽軍艦』や徐福が著したとされる『宮下文書』なども偽書扱いしながら部分的には引用している研究者もいる。特に信玄を語る上で欠かせない山本勘助は今でも歴史上の人物でないとする研究者も多い。江戸時代甲府にあったと記されている「山本勘助屋敷」はどう解釈すればよいのだろうか。

 帰化人の跋扈(ばっこ)した古代甲斐、甲斐の勅旨牧、甲斐源氏の素顔、白州山口の生まれとされた山口素堂、疑問の残る初代市川団十郎と甲斐との関係、当時「山流し」と嫌われた甲府勤番などなど史実とはかけ離れた記述や定説が一般化しているのが現状である。

駒を育てた人々

 山梨県は歴史の中で特に民族に関する歴史はタブ−である。従って論じる人も少なく避けて通るのでその年代の歴史が空洞化する。牧場には多くの朝鮮半島の出身者が多く従事していたという。甲斐にも多く住居していたことは史料にも見えている。持統天皇の六百八十八年には百済の敬須徳那利を甲斐国に移す(『日本書紀』)。霊亀二年(716)には甲斐国などの高麗(こま)人、千七百九十五人を武蔵国に移す。天平宝宇五年(761)には巨麻郡漢人部千代の名が見え、延暦八年(789)には山梨郡の渡来人の請願により要部上麻呂・古爾・鞠部・解礼らの本姓をそれぞれ田井・玉井・大井・中井に改める(『続日本記』)等である。こうしたことは甲斐国だけでなく関東諸国にいえる事である。

 余談ではあるが、過去に於いて北巨摩地方にも様々な著書がある。それは地名にはアイヌ用語が多くあるといい、武川村の中山には最後まで天皇支配に抵抗するアイヌが居たと記述してある歴史書もある。また峡北に高天ヶ原があったなどとの奇抜な著書も見える。その他富士山周辺はアイヌ土器(縄文土器)の宝庫である。との著も見える。

 これについて『国志』は「巨麻(巨摩)郡の巨麻は駒に由来する」としているが、古代音韻により現在では高麗が転化して巨麻郡になったという。巨麻郡は高麗人の多く住んで居た所となる。甲斐の国を半分を占めた巨麻郡は広大な地であった。古代音韻については他の地名や固有名詞を調べてみる必要があるのでないか。

甲斐駒ヶ岳

 私の住む白州には甲斐駒ヶ岳がある。駒ヶ岳の山名は不思議なことに関東以北に限定される。

 「駒ヶ岳友好連邦会議・フアンクラブの駒ヶ岳」によると、

 などの駒ヶ岳がある。(『新駒ヶ岳余聞』)

すべての駒ヶ岳の麓で牧が展開されていたかは未調査である。

 何時の時代のドラマでも大型の馬を武将が乗り回している。しかし『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する馬の体高は136,4〜145,4であり、平家を攻めた義経が鵯越に騎乗した馬もポニ−程度であり、新田義貞の鎌倉攻め(1333年)前後とされている鎌倉在木座より出土した128体の体高は最高で140、最少で128 、平均129,5であった。戦国時代になって馬の体高も発達して、武田信虎の鬼鹿毛が147,9、(4尺8寸8分)大きなものでは加藤清正の帝釈栗毛で160,6(五尺三寸)の大型であった。   古代の馬の壁画や線刻画などは近畿から九州にかけて多く見られる。熊本県の弁慶が穴古墳から騎馬人物や船に乗せた馬、浦田横穴墓の馬の画、福岡県の薬師下南古墳からは旗を立てた馬に乗る人物が画かれている。                                                                          また在来馬としては長野木曾馬(一説には甲斐から持ち込まれた馬ともいう)、北海道ドサンコ、愛知県今治の野間馬、対馬の対州馬、宮城県御崎馬、鹿児島トカラ列島のトカラ馬、沖縄の宮古馬、与那国馬の八種類がある。                                                                          戦国時代の名馬には武田信虎の鬼鹿毛、武田信玄から織田信長に譲られた鬼瓦毛、会津黒などが知られる。『平家物語』の名馬には佐々木四郎の生食、梶原景季の摺墨、源義経の大夫黒、青海波、熊谷直実の「ごんた栗毛」などが有名である。(『新駒ヶ岳余聞』)

 さて本題に戻るが甲斐の勅旨牧は甲斐源氏の隆盛とともに私牧に代わっていったと甲斐の歴史書は説明するが、甲斐源氏と甲斐の馬を結ぶ史料は見えない。『古事類宛』〔寛政年代(1790年代調べ)によれば東日本の牧は合計244牧でうち甲斐は九牧が確認される。最も多いのは陸奥国南部であり、26牧が確認される。南部は甲斐源氏の南部氏が発祥であり、甲斐の御牧との関係も推測できる。(この項別述)

国最大の甲斐の御牧

 甲斐の勅旨牧から貢馬された回数(文献上)はおおよそ十五回である。穂坂牧は三十六回で甲斐、信濃、上野、武蔵の名かで最も多く、真衣野牧は十四回、真衣野・柏前牧合わせての貢馬は十八回である。小笠原牧は応和元年の一回のみで、残りは甲斐からの貢馬であるが牧名が不明である。なお天長六年(829)から延喜四年(904)の間の貢馬は文献からは不明である。貞観の富士山噴火と関係あるのだろうか。

 その後甲斐から貢馬はなく、国司や武将から朝廷官人たちへの貢馬が行なわれるようになる。甲斐源氏の勢力下になった甲斐国の勅使牧は私牧に代わっていく。これは関東地域全般にいえることである。時代の趨勢と共に甲斐の勅使牧は消えていった。

 歴史研究は総合的な視野が必要であり、単に過去の歴史書を紐とくだけでは迫れないもので、天災地変・地理・地質・遺跡・遺構・遺物なども加味して考察して欲しいものである。 歴史学者は巨麻(巨摩)郡の発祥が高麗であるならそれを実証する努力をすべきであり、古代音韻によるとの説だけに逃避するのは一考を要する。朝鮮半島から渡来した人たちは馬を飼育する技術に優れており、甲斐には多数居住していた。当時荒地の多かった甲斐は馬飼地に適していて、また九州や近畿に広がっていた牧場も関東に移動し、馬飼人の多くも移住して来た。甲斐の巨摩郡は全土の半分位の範囲を現在も占めている。勅使牧の解明は巨摩郡に拘わる必要は少なく巨摩郡全域、甲斐全域を再調査する必要がある。今回の調査では全ての関係書を調べてみた分けではない。時間と根気が不足しているのかも知れないが、『甲斐国志』や特定の歴史学者の影響の強い各史誌であっては有効な史料とはならない。もし参考になる書があるとすれば、それは一昔前の地域の研究者によって著された史誌なのかも知れない。

 

 

  ……貢馬・駒牽年表……

(詳細は拙著、『再考 甲斐の勅使牧』)○数字は各牧の回数。

   穂坂牧  真衣野牧と併合して貢馬

 文献にみえる勅旨牧の貢馬・駒牽の回数         

(以後の調査で増加する可能性がある)

 (未完)

 
   北杜の歴史講座 甲斐源氏

 北杜市や韮崎市は旧北巨摩に属し、数多い甲斐源氏の史蹟や伝承が多く存在する。しかし確実な資料に裏づけされたものというと数少ないものしか確認できない。この
講座では旧説に惑わされずに確かな資料によって甲斐源氏の実体を綴ってみる。

   氏 名    和  暦    出   典
藤原公季(甲斐公)
長元 2年 10月17日 1029 故太政大臣藤原公季を甲斐に封じ、甲斐に封甲斐公となし仁義公とする。正一位。 (日本記略 後編14)

 源頼信 
安和 1年   968 源頼信生まれる。
長元 3年  9月 2日 1030 甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平常を討たせ、追討平直方を召還する。(日本記略 後編14)

長元 4年  2月23日 1031 甲斐守源頼信、調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。(日本記略 後編14)

長元 4年  4月28日 1031 平忠常、甲斐守源頼信に投降し、伴われて上京の途次美濃国で病没、頼信その首級を携えて入京する。(左経記)

長元 4年  6月27日 1031 朝廷、頼信の行賞と忠常の子常昌・常近の処分のことを議する。(左経記)

長元 4年  7月 1日 1031 頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。(小右記)

長元 4年 7月13日 1031  頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。 (小右記)  

長元 5年 2月 8日 1031  平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任する。   (類聚符宣抄 第8)

永承 1年 1046  河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、祖先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁栄を祈る。(類聚符宣抄 第8)

永承 3年 1048  源頼義没。

   源  義光    

寛徳 2年 1045  歿。年八十二才。 諸説あり。
天喜 4年 1056  歿。年七十一才。 諸説あり。  (甲斐国志)

永保 3年 1083  義光、左兵衛尉。年三十九才。   
 (奥羽戦乱と東国源氏)
  長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。
  義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。  
  義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領)明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。
  義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。
  義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。
 (奥羽戦乱と東国源氏)

康和 4年 2月 3日 1102  刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。この時義光五十八才。(殿暦……忠実の子忠通の日記)(殿暦・武川村誌)

   新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。
   刑部丞。平日住三井寺。
   義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐武冠者昌義を設ける。
   義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。
 甲斐源氏の発祥    義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
   義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。

嘉承 1年 6月 1106  源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。
   (永昌記)

大治 2年10月20日 1127   源義光死去。(尊卑分脈・大聖寺過去帳)
義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。
   (十訓抄)
  …『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。
大寳寺 佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉に多福寺を建とあり。

… 多福明神社…新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らくは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々

… 鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ)

… 鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で 新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。 (歴史と旅、鎌倉興亡史)

… 大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹 屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。 (歴史と旅、鎌倉興亡史)

  …常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所
   領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。
   義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷
   ・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二
   宮郷・岩崎郷など。義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。

 没年 大治 2年10月 2日  1227 歿。 年八十二才。
大治 2年10月20日  1227 歿。 年七十一才。(甲斐国志。)

   ☆武田義清・源 清光

承保 1年  1074   清光生まれる。光、二十九才の時の子。
 没年 久安 5年 7月23日  1149 年七十五才。
  清光  ※生年 天永  1年 1110  義清、三十六才の時の子。
   没年 仁安  3年 7月 8日 1168  年五十九才。
  康和  4年 2月 3日 1102  義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。  
  天永  1年 6月 7日 1110  義清の子、清光が生まれる。
   々  6月19日   清光が市川平塩岡の居館で生まれている  大泉村誌(?)
  保安  4年 1123  義清出家。   武川村誌
  大治  2年   清光十八才。
  大治  3年 1128  清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て  長坂町誌
  嫡男光長と次男信義をもうける。
  大治  5年12月30日 1130  源義清の子清光、濫行を以て告発される。 長秋記
  甲斐国市河庄に配流される。
  常陸国司、住人清光濫行の事などを申す  長秋記
  なり。子細目録に見ゆ。
  義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)
  保延  6年 1140  清光の子、十三才元服の儀式。   長坂町誌
  小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮  (この記事の出典は不明)  武田太郎信義…武田庄武田八幡宮
  源 義清   久安  1年 7月23日 1145  義清死去。   武田系図
   々  5年 7月23日 1149  義清死去。   大聖寺過去帳
  刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。   武田系図
  保安四年(1123)出家。
  治承  4年 1180  平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将
逸見冠者義清・その子太郎清光( )  平家物語
  武田太郎信義・加賀美二郎遠光
  加賀美小次郎長清・一条次郎忠頼
  板垣三郎兼信・逸見兵衛有義
  武田五郎信光・安田三郎義定

  源 清光   仁安  3年 7月 8日 1168  清光没(年59)甲州卒。天永2年生。
  茨城県那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎  新編常陸国誌
  義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじ
  め那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、佐竹系図
  義光の嗣たり……  
  子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々
  若神子の居館で死す。武川村誌(?)資料無。  (武田郷)の地名初見…和名抄
  東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。新編常陸国誌
  即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々


   ◇武田信義
   諸説 ※生年 大治  2年 1127  義清五十三才、清光十七才の時の子。
  大治  3年 1128
  長承  2年 1133  義清五十九才、清光二十三才の時の子。
   没年 文治  2年 3月 9日 1186  年五十三才。
 3月19日 1186  年五十九才。
  源 信義   治承  4年 9月 7日 1180  武田太郎信義、甲斐国を領す。   山槐記
  平井冠者  々   平氏方甲斐国平井冠者、被討取。   山槐記
   大太郎  々   烏帽子商人大太郎、頼朝を助け石和に百町の名田と在家三宇を与えられる。   源平盛衰記
 々  9月24日   武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和  吾妻鏡
  御厨へ移動する。
  禄高(鎌倉右大臣の時) 四万五千石。北条四郎時政( ・ ・ ) 武家時代分限帳( )
  五万石。 武田太郎信義(甲州の内)  々
  一万八千町 逸見三郎  (山城の内)  々
  三千町 一条次郎槇義(甲州の内)  々
  五千町 板垣四郎高房(甲州の内)  々
  千町 成田小兵衛房次( )  々( ) (足利尊氏時代)  五千貫 武田伊豆前司信氏  々
 ?二万貫 安田民部大輔仲景  々
  甲斐源氏、北条父子と駿河国に赴く。
 々 10月13日   石和御厨をたって、若彦路の大石駅に宿  吾妻鏡
  泊する。
  武田太郎信義・次郎忠頼・兵衛尉有義
  安田三郎義定・逸見冠者光長
  河内五郎義長・伊澤五郎信光
 々 10月14日   甲斐源氏、武田・安田の人々神野並びに
  春田路をへて鉢田に入り、駿河目代軍を
  破る。
 々 10月20日   武田信義兵略を廻らし、敵の後面を襲う  平家物語
  所、水鳥群立てし軍勢の装いをなす。
  追討使軍敗走する。
 々 10月21日   武田信義…駿河守護、   吾妻鏡
  (治承4年1180〜元暦1年1184) 日本史辞典角川書店板
 々 11月 5日   甲斐源氏、富士川西岸に布陣した追討使  玉葉
  軍を夜襲、追討使軍戦わず退却する。
  養和  1年 3月 7日 1181  武田信義、御白河法皇から頼朝の追討使に任じられたいう風聞を否定し、誓書を提出する。吾妻鏡  

 寿永  2年 1183  義仲追討使として、甲斐源氏も出兵する。
  武田太郎信義・加賀美次郎遠光
  一条二郎忠頼・小笠原次郎長清
  井澤五郎信光・板垣三郎兼信
  逸見冠者義清(有義の誤りか)
  元暦  1年 1184  近江国粟津の戦いで甲斐源氏が活躍する。 源平盛衰記
  一条忠頼・板垣三郎兼信…先陣、七千余騎
  武田太郎信義・加賀美次郎遠光…二千余騎
  逸見四郎有義・伊澤五郎信光  三千余騎
  小笠原小次郎長清    )
  範頼・義経群、摂津国に入り、一ノ谷に  平家物語
  陣を構える平氏軍と対峙する。
  武田太郎信義・加賀美次郎遠光
  一条二郎忠頼・小笠原次郎長清
  井澤五郎信光・板垣三郎兼信
  武田信義   文治  2年 3月 9日 1185  武田信義死去(『吾妻鏡』には建久元年十一月七日の項に、武田太郎とある)
  卒年…59才。

   ◇伊澤信景
  平治  1年12月 9日 1159  井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。平治物語 上
  甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして宗との兵二百人、以下軍兵二千余騎云々井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり。 平治物語 中
 《多くの所伝は石澤信光は、武田清光の子の信義の五男としているが、石澤信景の存在が気になる。信景の生年・没年は不詳であり、正確なことはいえないが、石澤信景の家系にあった人物ともとれる。》
※『甲斐国志』
  武田清光  生年 天永元年(1110) 没年 仁安三年(1168) 年、五十九才。
※(長坂清光寺)生年 元永元年(1116)  没年 仁安元年(1166) 年、五十才。 《紹介、山梨県の武田氏伝説》 
  武田信義  生年 大治二年(1127) 没年 文治二年(1186) 年、五十九才。清光、十七才時の子。
  逸見光長  生年 大治二年(1127)
  安田義定  生年 長承二年(1133) 没年 建久五年(1194) 年、六十一才。清光、二十三才の時の子。
  加々美遠光  生年 康治元年(1142) 没年 寛喜二年(1230) 年、八十八才。清光、三十二才の時の子。
  石和信光  生年 応保二年(1162) 没年 宝治二年(1248) 年、八十七才。信義、三十五才の時の子。
 『続群書類従』  清光、五十二才の時の子。
  小笠原長清  生年 応保二年(1162) 没年 仁治三年(1242) 年、八十一才。遠光、二十才の時の子。
 武田系図を見る   清光、
 武田系図(『日本系譜綜覧』)  
  源 義光  武田義清 武田清光   武田信義   武田信光  
  師光   逸見光長   武田有義  
  源 頼義    安田義定   板垣兼信  
   加賀美遠光  小笠原長清  
   安井清隆  
   河内長義  
 武田系図(『続群書類従』)  
  源 義光  武田義清 武田清光  
逸見光長  
  源 頼義 武田信義   米倉太郎  
加賀美遠光  一条次郎忠頼  
安田義定   板垣次郎兼信(三郎)
安井清隆   逸見四郎兵衛
河内義長   石和五郎信光
《武田系図について》
 武田系図の内、二説を取り上げて見た。大きな違いは義清から清光の段、即ち ・ ・ の項について『綜覧』では、清光の兄弟は師光だけだが、『群書』では、清光・光長・信義・遠光・義定が兄弟となっている。石和五郎信光については、信義の五男とするには無理があるような気がする。『綜覧』の方が自然である。又、石和五郎信光の家系は石和信景に見られる様に信義とは別家である可能性も強い。それは行動や頼朝以下鎌倉幕府の対応の違いからも 読み取れる。
 これは山梨県でも広瀬広一氏が「石和氏は、清光と系統を異にして頼信・頼義の胤にて早く国府の附近にに居り、御厨領を
掠めて勃興した氏族である」との見解を示している。系図は後世の所作によるもので、系図にバラツキが見られるのは致し方ない。
 また甲斐源氏が峡北地方を中心に展開していたとの見解も一考を要する問題で、逸見氏を名乗った光長の動向が不詳であり、逸見氏の中には現在の甲府近辺に居住した者もいて、神社や仏閣それに伝説をもって判断することは危険である。文書に見える甲斐の地名は逸見山・石和御厨くらいで、その他は寺院の由緒が先行している。

   ◇安田義定
  ※生年 長承  2年 1133  清光、二十三才の時の子。
   没年 建久  5年 8月15日 1194  年六十一才。
  養和  1年 8月12日   源頼朝、安田義定を討つとの風聞、京都  玉葉集。
  に伝わる。
  治承  4年10月21日   安田義定…遠江守護   吾妻鏡。
  (治承4年1180〜建久4年1193) 日本史辞典角川書店板  

  寿永  2年   安田遠江守義定も義仲の負死を報告する。 吾妻鏡。

  安田義定

  建久  5年 8月   幕府軍、梶原景時甲斐に攻め込み安田軍と戦い、安田義定菩提寺放光寺で自刃。

   ◇一条忠頼
   没年 元暦  1年 1184  年不詳。
 《四月十六日改元》寿永  3年 1月27日 1184  一条次郎忠頼等飛脚参 着鎌倉 云々   吾妻鏡
  義仲の負死を報告する。
  一条忠頼   元暦  1年 6月16日 1184  武田信義の後継者と目されていた一条忠頼、鎌倉で頼朝に謀殺される。吾妻鏡

   ◇板垣兼信
 々  3月17日   板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるも、頼朝、退ける。  吾妻鏡
  文治  4年 2月 2日 1188  板垣兼信、尾張国津島社領の所当年貢を修理大夫に不納の為、訴えられる。吾妻鏡

  建久  1年 7月30日 1190  板垣兼信、違勅の罪により隠岐国への流罪に処せられる。吾妻鏡

 々  8月19日   板垣兼信の所領、遠江国質侶荘の地頭職を解くこと約束する。吾妻鏡
 々  9月13日   板垣兼信、配流の官符の後在京しているとの風聞が流れる。 吾妻鏡
 々  9月27日   御白河上皇、板垣兼信の配流を頼朝の上洛以前に完了するように強く命ずる。玉葉

 々 11月 7日   頼朝入洛。随臣者、
  武田太郎(信義?)武田兵衛尉(有義)  吾妻鏡
  浅利冠者・奈胡蔵人・加々美次郎・安田義資越後守・河内五郎
  文治  5年 5月22日 1189  頼朝、院宣を受けて、板垣兼信の駿河国地頭職を解く。吾妻鏡
   ◇武田有義
   没年 正治  2年 8月25日 1200  年不詳。
  治承  4年12月24日 1180  平清盛、京にいた武田有義の妻子を殺し、門前に梟首にする。 山槐記
  寿永  2年 2月 5日 1183  範頼・義経軍、摂津国へ入り平資盛・有盛らとの戦いに、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信・遠江守義定の名が見える。 吾妻鏡
 々  8月 6日   武田有義ら、平家追討のため西国下向にあたり、御所で饗され、餞別として馬一疋を与えられる。吾妻鏡
 々  8月 8日   武田有義、頼朝に従い平氏追討のために鎌倉を出立する。 吾妻鏡
 々 10月   政所造営、安芸廣元を別当として(中略)甲斐四郎秋家らを寄人として吉書あり。
  元暦  2年 1月26日 1185  範頼の豊後国に上陸に際し、武田有義ら随行する。  吾妻鏡
  
   々  3年 1月 3日 1186  頼朝、鶴岡八幡宮に参詣する。武田有義、板垣兼信ら随兵として従う。   吾妻鏡
  
  文治  3年 3月15日   武田有義、頼朝の鶴岡八幡宮での大般若供養に際し、御剣役として供養するを壓い遂電する。 吾妻鏡
   
   々 5年 6月 9日   武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。吾妻鏡

         々  6月 9日   武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八 

   々  7月19日  浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美次郎長清・加々美太郎長綱・加々美信濃守遠光・安田遠江守義定頼朝の奥州征伐に従軍する。
  建久  2年 2月 4日 1191  頼朝の二所参詣の随臣、伊澤五郎(信光)・加々美二郎(長清)武田兵衛尉(有義)・浅利冠者長義・安田義資越後守・奈胡蔵人義行
  建久  5年10月 9日   頼朝、流鏑馬以下の弓馬の道を武田有義らの堪能の者に評議させる。
  射手、武田兵衛尉有時・小笠原次郎長清  新編相模国風土記稿
々 11月21日   武田信光、鶴岡八幡宮で射手を努める。
  武田信義の名が見える。
  武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・武田信光・加々美遠光・安田義定・武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・奈胡義行・安田義資
  建久  6年 3月10日 1195  頼朝、東大寺供養、随臣武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清伊澤五郎(信光)・奈胡蔵人・浅利冠者・南部三郎・加々美三郎・河内義長。
々  5月20日   頼朝、四天王寺に参詣、随臣武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・奈胡蔵人義行・浅利冠者長義南部三郎光行・加々美二郎長清
  建久  8年 3月23日   頼朝、信濃善光寺への参詣、随臣武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美二郎長清・浅利冠者長義南部三郎光行
  正治  2年 1月28日 1200  伊澤信光、甲斐国より参上、武田有義が梶原景時に通じて逃亡した由を報告する。

   ◇武田五郎信光

 《石和五郎信光の行動は不可解の部分が多い。信義の家系だとすると無理が生じる。それは鎌倉幕府の頼朝以下の処遇を見ても明らかである。一書によれば兄弟(?)への裏切りを始め 、実朝の暗殺にも関わっていたと示唆している。》
  ※生年 応保  2年 1162  信義、三十五才の時の子。
   没年 宝治  2年 1248  年八十七才。
  寿永  2年 1183  武田信光の讒言により、頼朝、木曾義仲攻撃の為に信濃へ出兵する。
  信光は甲斐武田の住人云々。
  信光は三郎(義光)末、頼義より又五代。
  文治  1年10月24日 1185  武田信光、勝長寿院落慶供養に際し、先随兵として頼朝の行列に加わる。
   々   3年 8月15日 1187  武田信光、鶴岡八幡宮の流鏑馬に射手とて参加する。
   々   4年 1月20日 1188  頼朝の二所詣に、武田信光・加々美次郎・奈胡蔵人。
 6月 9日   武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。
   々   5年 1189  幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。信光、安芸守となる。
  建久  2年 7月28日 1191  武田信光、新御所落成に伴う御移徒の儀
々   に、参加。安田義資・浅利長義。
々  8月16日   鶴岡八幡宮流鏑馬、射手武田五郎・小笠原二郎・武田小五郎
々   武田信光の進上した十六疋の馬が新御所で披露される。信光…黒と白の斑毛
  建久  4年 3月21日 1193  下野国那須野での狩りに弓馬の達者とし選ばれ随行する。武田五郎・加々美二郎。
 5月 8日   武田信光、駿河国藍沢での狩りに随行。小笠原次郎。
 5月29日   工藤祐経を討った曽我時致の尋問に武田

 
   ◇甲斐源氏と並行した甲斐国司及び甲斐守(2)
 

藤原長輔   永久  3年 1月29日 1114  補任。   公卿補任久寿元年項。 〜保安  1年12月24日  1120  遷任。  中右記。
 源 雅職   保安  1年12月24日 1120  補任。元相模守。   中右記。
〜大治  1年11月22日  1126  見任。  中右其目録。
 源 盛部   2年10月 1127  権守。   御坂町誌。
 藤原範隆   3年 1月24日 1128  補任。元和泉守。   二中歴。
 ( )為基   長承  2年 2月 1133  権守。   御坂町誌。
〜 8月27日  没。  中右記。
 源 宗賢  9月21日   補任。   中右記。
  (姓名欠)   保延  3年12月29日 1137  重任。   中右記。
 平 信範   5年 1月 1139  権守。   御坂町誌。
 藤原顕遠  康治  1年 1月23日 1142  補任。元摂津守。   台記。本朝世紀。
 源 清政 々   掾。
 源 盛業   2年 1月27日 1143  除目。甲斐権守。   甲斐国志。   
 橘 盛久   2年 1月   掾。甲斐権守。   甲斐国志。
 藤原成佐   久安   3年 1月28日 1147  甲斐権守。   甲斐国志。   
 藤原顕遠   4年 3月 1148  判官代甲斐守。   甲斐国志。
 平 範家   5年 4月 9日 1149  甲斐守。勘解由次官。   甲斐国志。   
 藤原惟任 7月26日
〜 6年 1月29日  1150  去任。  公卿補任平治元年項。
 ( )信行   仁平  2年 9月30日 1150  見任。   兵範記。
 藤原盛隆   久寿  1年 1月23日 1154  補任。   兵範記。
〜応保  2年 1月27日  1161  見任。  山槐記。
 藤原忠重   応保  2年 1月27日  長寛勘文の件。   山槐記除目部類。
〜長寛  1年 4月 7日  1163  補任。
 藤原盛隆   長寛  2年 1月21日 1164  補任。    公卿補任長寛二年藤原顕時項。  橘 以明 6月  権守。  御坂町誌。
 藤原信定   仁安  1年 1月10日 1166  見任。   平安遺文3375号。
 藤原泰房    々   2年12月13日 1167  復任。   兵範記。
 和気季光    々   3年 1月   介。   御坂町誌。
 藤原宗隆   治承  2年 1月28日 1178  遷任。任備後守。   公卿補任建久九年項。

 藤原為明   治承  2年 1月28日 1178  補任。   玉葉集。
 大原正行  1月   大目。   御坂町誌。
 藤原為明    々   3年11月17日 1179  解任。   玉葉集。山槐記。
 藤原宗隆 12月12日   補任。   玉葉集。山槐記。
 藤原為賢   養和  1年11月 1181  権守。   御坂町誌。
 藤原宗隆   寿永  2年 8月16日 1183  補任。任淡路守。   公卿補任建久九年項。
 藤原長兼   文治  2年11月28日 1186  見任。   玉葉集。
〜建久  1年 5月    1190  見任。  鎌倉遺文451号。
 藤原宗隆    々   3年 3月21日 1192   心記。
 藤原宣宗    々   6年10月 7日 1195  見任。知行国主。   三長記。 〜 々 9年10月29日  1198  出家。(宣家)  資経卿記。
 藤原宗房   正治  1年 3月23日 1199    明月記、同年三月二十五日項。  元久  2年 4月    1205  去任。  公卿補任元久二年項。  藤原資季    元久  2年 4月10日    補任。    明月記。
 ( )兼教   承元  3年 8月 5日 1209  見任。   伏見宮御記録仙洞御移徒部類記。  藤原範茂  建保  3年 6月 1日  1215 伏見宮御記録逆修部類記。
 

  山梨歴史講座   甲斐の御牧

  甲斐の御牧は地域歴史書に
    どう書かれていたのか

 1、混乱する和歌の世界(小笠原、逸見、みつ(美豆)、御牧)

 《筆者注…六帖夫木集云歌集題駒牽甲斐或伊豆とある》
 
 都までなつけてひくは小笠原へみの御牧の駒にや有ける  紀貫之

 小笠原みつの御牧にあるゝ駒もとればぞ馴るこらが袖かも  作者不知
 
 をがさわらみつの御牧のはなれ駒いとゞけしきぞはるはあれ行  顯仲朝臣
 
 なつくともいかゞとるへき草わかみ三つのみ牧にあるはゝる駒  基 俊
  
 小笠原すぐろにやくる下草のなつまつあるゝつるのふち駒  仲實朝臣
 
 春ぞみしみつの御牧にあれし駒ありもやすらん草がくれつゝ  従三位家隆
 
 日を經つゝみつの野澤のまこも草あをめははるの駒ぞいばゆる  俊成卿
 
   筆者注…この「みつの御牧」は「美豆の御牧」で甲斐の御牧ではない。
   小笠原や逸見の牧の所在も現在の比定地ではない可能性もある。

 2、小笠原逸見の御牧 『甲斐叢記』の見解

按するに穂坂の庄に三澤村あり。又小笠原の方へ通る路に三澤通といふ路あり。これを
   斥か
        小笠原焼野のすゝきつのぐめばすぐろにいさむかひの黒駒   俊成卿

 もえ出る草葉のみかは小笠原駒のけしきも春めきけり  僧都覚雅
 
小笠原逸見の御牧を子らにとへばゆびさすかたにあそぶ春ごま(中略)因に云小笠原牧
   は穂坂牧に属きて元来巨摩ノ郷の内なり。六帖に紀貫之が歌を載て逸見ノ御牧と題したれ
   は小笠原と連綿たる一牧乃とは聞え難し小笠原と逸見と二所に分ていふ時は小笠原は穂坂
   牧の内にて逸見は乃はち柏前牧を云ふならんか。
又美豆御牧といへるは穂坂、小笠原、柏前の三所を指て云なるべし。

 3、柏前の牧 『甲斐叢記』の見解

樫山村に柏前牧と云ひ伝る処あり。「野馬平」、「南牧ヨセ」、「北牧よせ」、「懸札
」等云ふ地在せり。小念とて念場原に続きたる寛曠き原なり。古史に見えたる柏前の地
後世審かならず。
山梨郡柏尾に尾崎林なと云處ありて、黒駒山へも続き牧の事に縁あれば是ぞ柏前ならん
   と云へる説もあれど御牧考並び名此柏前も灼然き古跡なり。
今樫山と云も柏の仮名にて、崎も前も共にサキと訓むべし。唯文字の換れるのみ素、柏
   山乃尾崎と云ひ義なれば彼の柏尾は自然似たる地名と聞こえたり。此處は穂坂の山に聯な
   り。金峰の山脈斷えさる地なれば牧に名あらん事知ぬべし。今に馬見を畜て産の助とする
   もの少からずと云。

 4、穂坂牧・真衣野牧・柏前牧 『甲斐名勝志』の見解

延喜式所載御牧三甲斐御牧考曰、柏前殊ニ不可然ルニ式ニ所載之牧都テ三處而 、穂坂・眞衣野既ニ在巨摩郡ニ因テ思フニ之逸見ニ又有樫山村北與信界土極テ勁寒曠邃【すい】而多ク産駒ヲ于今州民皆取給ヲ焉其稱ル樫山ト者亦安ク知三ン其ノ非ルコトヲ柏前ノ轉訛ニ乎外レニシテ是ヲ而八代郡有柏尾山而黒駒山値【あた】其南ニ駒飼村在其東ニ皆不甚ダ遠ラ盖前ト與崎尾ト與峡同シテ訓ヲ而 皆縁ルノ山水ニ之稱ナラサルハ則此レ其ノ一帯之地或為ルモ古之牧亦不可知ル也云々
依テ之ニ按ルニ柏尾樫山ノ両説難レシ分チトイヘトモ恐ラクハ柏尾ナランカ。

 5、柏前牧 『甲斐国志』巻之二十村里部第十 の見解

   樫山村 古ヘ栢崎ト名ツケシ牧馬ナリト云。


 5、眞衣野牧 『甲斐叢記』の見解

   眞 衣(巨摩郡武川筋)

今乃牧原村の地なり。郷名にも記せり。牧原は駒嶽、鳳凰山の東麓の地にして地廣遼き所なり。
 今は盡き田となれり。古歌に御眞衣の原と読めり。
 名は高き木曾の梯引はたしみ牧の原や戀しかるらん 作者不知

 《筆者注…この歌は眞衣野牧の歌ではない》

 6、眞衣野牧を詠んだ歌と間違って紹介したことお詫び。

『文学に表れたふるさと山梨』丸山光重氏著(P36)に次のような記事が掲載されている。   
   『甲斐叢記』の巻之二の「牧名」のところに真衣(巨摩郡武川筋)今の牧原村の地なり。(中略) 

  古歌に御真衣の原と詠めり。
名に高き木曾のかけはし引わたし牧の原ゆ恋しかるらん
   とありました。たまたま「夫木抄集」に、
 名に高き木曾のかけはし引わたし子も雲井に見ゆる望月の駒
 ひきわくる駒ぞいはゆる望月のみまぎの原や恋しかるらん
という歌がありました。これこそ「御真衣の原」を詠んだものだとばかりに、 「古語辞典」で確かめもせずに、この項に取り上げてしまいました。
印刷製本後に調べてみますと、「望月の牧」は長野県だとわかりましたのでお 詫びして訂正します。

 7、真衣野牧に関する 『甲斐国志』巻之四十八古蹟部第十一 の見解

 
倭名抄ニ巨摩郡ノ郷名萬木乃、国用眞木野字トアリ。余戸郷北貳拾餘村皆此郷ニ属ス。牧【マギ】ノ原村即チ其違名ナリト云。延喜式及ビ国史諸記ニ所レ載本州ノ御牧三所穂坂、眞衣野、柏前ナリ。年貢六十匹ノ内眞衣野、柏前ニテ三十匹以八月七日毎年牽進ストアリ牧ノ原ハ駒ヶ岳、鳳凰山ノ東麓廣遼ノ地、今ハ盡ク耕田トナル。駒ヶ岳ハ奇絶
幽蹤神仙ノ所聚古ヨリ人躡基地事ヲ不レ許若攀ジントスル者アレバ必ズ風雨怪異ヲ表スト云。頂ニ駒形権現ヲ祭ル。厩戸王ノ驪駒ハ此山ニ畜産セルト云フ事俚談ニ傳ヘタリ。

 8、真衣野牧に関する 『甲斐名勝志』の見解

甲斐御牧考ニ曰武川之地有 牧原村興ニ驛路属ス。
和名鈔有ルトキハ巨摩郡眞衣則此其為ル「違名亦可知ヌ矣東鑑曰建久五年(1194)
甲寅三月十三日甲斐国武川牧ノ駒八疋参著被レ經御覧ヲ可被ル進セ京都ニ 云々

 9、武河御牧に関する 『甲斐叢記』の見解

 武河御牧(山梨郡萬力筋)又竹川とも作けり。東鑑に建久五年(1194)三月十三日甲斐国武河御牧駒八疋参着被經御覧可被進京都云々、牧平にて漆川赤芝川合流し竹川と名すくは乃はち西保川なり。東鑑に武河と書たる故に巨摩郡武河に混れたり。牧庄の内一般の馬城と見えたり。
 

10、『甲陽舊尋録』にみる眞衣野牧

 甲州よりの名馬の出候謂れは武州筋より西之方駒ヶ嶽と云う高山あり。之右之山の上る龍馬の住居候由。右武川筋之百姓薪取に参りて駒のいなゝき候を天然に承り候者も有之由呑候馬の子は必名馬なるよし申之。
  
11、『甲斐叢記』 巨摩郡をみる。

巨摩郡
   風土記ニ曰ク 西ハ限木賊川ニ 東ハ限小田谷ニ 南ハ限盤橋ニ 北ハ限妙壽山ニ
   
12、『風土記』…高麗(コマ)

13、『野史』…胡馬・巨馬(コマ)

   巨麻は駒なり。本郡の西北の隅に駒嶽あり(又巨摩山とも作れり)
   傳一云、古時厩戸王(聖徳太子)の驪黒【くろこま】山の産したり。
  釜無河、尾白河、大武河共にこゝに発源せり。
  甲陽茗話に釜無河の水源に神馬の精あるに因て、此水を飲て畜育【そだち】たる馬子は必す靈なりと云。凡この山より下瀝【したた】る水流の及ふ所を一郡とするを以て郡名の起る縁由知りぬべし。  
   吾友靱部定賢の説には、
 本郡は平原多くして馬を畜ふに便よき地なれば、他郡よりも多く牧を置れしと見えて、今も各處に牧の名残れり。されは駒を産する地なるゆゑ駒の郡と呼び、其地にありて峻抜【もぬけ】て高き山なれば駒が嶽とは稱しなるべし。 八田牧(巨摩郡西郡)

14、『甲斐叢記』による、八田牧(抜粋)

高尾村御崎の祠に桂鏡一面あり。
圓經八寸六分、三體王子の像を□れり。 
銘に「甲斐ノ国八田ノ御牧」
北鷹尾天福元年大戈癸巳十二月十五日大勧請蓮華坊辨慶とあり。
《筆者注…天福元年 1233》
加賀美、小笠原等の村邊より北を里人八田ノ庄と云傳ふ、上八田村あり。(最勝寺の鐘の銘に八田御牧とあり)此邊にては西山の別名を八田山とも云へり。

15、『続日本後記』 甲斐国巨摩郡馬

承和二年(835)四月甲斐国巨摩郡馬相野【まあいの】
空閑地五百町賜一品式部卿葛原親王
   とあり、馬相野乃地今詳ならびに按に御勅使川の南に傍ひ駒場村に相続て有野村あり。有野は馬相野を略傳したる言とおぼしければ、其馬相野は当時八田御牧の一名にて乃はち此地をいひしにや斯る曠宏き地にあ らざれば空閑五百町の地有 べきにあらねばなり。

16、飼育された馬の用途
貢馬は
 御牧からの貢馬は伊勢神宮を始め、勅旨社の祭馬(禊馬・神馬・走馬)に充てる。
 天皇・親王・公卿などの料馬として賜与された。

貢馬以外の馬
 乗用・駄用・農耕用 
 鞣革【なめしがわ】(馬の脳は皮の鞣剤として貴重)

17、馬の検印
   駒が二才になれば毎年九月十日、国司と牧監が同道で牧に臨んで検印して四才までは別群として飼育する。

18、貢馬の手順と約束事
 牧監・馬医・書生・占部    
 一日一駅(平均五里)の進行。
  騎士は馬六疋に一人の牧士をつけた。
 沿道の国々は
  貢馬一疋に……人夫一人  馬
  牧監に  …… 々 三人 ……三疋
  馬医に  …… 々 一人 …… 々
  書生に  …… …… 々
  占部に  …… 々 一人 …… 々
  足工に  …… …… 々
  飼株を  一日一疋あたり一束の負担。

19、 甲斐国の貢馬は毎年六十疋の貢馬が義務づけされていたが、現実にはそれを満たす事は希であった。
   例えば三十疋の貢馬の場合
   人夫……三十五人  騎士……五人
   貢馬……三十疋  馬 ……七疋
   となる。
   貢馬の入京の経費や秣料は庄田の小作料から支払う。

20、 貢馬の道(馬を引き連れて、京都までに道程)
  甲斐の貢馬の道筋は一般的には延喜式に書されている。軍用道路である東海道へ支線加吉ー川口ー水市を通過して行ったと思われるが、駅の比定も道順も度重なる富士山の噴火もあり、噴火当時、富士吉田や山中湖周辺を隊列を組んで通過することは避けていた。何といっても天皇に直接、御覧いただき、その後は官人たちに支給される馬である。
 御牧の貢馬の実態からは想像を絶する馬の数が甲斐から京都に向かっていったことが読み取れる。
21、 飼馬の条件
 隣の信濃国の貞観十八年の勅旨牧の総数は2274疋である。例年の貢馬数は信濃は80疋だから約28、5疋に一疋の割合で貢馬していた事になる。


22、 甲斐の飼馬の数  常に1710頭は飼育

   甲斐の貢馬数は   60疋、
   信濃国の割合でいけば、60×28、5で、1710疋
   を三御牧で飼育していたことになる。》 

 貢馬にもれた馬は一般的には駅馬・伝馬・農馬・乗馬駄馬などに充てられたようである。
 又馬の皮は「鞣皮」としての用途があった。馬の脳は鞣剤として貴重であったと伝えられている。御牧の牧馬は細馬(上馬)・中馬・駑馬(下馬)に分けられ、100疋単位で「群」という放牧の一単位で飼育された。
 駒(小馬)が二才になると毎月九月国司(又は牧監)牧長と立ち会って、官の字の印を左股の外に捺し、毛の色や歳を記録して、帳簿を二通を作り、一通は国衙にとどめ、一通は太政官に申達した。御牧は優秀馬を効率的に生産していたので、牡馬【ぼば】(雄馬)は優秀な種馬が数頭いればよかった。その他の牡馬は軍団や京都に送られた。

23、馬の飼育に携わる人
 馬の飼育には次の人々が携わっていた。
  1、牧監(監牧)…任期六年
牧監は都から任命される場合と、地方の豪族が任命される場合があった。位階は国司に准じて掾【じょう】(守・介に次ぐ三等官正六位)で所管内の御牧を統率し、官牧馬帳
を整えて馬寮に申達した。又牧田六町を公廨田【官職にたいして与えられた田】として与えられた。
  2、牧司長…牧監の補佐(一人)
  3、牧帳…牧馬を直接管理する責任者。
  4、牧子…群牧の責任者。百疋につき二人。
  5、馬医【めい】
  6、書生【しょしょう】…事務
  7、占部【うらべ】
  8、足工【あしく】
  9、騎士【きし】
  10、飼長…馬の飼育係、
 馬一疋について一人『厩牧令』
 細馬一疋…一人。
 中馬二疋…一人。
 駑馬三疋…一人。

23、馬の飼料

   ◎官牧の馬の一日の濃厚飼料は
   馬の種類 栗   稲  若豆   塩
   細馬 一升  三升 二升 二勺
   中馬 二升 二升 一勺
   駑馬 一升
  ◎参考例
   細馬10疋、
   中馬四十疋、
   駑馬五十疋
   ◎と仮定すると、百疋の一日の所用米は
   一日一石六斗、

   ◎一年間の五百八十四石と膨大な数量となる。

24、牧馬の条件(この条件を充たす御牧はどこか)
   1、放牧地域
◎ 馬一疋について一町〜二町。
◎ 良質の牧草。
◎ 病疫を防ぐための輪牧馬。
   2、繋飼地域
◎ 繋飼場は冬の飼育、調教期間の飼育に必要。
◎ 近くには厩舎・飼料舎・馬場・交尾場・飼丁の宿舎。 
◎ 外囲には隍と格【くい】をめぐらす。…野馬除け跡。

25、?甲斐の御牧はどこ(現在の比定地の根拠は)

 ここまで『甲斐国志』を中心に甲斐の御牧についての諸資料を提示したが、穂坂牧以外の眞衣野牧と栢前牧については現在の諸書の比定の根拠は希薄であり、歴史事実とするのには無理がある。穂坂牧については確定できても、隣接すると云われる小笠原牧や逸見牧との混同は解決する資料が不足している。
 特に和歌に詠まれた穂坂牧はともかく、真衣野牧や柏前牧の比定はそれを示す資料が不足する中で比定地が確定してきている。
 定説と史実や真実の隙間が大きいのに、多くの人が書真実のように繰り返すことによって、多くの人は史実として受け入れていくものである。
 甲斐の3カ所の御牧の比定地は、邪馬台国と同じで決定的な史料や遺跡の出現は永遠に解決しないことも考えられる。
 歴史学者も持論・推論・私論を展開して比定地を探っていることには敬意を評すが、既に比定地が確定しているような、「柏前牧は………、真衣野牧は………、穂坂牧は………、小笠原牧は………、逸見牧は………○○である」のような書き方は一考を要する。「………ではないかといわれているが、未だに確証はなく、今後の研究課題である」と書くべきである。
 さて御牧の条件は厳しく、ただ放牧して置くだけでなく、事細かに育て方が決められている。比定地が確定地になるには、それぞれの条件をクリヤ−することが大切である。
 また不思議なことに、現在までかの有名な「武田騎馬軍団」の馬は、どこで飼育され、どこで最強軍団として調教や訓練をしていたのだろうか。身近なこんな問題も現在は解決してはいないのである。「甲斐の勅使牧は、甲斐源氏の活躍の基盤となり………」も、歴史書にはよく書かれているが、その辺りのことも未だに解決されていない。
 次に掲げた御牧の条件をクリヤ−している牧はあるのだろうか。

  1、残存牧場関連の地名
  2、古墳の存在(副葬品馬具)とその関連
  3、立地条件(自然条件)・(馬と飼育する人や建物)
  4、馬寮の庄田
  5、遺構(牧場周囲の土手など)
  6、その他

 1、についてはその残存する地名は非常に少ない。例えば「眞衣野牧」は「まいのまき」と読み現在の巨摩郡武川村の「牧の原」が違名とされている。しかし2〜5については殆ど立証されてはいない。武川村の「宮ノ前」遺跡の発掘では「牧」の字を持つ墨書土器が発見され、これが「眞衣野牧」が武川村に存在したという説が急速に固まってきている。この遺跡は十世紀中の遺跡とされ、「眞衣野牧」は「眞衣郷」にあったとされている。
 しかし現在の武川村牧ノ原は大武川沿いの段丘上を除いて河川敷が広がり、川筋も定かではなく牧が存在したとは地形的には無理である。考えられるのは段丘上にある「真原」である。今は 「さねはら」又は「さねっぱら」と呼ばれている集落地名である。「槙原」又は「槇原」なら「まきはら」で、可能性が残されている。が、これは推論である。
 前に先述した『甲斐国志」以下の諸文献でもいわれや伝承部分が先行して確実な資料提供が為されていない。
 山梨県の諸歴史資料を年代別に調べててみると興味深い箇所が散見でき、先述した部分もあるがそれを整理すると次のようになる。
  1、卑弥呼の時代 ( 238) 三珠町大塚鳥居原古墳 赤烏元年銘の四神四獣鏡の出土。
  2、雄略天皇十三年( 469) 甲斐の黒駒の初見。…『日本書紀』
  3、宣下天皇 三年( 538) 大伴磐は大伴金村の子で仁那救援後、甲斐国山梨評山前邑を任地。 …『古代豪族系図辞典』
  4、年不詳   三珠町鳥居原古墳、馬の線刻画のある土師器
  5、
  6、推古天皇 六年( 598) 聖徳太子善馬を求め甲斐烏駒を得る。
  7、弘文天皇 元年( 672) 甲斐の勇者、将軍大伴吹負の命により近江軍の別将軍慮井鯨を急迫。   …『山梨県の歴史』
  8、持統天皇 二年( 688) 以百済敬須徳那利移甲斐国。 …『甲府市史』
  9、  大宝 二年( 702) 歌斐(甲斐)国、梓弓を献じる。 …『続日本記』
 10、文武天皇 四年( 700) 諸国に命じ、牧地を定め牛馬を放牧させる。朝廷、豪族の牧も政府の牧に編成兵部省の兵馬司が管理する。
 11、  和銅 六年( 712) 甲斐赴任者、不破関を越え本土へ  …『平城京木簡』
 12、和銅年間(708〜715) 長屋王邸の馬司に甲斐の人の存在が木簡で確認される。
   …『平城京木簡』
 13、  天平 三年( 731) 甲斐国司田辺廣足、瑞祥の神馬を献上する。
  …『山梨県の歴史』
 14、  天平 九年( 737) 『駿河国正税帳』(貢馬)山梨郡散事、小長谷部麻佐、
  甲斐国より御馬を進上す。云々
 15、  天平 十年( 738) 信濃国瑞祥の黒身白葦毛の神馬を献上。…『続日本記』
 16、  天長 四年( 827) 甲斐国に牧監を置く。    …『類聚三代格』

26、三御牧以外の甲斐の牧 

   応和 元年( 961)    八月二十九日小笠原牧(北山抄)
   令泉院小笠原牧御馬、於陣外令分取。
   応和 元年( 961)    九月十日 小笠原牧(西宮記)
   於本殿覧後院小笠原御馬、
   賜親王及右大臣子小舎人実正。

   建久 五年(1194)    甲斐国武河御牧
   承元 五年(1211/建暦元年)小笠原牧の名
   天福 元年(1233)    八田牧の名が見える。
 弘安中(1278〜1288)南部御牧・飯野牧

 、の武河御牧・八田牧・南部御牧・飯野牧の発生は勅旨牧の衰退に伴い新たに生まれた牧であり、後世混同して伝わっている部分もある。特に武河御牧は現在の牧丘町周辺に比定されているが、当時の甲斐国の国府の位置からは甲斐勅旨三牧との関係も再考を要する問題である 。小笠原牧の存在は勅旨牧と離れて考えたい。

27、甲斐の御牧の規模

 甲斐の三御牧の貢馬数は全国でも最たるものである。 隣の信濃国の貢馬数は八十疋であるが 、御牧の数は甲斐三牧に対して信濃国は十六牧である。次は甲斐の三牧の規模が以下に大きかったかが実証される資料である。

 延喜式のよると、

   国 名 御牧数  貢馬数  牧   名
   甲斐国  3  60  穂坂・眞衣野・柏前
   信濃国 16  80  山鹿・塩原・岡家・平井出・笠原・高位・宮處・埴原
   大野・大室・猪鹿・荻倉・新治・長倉・塩野・望月
   上野国  9  50  利刈・有馬島・沼尾・久野・市代・大藍・塩山、新屋 
   武蔵国  4  50  石川・小川・由比・立野
 甲斐国の貢馬数は他国の御牧の数に比して多いが、牧場数は少ないので、その一つ一つの規模の大きさと充実ぶりが解かる。
 さて甲斐の三牧は『甲斐国志』以来の地名及び伝承比定だけで良いのだろうか。穂坂牧を除いては再考する要素が十分にある。甲府盆地を取り巻く丘陵地帯から発展した古代甲斐で中央にとっても重要な勅旨牧(御牧)を中央地帯からかけ離れた地域に設ける事は不自然である。 当時の御牧の管理には国司や牧監があたり、馬を調教や管理する施設や飼育に関する人々の生活空間も広大な物になる。又牧の管理者などの死去に伴い設置される墳墓の存在も無視できない。また墳墓の副葬品などの馬具類も御牧比定地の大切な条件となる。
 時の首長国家を形成していた地域の付近に御牧は存在していたのではないだろうか。現在の中巨摩地方の増穂・櫛形・甲西・白根町などの釜無川左岸地帯の牧適正地を無視して武川村や白州町一帯の「牧の原」の御牧の比定は、国府や古墳やそれに地形から考えても不自然である。
 当時の政治情勢や貢馬の道などを考慮して考え直す時期に来ている。
 勅旨牧の運営の実態は甲斐国全体に関わる、国を左右する最も重要な国政であった事を忘れてはならない。 
 又武川牧や八田牧それに小笠原牧の発生は甲斐勅旨三牧の消失後に発生した可能性が強く、「 馬相野」「小笠原牧」についての比定は現在まで歴史資料を持たない推説が横行している。

28、貢馬の道

 さて貢馬の道、甲斐から都への道はいったい何処を通って行ったのであろうか。所謂官道である。古代甲斐から都への道は東海道を通過する事が義務づけられていた。この官道からの支路を通じての甲斐国府までの道程がこれまた確定していない。「延期式兵部省諸国駅伝馬条」には 《甲斐国驛馬 「水市 河口 加吉」》とされている。これを甲斐の場合は逆で「加吉・ 河口・ 水市」として地名比定する説が主流をなしている。
 これは『甲斐国志』以来、水市を御坂町黒駒地内に比定したのが原因である。これは辻褄合わせの比定で、甲斐国のみ道順が逆であるとの説は、延期式の諸国の記載に検討を加えていない仮説の域を脱していない。
 「加吉」も「加古」の記載間違いとして現在の「篭坂(加古坂)」に比定をしている。河口を現在の河口湖付近に限定して「加古」と「水市」を入れ替える事は無理であり、それは史実の駅順では無い。富士五湖一帯には「水市、河口、加吉」が存在していたとする書もあり、偽書として全て無視する事はできないのである。和歌集の中にも都留地方のことを詠んだ歌が見られる。

  雲の上に菊にほりうゑて 甲斐国の鶴の郡をうつしてぞ見る                                                                       甲斐国都留の郡の千年をば 君が為延と思ふなるべし
すへらきの君につかへて千年へん 鶴の毛衣たもとゆたかに
 その他にも中央派遣人の歌も多く見える。別述)

29、富士山の噴火

 富士山の噴火、それに古道について語るに忘れてはならないのは富士山の噴火との関係である 。県内の歴史書はこのことに殆ど触れていない。加古坂を通過するという支道と噴火との関係を 避けてはならない。富士山の噴火は諸書から抜き出して見ると次の様になる。噴火の様子については拙書『古代甲斐の道』『富士山の噴火』を一読願いたい。

30、富士山噴火年表

    養老 2年( 718) (『日本の火山災害』)
    天応 元年( 781) (『続日本記』)
    延暦19年( 800) (『日本記略』)
  21年( 802) (『日本記略』)
    天長 3年( 826) (『寒川神社記録』)
    貞観 6年( 864) (『三代実録』)
  12年( 870) (『寒川神社記録』)
    承平 2年( 932) (『富士史』)
   7年( 937) (『日本記略』)
    天暦 元年( 952) (『富士史』)
    正暦 4年( 993) (『富士史』)
   元年( 999) (『本朝世紀』)
   5年(1003) (『更級日記』)
   6年(1004) (『更級日記』)
    寛仁 元年(1017) (『富士史』)
   4年(1020)
    康平 2年(1059)
    長元 6年(1033) (『日本記略』)
    永保 3年(1083) (『扶桑略記』)
文治 6年(1190) (西行『山家集』)
建長 4年(1252)  
延元 3年(1338)
永正 8年(1511)
永禄 3年(1560) (『扶桑略記』)
寛永 4年(1627) (『大原旧記』)
元禄13年(1700) (『日本災異記』)
宝永 4年(1707)  
宝永 5年(1708)
宝永 6年(1709)

 上記のうち 印の年代は甲斐の貢馬に関係する年代である。その他にも都まで納める物品や官仕の往復などに使用された古代官道は甲斐にとっても重要な道であった。 富士山麓を経由するとされる官道はその噴火や洪水などの天災地変によって大きな変化を余儀なくされた筈である。長野県の『富士見町誌』には甲斐から伊那に抜ける道があったとし、しかも沿道に牧に関する神社などもあり、今後の探究が必要とされるところである。

 甲斐の御牧についての資料公開は順次進めている。
 また既に公開している資料もあるので参考にしていただきたい。

  山梨歴史講座 葛原親王が天皇から賜った馬相野

                 この広大な土地は何処?

 

   甲斐国巨摩郡郡馬相野空閑地

   五百町賜一品式部卿葛原親王。

 

 この土地がどこであったか有効な資料は見当たらない。

 なのに歴史学者は比定地を急ぐ。

 南アルプス(旧白根町)有野の結びつける仮説は仮説である。

 当時の賄地は頻繁に行なわれていた。今回はその辺りの資料を提示する。

 

  賜地(『続日本記』)

延暦24年(805) 7月      藤原内麻呂  13町     桓武天皇  続日本後記

 尾張国智多郡地十三町賜中納言従三位藤原朝臣内麻呂。

 

延暦24年(805) 8月      葛井親王   13町     桓武天皇  続日本後記

 山城国相楽郡白田十三町賜葛井親王。

 

延暦24年(805) 8月      仲野親王   50町     桓武天皇  続日本後記

 安芸国賀茂郡地五十町賜仲野親王。

 

大同 3年(808) 6月      高丘親王        6町     平城天皇  続日本後記

 山城国久世郡地六町賜高丘親王。

 

 葛原親王

弘仁 1年(810)10月      長野牧                   嵯峨天皇  続日本後記

 上野国利根郡長野牧賜三品葛原親王。

 

弘仁 2年(810)            田村麻呂墓地             嵯峨天皇  続日本後記

 賜山城国宇治郡地三町。

 為大納言贈従二位坂上田村麻呂墓地。

 

弘仁 3年(811) 3月      春日内親王      1町9段 嵯峨天皇  続日本後記

 山城国乙訓陸田一町九段賜春日内親王。

 

弘仁 5年(812) 7月      橘朝臣嘉智子 24町     嵯峨天皇  続日本後記

 尾張国丹羽郡田廿四町賜夫人従三位橘朝臣諱。

 

弘仁 6年(813) 4月      紀廣濱     10町     嵯峨天皇  続日本後記

 摂津国住吉郡地十町賜参議右大辨従四位上紀朝臣廣濱。

 

承和 1年(834) 2月      智子内親王 120町     仁明天皇  続日本後記

 伯耆国會見郡荒廢田百廿町賜有智子内親王。

 

承和 1年(834) 2月      阿保親王   33町     仁明天皇  続日本後記

 遠江国敷地郡古荒田卅三町賜阿保親王。

 

承和 1年(834) 2月      冷然院    133町     仁明天皇  続日本後記

 武蔵国幡羅郡荒廢田百卅町奉充冷然院。

 

承和 1年(834) 2月                100町     仁明天皇  続日本後記

 賜摂津国西成郡閑地一百町於諱。

                                                                                 

承和 1年(834)10月      滋野貞主        6町     仁明天皇  続日本後記

 山城国愛宕町空閑地六町賜従四位下滋野朝臣貞主。

 

承和 1年(834)11月      基貞親王   20町     仁明天皇  続日本後記

 越前国坂井郡荒田廿町賜基貞親王。

 

承和 1年(834) 3月      後院勅旨田 100町     仁明天皇  続日本後記

 以備前国御野郡空閑地百町為後院勅旨田。

 

葛原 承和 2年(835) 4月 葛原親王 500町     仁明天皇  続日本後記

 甲斐国巨摩郡郡馬相野空閑地

 五百町賜一品式部卿葛原親王。                                     続日本後記

 

《葛原親王−延暦5年(786)〜仁寿3年(853)》

 

承和 2年(835) 4月                      3町     仁明天皇  続日本後記

 摂津国嶋上郡荒廢田三町賜左大臣二位藤原朝臣緒嗣。

 

承和 2年(835) 7月      時子内親王 100町     仁明天皇  続日本後記

 賜讃岐国三野郡空閑地百余町時子内親王。

 

承和 2年(835) 7月      愛宕郡          2町     仁明天皇  続日本後記

                                山田郡     80町

 空閑地山城国愛宕郡二町。上野国山田郡八十町賜諱。

 

承和 2年(835) 1月      勅旨田     10町     仁明天皇  続日本後記

 美濃国荒廢田十町為後勅旨田。

 

承和 3年(836) 2月      大和宿祢館子    4町     仁明天皇  続日本後記

 山城国綴熹郡空閑地四町賜掌侍従五位下大和宿弥館子。

 

承和 3年(836) 3月      繁子内親王      4町     仁明天皇  続日本後記

 皇太宮後院。古市郡空閑地四町繁子内親王。

 

承和 3年(836) 3月      宗康親王   10町     仁明天皇  続日本後記

 大和国山邊郡荒廃田十町賜宗康親王。

 

承和 3年(836) 5月      宗康親王   33町     仁明天皇  続日本後記

 播磨国神埼郡荒廃田卅三町賜宗康親王。

 

承和 3年(836) 5月      朱雀院    203町     仁明天皇  続日本後記

 平城京内空閑地二百町奉充太皇太后朱雀院。

 

承和 3年(836) 6月      宗康親王   70町     仁明天皇  続日本後記

 美濃国席田郡空閑地七十町賜宗康親王。

 

承和 3年(836) 6月      秀良親王   17町     仁明天皇  続日本後記

                                          190町

                                           40町

 

 近江国荒廃田十七町。加賀国百九十町。

 備前国空閑地〓四町。賜三品弾正尹秀良親王。

 

承和 3年(836) 7月      橘朝臣岑綴 130町     仁明天皇  続日本後記

 伊勢国壹志郡空閑地百卅町

 賜左近衛少将従五位下橘朝臣岑綴。

 

承和 3年(836)10月      勅旨田    690町     仁明天皇  続日本後記

 肥前国神埼郡空閑地六百九十町為勅旨田。

 

承和 3年(836)11月      時子内親王      2町     仁明天皇  続日本後記

                                           33町

 山城国綴憙郡乗陸田二町。

 河内国荒廃田卅三町賜時子内親王。

 

承和 3年(836)11月      高子内親王      2町     仁明天皇  続日本後記

 山城国久世郡空閑地二町賜高子内親王。

 

承和 4年(837) 2月      親子内親王 285町     仁明天皇  続日本後記

 山城国野洲郡公田并荒廃田二百五十町。

 賜親子内親王。

承和 4年(837) 3月      勅旨田     43町     仁明天皇  続日本後記

 近江国蒲生郡荒廃田四十三町為勅旨後院田。

 

承和 4年(837) 6月      人康親王        1町     仁明天皇  続日本後記

 賜人康親王山城国葛郡空閑地一町。

 

承和 4年(837) 7月      太皇太后後院 49町     仁明天皇  続日本後記

                                           64町

 加賀国石川郡荒廃田四十九町。

 賜三品弾正尹秀良親王。

 

     山梨歴史講座 古代駒牽の行事について

 最初に朝廷の行事の中で御牧(勅使牧)に関係する駒牽行事について調べてみた。思った以上に格式のあるもので息苦しささえ覚える内容である。序文でも触れたが甲斐の御牧に於ても朝廷内の馬寮に於ても甲斐の人々が活躍していたのある。

 

    駒牽行事・儀式の流れ(甲斐御馬)

  

 駒牽の儀式とは、御牧(天皇直轄の牧場)から奉納された馬を天皇がご覧、その後分配する。左衛門陣に左近、右近府と左右馬寮の関係者が集合する。左衛門督が御馬解文(馬の毛並み、数等を記入したもの)を検閲して主上に奏覧する。天皇が仁寿殿へ出御。牧監と左右近衛府番長以下が馬を日華門より入れて、庭中を三回巡る。左衛門督の命により騎乗して、七八回廻る。その後馬の分配。左衛門督臣が、左近衛府、左馬寮、右近衛寮、右馬寮に分配する。さらに左右近衛中将、少将、左右馬寮頭助が一頭づつ取る。

    御牧の概要

 『日本書紀』の天智天皇七年(668)七月の条に、牧を設置して馬を放った記述がみえ、『続日本記』文武四年(700)三月の条に、諸国に牧地を定め、牛馬を放ったとある。大宝令《大宝元年(701)》の厩牧令の規定によれば、牧場は垣根囲い、牛馬の逸出を防ぎ、外部からの危害から守り、水草地を選んで選定し、全国の牧は兵部省管下の兵馬司が諸国司が国内の牧を管理して、牧は牧長・牧帳を設置、その管理下の牧子が実務に従事した。百頭を一群とし牧子二人をつける規定となっている。百頭につき六十頭の割合で増殖することを標準とし、牧馬は四歳で子を生むものとした。また牧馬の用途としては、乗用に耐えるものは当国の軍団に給付して軍馬とし、他の馬は雑用に使役したり、民間にも払い下げていたようである。 他の資料も紹介すると、

  一、「年中行事障子文」《仁和元年(885)三月二十五日》

  八月 七日  牽甲斐国勅使御馬事。八月十七日  牽甲斐国穂坂御馬事。

  一、『西宮記』「改定史籍収攬 編外」巻八 《十世紀半ば成立》

  八月    駒牽事  付大庭儀 雨儀

     七日  牽甲斐御馬事

     主当寮以解文進外記。外記申上卿。上卿以蔵人奏聞。不出御者。 於大庭分取如前。逗留延期之時。又可申解文。史申見参大弁。大弁、申上卿奏聞。留御所。或被延期逗留之旨。

        駒牽次

        四歳以上天長格云。上野・信濃・各有牧監一人。甲斐・武蔵各別当。交替式云。監牧歴六年。遷替准国司。

  八月 七日   甲斐真衣野・柏前卅疋。元五十。左主当。

       十三日   武蔵秩父廿疋。右。

       十五日   信濃諸牧六十疋。元八十。左。

       十七日   甲斐穂坂廿疋。元卅疋。左。

       二十日   武蔵小野〓疋。右。

       廿三日   信濃望月廿疋。元卅疋。左。

       廿五日   武蔵由比小川石川六十疋。元五十疋。立野廿疋。右。

       廿八日   上野諸牧五十疋。櫪卅。繁廿。右。

 

 一、「年中行事」《賀茂氏人保隆所伝。永延元年(987)以降の成立》

  八月 七日   牽甲斐国真衣野柏前勅使神馬。廿疋。若逗留者、左馬寮進留逗留解文。留御前。

    十七日   牽甲斐穂坂御馬事。廿疋。

 一、「師遠年中行事」《中原師遠著、〜大治元年(1130)卒》

  四月廿八日   駒牽事(小月の廿七日)

  八月 三日   牽甲斐国御馬事。

     七日   牽甲斐国勅使御馬事。御馬逗留解文事。甲斐勅使牧。

    十七日   牽甲斐国穂坂御馬事。三十疋。

    廿八日   牽上野国勅使牧御馬事。五十疋。

 一、「師元年中行事」《中原師元著、安元元年(1175)卒》

  四月廿八日  牽駒事。

 一、「年中行事抄」《建保二年(1214)五月七日の宣旨あり。それ以降》

  四月廿八日   牽駒事。清涼記。於南殿有此儀。

  八月廿八日   上野勅旨諸牧駒牽事。引進御馬之時。於南殿有此儀。

 一、「師光年中行事」《本云。文永元年(1264)九月廿九日。

            以大外記。中原師光朝臣本染老筆畢》

  四月廿八日   牽駒事。近代不行之。貞観年中(864〜876)に始之。

 一、「小野宮年中行事」

  八月 七日  牽二甲斐国勅旨御馬一事。

    十三日  牽二武蔵国秩父御馬一事。

    十五日  牽二信濃国勅旨御馬一事。

 天皇解文御覽ノ後ニ南殿ニ出御アリ。御馬ヲ牽キ庭中ヲ周ル三回、若シ日暮レバ或ハ一回シテ三度ニ及バズ。左右遞ニ之ヲ取ル、其数ハ馬ノ多少ニ随フ。八十匹ナレバ左右各十五匹、六十匹ナレバ十匹、五十匹ナレバ六匹、卅匹ナレバ五匹。親王以下ニ給ル。左右又進デ残馬ヲ取ル、或ハ相加エ先ズ御馬ヲ取テ鞍ヲ置テ前庭ニ於テ騎馳セシム、月華門下ヨリ日華門外ニ馳ラスコト延喜九年(909)ノ例也。今日若延期ヲ申シ他日牽進セバ、當日早旦使ヲ遣シ、親王等ヲ召ス、雨儀ニハ御馬ヲ庭中ニ周サズ、又騎ラシメズ  ヲ承門ノ東西南廊ニ立テ、牽者壇上御馬ノ南面ニ在リ。云々

 他の資料もあるがおおよそ似通っている。こうした文献は豊かにあるが、甲斐に残された資料はなく、その貢馬を都に届ける道程や日数など通行や使用道路等の資料は少なくかっての中央遺跡から発見を待つしかない。当時甲斐は東海道内の国として『延喜式』(927年)では国司などの使用する「諸国駅伝馬」の条には甲斐国駅馬として「水内−河口−加吉」を経て甲斐首府へ入るように定められていた。しかし甲斐では古来より「加吉」は「加古」の誤記であり、加古は加古坂に比定し、しかも中央から下る駅順を「水内−河口−加吉」でなく「加古−河口−水市」の間違いとして定説化が進んでいる。なぜ駅順が逆なのか、なぜ「加吉」が「加古」の間違いなのかはその根拠には言及されていない。「嘉吉」は歴史研究者の避ける『宮下文書』の地図には明確に記載されている。「河口」や「加古坂」の地名が『延喜式』が制定された時代に存在したのかは説明がなされていない。また研究者が避けていることがある。それは富士山の噴火と古道の関係である。噴火の最中やその周辺の年代に京都往還に富士山麓の道を大切な庸調を運び、自然界の異変に敏感な馬の通行に利用したのであろうか。多くの疑問がある古代古道は、曖昧なままに市町村誌などや歴史書に史実のように紹介されている。

 さて御牧で育てられた御馬はその生産地を示す焼印を押す事になっていた。次にその資料を示す。

 一、「烙印』《政事要略廿三》

   牧場烙印の数々………政事要略二十三云、

 八月十五日    牽信濃勅使御馬事。

   (○○此中有十五牧、左官字、諸牧六十、元八十)

   山鹿、塩原、岡屋、宮處、平井弖(出)、殖(埴)原、大室、猪鹿、大野、

   荻乃倉、笠原、高位。

 

   十七日 牽甲斐穂坂御馬事。  (左 栗字三十、令二十)

   二十日 武蔵小野御馬。      (右  字四十)(承平元年十一月七日為勅旨)

   廿三日 信濃国望月御馬事。  (延喜五年五月九日、官符左牧字二十、元三十)

   廿五日 武蔵勅旨牧竝立野牧御馬事。

                  (是日分取御馬先取由比石川、小川等牧御馬畢、更次取立野馬)

                   右官字五十、(後加、十)元十五。

   廿八日 上野勅旨御馬事。

                   殿上侍臣竝小舎人隔年給之小舎人不拝、左小舎

                   人牧ノ官字諸牧五十、(櫪三十、繁二十)

                   利刈、(有馬、治尾、拜志、久野、市代、

                   大藍、鹽山、新屋、封有、小栗田、平澤已上十四牧)

                    駒牽の動向については次の資料がある。

 一、「年中行事大観」《御本云、此本一条殿(1402〜81)兼家公御筆也。

 八月  駒牽。十六日に信濃の国勅旨の牧の御馬みやこへ入侍るを。あふさかの関へゆきむかひて。これを受け取りて。大内の大庭にして。上卿など列立して、おのおのこれを給り。あるひは院東宮などへまいらせるゝをば。近衛の中少将これをひかえてまいるを。引分の使いといふなり。定家卿の又□わ□もち月の駒とよみ侍るも。引分の使をつとめし時の詠也。

 又御馬逗留の解文を奏する事あり。それは御馬事のさはりありて。路に逗留して。その日は京へまいらぬよしを。解文にして申事也。この月七日には甲斐の勅旨の牧の御馬逗留のよしを申す。十三日には。武蔵秩父御馬廿疋逗留のよし申す。

 又十七日は。甲斐の穂坂の御馬逗留のよしを奏す。廿日にはむさしの小野の御馬逗留のよしを奏す。廿三日には。しなのゝもち月の御馬逗留のよし申す。廿五日には。むさしの立野の御馬逗留のよし申す。廿八日には。上野の勅旨の牧の御馬五十疋逗留のよし申す。ちかごろは十六日こまびき儀しき。かたのごとくおこなはれる。左右馬寮より一二疋たてまつるばかりにて。さらにその実なし。此牧々の名所は。駒引の題などはいずれをかよみ侍るべきなり。

 御馬の飼育についての資料。

  一、馬糧供給

   『延喜式』「主税式」

 凡国飼ノ馬秣(マグサ)ノ米ハ畿内外国共ニ十月ヨリ起リテ三月迄、匹別ニ四升、四月ヨリ起リテ九月迄二升。

 凡諸国ノ牧馬入京ノ路次ニ飼秣ハ、甲斐、武蔵ノ国、匹別ニ日ニ四把、信濃、上野等ノ国ハ一束竝ニ日ニ行クコト一駅、父馬ヲ遣ルモ亦タ此ニ准ズ。其長ク牽ク馬ハ此限ニアラズ。

 凡国飼牧馬不堪貢進者。申官賣却、混雑皮直。毎年出擧。用其息利。以充貢馬経国之 間。及牧馬秣料。但信濃国者。使用牧田地子。其皮直送左右馬寮。

 凡諸国ノ駅馬ノ飼秣ハ国司路ノ遠近嶮岨竝ニ使ノ往還閑繁ヲ量テ、十月以後三月以前ヲ例トナシテ飼養セヨ。其嶮路ニシテ使繁ケレバ匹別ニ十七束、使稀ナレバ十束、平路ニシテ使繁ケレバ八束、使稀ナレバ六束、但美濃国ノ坂本、信濃国ノ阿智両駅ハ竝ニ匹別ニ四十(〓)五束。

 如何に勅使牧といっても考えられない質量である。これについては後述する。飼料については次の資料もある。

   『延喜式』「左馬寮式」

 凡細馬十匹、中馬五十匹、下馬廿匹、牛五頭、毎年四月十一日始メテ青草ヲ飼フ。十月十一日以後ハ干草ヲ飼フ、(馬日ニ二束半、牛二束、束別重サ十斤二両)其飼丁ハ馬別一人衛士ヲ以テ充ツ。但青草ヲ刈ル丁竝飼牛丁ハ惣テ七十四人竝仕丁ニ充ツ。其秣ヲ飼フヤ、冬細馬ハ日米三升、大豆二升、中馬下馬各米一升、大豆一升、牛ハ八合トス。夏細馬日ニ米二升。中馬一升。下馬及牛ハ須ヰズ。

   『令集解』「厩牧令」

 凡厩、細馬一疋。中馬二疋。駑馬三疋。各給丁一人。穫丁毎馬一人。

 日給  細馬 栗一升。  稲三升。 豆二升。 鹽二勺。

    中馬 稲若豆二升。鹽一勺。

    駑馬 稲一升。   乾草各五圍。木葉二圍。

 皆起十一月上旬飼乾。四月上旬給青。其乳牛給豆二升。稲二把。取乳日給。

 これを説明する資料。(『日本馬政史』昭和三年発行)

……「皇邦度量衡沿革考」大宝令の一升は現行の京升の一合三勺八一三八不盡に當るとあれば、假に四捨五入して一升は一合四勺とするに左の如し。

      栗      稲    豆

 細 馬 一合四勺  四合二勺   二合八勺

 中 馬       二合八勺

 駑 馬       一合四勺

 乳 牛       一合四勺   二合八勺

……乳牛搾取時に与える稲二把とは、一把五合に当たるを以て一升なりと知るべし。

  (『日本馬政史』昭和三年発行) 御馬の損害補填については

   『延喜式』「交替式」

 

 凡牧馬牛致欠失。国司須其怠。不加徴物、但牧監准牧子徴之。

 凡信濃。上野。甲斐。武蔵等国牧格。令下牧監等検校上。若朽損之外。焼亡盗取者。

 拘以解由。盡令造満。

 凡徴課欠駒直。毎駒百束。

 在牧失官馬牛者竝給百日訪覓事。

 駒牽の上洛する貢馬一行は、

  『延喜式』「雑式」

 凡諸国貢御馬者。路次国馬別充牽夫一人。但長牽不在此例。其使牧監別當。

 並人別充二三人。馬三疋。馬醫書生等    毎二人充夫一人。人別馬一疋。

 

 山梨歴史講座 御牧と出土馬具の所在地との関連について

 

           甲斐の古墳及び副葬品(馬具・埴輪)

 

 1、春日居町の古墳(『春日居町誌』)

                                                  

  古墳名         鎮目字寺の前、大蔵経寺山南東斜面 

  所在地         狐塚古墳

  形状           円墳。

  大きさ         直径15m。高さ3m。

  石室           高さ2,2m。幅1,95m。長8,2m。

  副葬品       ◎ 馬具、轡(くつわ)二組。(年式…7世紀中頃)

                   鞍金具である ・木製壺鐙の鋏具。兵庫鎖。U字金具

                   (年式…6世紀以降)

                   須恵器−提甕・ ・有蓋高坏・短頭壺。

  年代           (年式…6世紀後半〜7世紀後半)

                   銅鉋− 直径23cm。高さ7,8cm推定)

                   (年式…6世紀後半〜7世紀後半)

                   鋤先− 鉄製・馬蹄形。

                   (憤丘−須恵器、甕・葉坏)

                   須恵器−提瓶・平瓶(6世紀〜7世紀)。

          

  古墳名         寺の前古墳  

  所在地         鎮目字寺の前、大蔵経寺東麓         

  形状           円墳。

  大きさ         直径10m。

  石室           横穴式石室。

  副葬品       ◎ 馬具  板状立聞素還鏡付轡(7世紀始め)

  年代         ◎       心葉形鏡板付轡(6世紀末以降)

                 ◎       鋏具立聞素還鏡付轡(7世紀前半)

                 ◎       杏葉・雲珠…(6世紀末以降)

                   土師器 (10世紀後半の坏。混入か、再利用)               

                   鏡   青銅製で三角縁の変形神人鏡。直径11,7cm

                   銅鉋  直径10,9cm。高さ4,7cm

                           (6世紀末〜7世紀後半)

                   

  古墳名         天神のこし古墳

  所在地         鎮目関東林吾妻屋山南東尾根       

  形状           円墳。

  大きさ         直径10m。

  石室           形袖形横穴式石室。長5,7m。奥壁幅1,3m。

                   中央部幅1m&5m

                   中央部幅1,65m。袖部付近幅1,6m。

  副葬品       ◎ 轡…鋏具立聞素環鏡板付轡(7世紀前半)

                   太刀…4。石突。刀自…5。轡。□。金環…5。土師器…12。                   須恵器片。鉄鏃。

                   土師器…坏(7世紀前半)

 

 2、八代町の古墳

        山梨県教育委員会作成『山梨県遺跡地名表』

  (昭和39年)&『八代町誌』》(時代のみ一部修正)

               

  古墳名               古柳塚                                                  時代                 後期

  所在地               永井1407

  立                 扇状地

  種別・構造概要       円墳。横穴式石室。

  発掘の有無           乱掘・全壊

  地目管理者           畑・永井/矢崎従道氏

  出土品         ◎ 馬具。轡2。

                         直刀7。鎧。勾玉。管玉。丸玉24。

                         耳輪2。須恵器片。坏破片3。扇壺(須恵器)

 

  古墳名               樹塚

  時代                 後期                                                    所在地               永井1764 1765                     

  立                 扇状地

  種別・構造概要       横穴式石室。

  発掘の有無           乱掘・全壊

  地目管理者           畑・永井・高野祐由氏

  出土品         ◎ 馬鈴1。

                         八稜鏡2。耳輪4。直刀片。甲冑片。管玉6。

                         勾玉2。須恵器土師器多数。丸玉(琥珀製1)

                         埴輪片多数。                    

 

  古墳名               無名                                           

  時代                 後期                                           

  所在地               岡227

  立                 扇状地中

  種別・構造概要       円墳。横穴式石室。奥行き7m。

  発掘の有無   

  地目管理者   

  出土品         ◎ 轡5。鍔1。刀尻具1。他

                          

  古墳名               蝙蝠塚

  時代                 後期                                                                            宅地・岡/渡辺尚典氏

  所在地               岡506                                       

  立                 扇状地中

  種別・構造概要       円墳。直径25m。高6m。横穴式石室。

  発掘の有無           乱掘・全壊

  地目管理者           宅地・岡/石倉武茂氏

  出土品         ◎ 馬具。

                         土師器。耳環2。直刀3。             

                         曲玉4、管玉5。人骨。

                         水晶製管玉1、石

                         鏃4。□状耳飾1。鰹節

                         形耳飾1。壺1。

                                                                         

  古墳名               無名                                           

  時代                 後期                                           

  所在地               岡511

  立                 扇状地中

  種別・構造概要       円墳。横穴式石室。

  発掘の有無           乱掘・全壊

  地目管理者           畑・岡/石倉武茂氏

  出土品         ◎ 馬骨多数。

                   ◎ 馬鈴。

                         直刀多数。玉類多数。人               

                         骨。

 

  古墳名               荘塚                                     

  時代                 六世紀前葉

  所在地               永井木塚                                                立         

  種別・構造概要

  発掘の有無   

  地目管理者   

  出土品               馬鈴                                     

 

  古墳名               御崎

  時代                                                           

  所在地       

  立         

  種別・構造概要

  発掘の有無   

  地目管理者   

  出土品         ◎ 馬具   

                          毛彫金具

                          鏡板

                          杏葉

                          辻金具

                          飾り金具

                          鉈尾金具

                          鞍金具

  

 3、中道町の古墳(『日本古代遺跡』「山梨県」)吉川弘文館刊

 

  かんかん塚                                   

  五世紀後半。           

  古墳時代の前期古墳。

  我国屈指の大型横穴式石室を有する円墳。

  副葬品の中に本県最古の馬具を出土。

                          轡

                          鎧

                          鉄製 具

 

  稲荷塚古墳             

  七世紀前半

  副葬品               馬具

                          轡

                          鐙

                          飾り金具

                          雲珠

 

  考古博物館内古墳                           

  六世紀前半と七世紀の所産。                 

  副葬品               馬具 

                          轡鉤具金具

                          鞍金具

                           具

                          環状形辻金具

                          半球形辻金具

                          飾金具

 

 

 

  米倉山古墳                           

  六世紀後半

  前方後円墳

  副葬品               馬具

                          素環鏡板付轡

 

  4、甲府市の古墳

 

  加牟那塚古墳       

  円墳

  副葬品               馬形埴輪                                                     

                         武人埴輪

 

  5、豊富村の古墳

 

  王塚古墳                                   

  帆立貝式前方後円墳

  古墳時代前期

  副葬品               馬形埴輪 

                         人物埴輪 

                         馬具鉄製楕円形鏡板付轡

                         他の馬具

 

  三星院古墳群(『星院所蔵記録』『東八代郡誌』)

  副葬品               馬具(鐙)

 

  6、山梨市の古墳

 

  沖田の無名墳                                   

  円墳

  副葬品               馬具

 

                          轡  板状立聞素環鏡板付轡 2

                                一点 六世紀後葉

                                一点 七世紀後葉

 

  7、御坂町の古墳(下黒駒)

 

  長田古墳群                           

  六世紀中葉〜七世紀中葉

  副葬品               馬具

                          轡・ 具【かこ】 

                          飾金具

 

  二之宮・姥塚遺跡 

  遺構 古墳時代157軒

         奈良時代24軒

         平安時代198軒など 

  副葬品               253号住居馬具

                          轡

 

  8、 一宮町の古墳(国分)

 

  国分古墳群   

  七世紀前葉 

  副葬品                馬具          

                           飾り金具

 

  四ツ塚古墳群          馬具 

                           金銅の毛彫金具

 

  9、 龍王町の古墳

  龍王2号墳             馬具−金銅の毛彫金具

 

  10、甲西町の古墳(塚原)

  上村古墳               馬具(不詳)

 

  11、双葉町の古墳(竜地)

  二ツ塚一号古墳                       

  六世紀末〜七世紀初頭

  副葬品                 馬具 

                                辻金具

                                鞍金具

                               

 

  二ツ塚二号古墳         馬具             

  副葬品                      轡 

 

  12、須玉町の古墳(若神子)

 

  須玉小学校古墳                        

  副葬品                 馬具(不詳)

 

  13、長坂町の古墳

 

  日野春三ツ墓古墳       馬具(不詳) 

 

  秋田村(夏秋)天王塚古墳 馬具(二組) 

 

  14、武川村の遺跡

  宮間田遺跡             「牧」などの墨書土器

 

 

        山梨歴史講座 古墳と御牧の位置ついて

 

  古墳と御牧の位置

 甲斐の御牧は現在の峡北地方に比定され既に定説化している。しかしであるそれは地名比定や過去からの推説の積み重ねの上に成り立っている。古墳副葬品の馬具の出土地の分布は、三牧の比定地と大きな差異がある。これは時代の違いによることも考えられるが、古墳出土馬具からは甲斐の古代に於て峡北三御牧以前に既に乗馬や飼馬の事実が証明される。馬具出土古墳は甲府盆地周辺を取り巻く一帯からであり、峡北三御牧の周辺からの出土は数少ない。それより古墳自体が峡北地方には極めて少ない。甲斐に御牧が設置されたのは天長四年(827)であるから、その間に峡北地方に牧が移っていったことも十分考えられるが。

 しかし甲斐の穂坂牧や真衣野牧と並びしかも甲斐の御牧からの貢馬が無くなってからも継続された信濃の望月の牧周辺の古墳から馬具が出土している。地域は佐久平西部地域、望月町、立科町、浅利村で古墳は六世紀後半からとされている。

 

   望月町     山の神一号墳、三号墳、四号墳、下高呂七号古墳、柳沢三号墳。

   立科町     正明寺古墳、

   浅利村     土合一号墳、久保畑古墳、上平古墳。

   小諸市     宮ノ前古墳、城山二号墳、西東山古墳、ウバ塚古墳。

   小諸市北部 諸二号墳、堰下古墳、立原一号墳、滝原字宮平古墳

                 加増四号墳、加増六号墳。

   佐久市北部 東一本柳古墳、北西ノ久保一号墳、からむし一号墳。                             

                                                                 (『佐久市史』)

 

 勅使牧(御牧)は天長四年に甲斐、信濃、武蔵、上野の四国に置かれた。設置される条件が満たされた国と地域であったことは疑う余地はなく、甲斐の三御牧についても同様である。御牧設置についての条件を充たしていたのであり、四ケ国の内、その貢馬数は群を抜いている。特に真衣野牧は駒牽行事の最初をかざる八月七日であり、貢馬回数は穂坂牧を凌ぐものがあり、(別表参照)真衣野牧と穂坂牧の規模の大きさと管理の充実は目を見張るものがあったと考えるのが妥当であり、それを窺わせる遺跡は発見されていない。否、既に永年の開発により消失している可能性が大きい。峡北に在ったとされる甲斐の御牧は再考する時期に来ている。安易な狭い考察から生まれる歴史誤認は多く、御牧に置いても地誌に美豆の御牧は「穂坂、真衣野、柏前の三つの牧のこと」する書が散見できるが、「美豆の御牧は山城の近都牧」である。

 

 1、鳥居原古墳(西八代郡三珠町)の中国江南の呉(ご)の年号である赤烏元年(238)の銘を持つ。

 

 古墳の形態……円墳。直系20  未満、高さ3 。

 鏡の銘

   赤烏元年五月廿五日丙午造作明鏡百凍清銅・服者君侯・宣子孫・寿万年

                           (九州大学岡崎啓教授判読)   解説…山本寿々雄氏(『日本の古代遺跡・山梨』)

 「赤烏」(せきう)と云う年号は江南に国を立て魏(ぎ)や蜀(しょく)と対立・抗争した呉の年号であり、その元年は西暦238年にあたる。この年は遼東半島を中心に勢力をふるった公孫氏の建てた燕(えん)が魏に滅ぼされ、魏が遼東を勢力下におさめただけでなく、燕の勢力下にあった楽浪・帯方の二郡を接収し、東アジアにしの勢力を大いに伸長した年である。こうした状況を察知した「耶馬台国」の卑弥呼は、翌年、大夫の難升米等を帯方郡に派遣し、その使節は魏の都洛陽にいたり、明帝に朝貢した。この年は魏の年号で景初三年にあたる。景初三年の紀年銘をもった鏡には、大阪府の黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡と島根県の神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡がある。

 鳥居原古墳出土の陶磁片…筆者は鳥居原古墳出土の陶磁片と出品物との対比を時間をかけておこなった。その結果江南の浙江省上虞窯出土品の胎土とよく似ていることに気がついた。(中略)鳥居原古墳の陶磁片は日本の古墳出土資料に類似物はなく、これこそ赤烏元年銘鏡ぽおなじ地域で作られたものと推定している。

 

 

 2、東八代郡中道町銚子塚古墳(五点)

 

  ○鏡の種類    長宜子孫内行花紋鏡   

   鏡の銘      長宜子孫・寿如金石

  ○鏡の種類    神人四意虎鏡     

   鏡の銘      陳氏作鏡□青同上有仙人不知  君宜高官保子宜孫長□

 

 参考−『耶馬台国論争』山口宗和氏著

    陳氏作鏡用青同上有仙人不知老君宜高官保子宜孫長寿      『中道町誌』                                      

    陳氏作鏡国青同上有仙人不知□君宜高官保子宜孫長国

 

 参考−島根県神原町の神原神社古墳の三角縁神獣鏡の銘

    景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人□之

    位三公母人之□之保子宜孫寿如金石兮

  ○鏡の種類    三角縁三神三獣鏡

  ○鏡の種類    三角縁神人車馬画像鏡

 参考−岡山県車塚古墳・群馬県三本木古墳・福岡県藤崎遺跡出土鏡と同笵関係にある)  

○鏡の種類     製半円方格帯環状乳神獣鏡

  ○鏡の分類    ダ龍鏡

 

 3、丸山古墳−東八代郡中道町(米倉山小平沢)

  ○鏡の種類    舶載、斜縁二神二獣鏡

  ○鏡の銘      吾作明鏡 幽凍三商  統徳序道 曽年益壽 宜孫子

 

 4、団栗塚−東八代郡八代町北、

   鏡の種類     製鏡(銅鏡、乳文鏡の範疇、直径11,5 )

   素縁から外区には菱雲文帯、三角入組文をもち、内外区の境界には半円方格帯を配する。内外には四乳を配し凸線によって四区分されている。     『山梨県史』

   天王日月銘?北八代村ヅングリ塚石室(『考古界』第一篇第五號に斎藤延正氏著)

 

 5、樹塚−東八代郡八代町永井

   鏡の種類    和鏡

 

 6、銚子塚−東八代郡八代町岡

   鏡の種類

 

 7、銚子塚(他に一面)−東八代郡八代町岡 

   鏡の種類

 

 8、加牟那塚古墳−甲府市千塚三丁目

   鏡の種類    神獣鏡

   鏡の種類    盤龍鏡

   鏡の種類    ダ龍鏡

 

 9、横根・桜井積石塚古墳−(桜井支群B号墳)甲府市横根町・桜井町

   鏡の種類    珠文鏡(直径7,5  ・文様は素文縁、外向鋸歯文帯、素文帯、              

   二重円圏、一重円圏を経て紐に至る)

 

10、亀甲塚古墳−東八代郡御坂町成田字亀甲塚

   鏡の種類    盤龍鏡(両頭式、舶載漢式鏡、朱の付着がある)

 

11、法華塚古墳−南巨摩郡増穂町春米字北林(2面)

   鏡の種類    掘削当時に市川代官所に届け出する。

   鏡の種類    変形獣帯鏡(直径9,9 。厚さ0,1 〜0,3 。朱が付着)

 

12、五里塚遺跡−東八代郡八代町南字五里原

   鏡の種類    八稜鏡(破片)

 

13、右左口村発見のと称する五鈴鏡並に鉄冑について。

   中道町古墳分布調査−仁科義男氏(昭和10年)

 

   表題の遺物は既に本報告執筆意義に於て著者の触目したる事実なるに依り、項外ではあるが茲に追記する所以である。

   直径−12 。厚さ−0,5 。鈴直径約2,7 。矩径約2  。

   内区−丸座の上に饅頭形素紐、相互に向ける二頭の竜と二神像とを支配。

   外区−一段高く鋸歯紋帯。複線よりなる並行波状紋帯。神獣鏡。

 

14、明治四十年三月三十日付け「埋蔵物発見ノ件別項之通及報告候也」

   (前文略)古鏡一面丸形にして直径六寸ばかり、一見青銅の如き金質なるも判明せず。裏面に唐模様人物畫及文字十二個あり。発見の際、誤て地上に取落したる為に

   既に十二片に破壊したりしもの一個。

 

15、『甲斐国志』巻之四十 古蹟部第三  八代郡大石和筋

   【都塚・京塚】北都塚村の項

   (前略)宝暦十二年の秋、里人某一塚を撥き石筐より八角の鏡など異様の物を得たり。云々

 

16、『甲斐国志』巻之四十一 古蹟部第四 八代郡小石和筋

   【御前山累蹟】岡村の項

   (前略)宝暦十三年三月、盗有、夜銚子塚を撥く翌日視るに(中略)古鏡三枚。

 

17、『甲斐国志』巻之四十二 古蹟部第五 八代郡中郡筋

   【曽根郷】上曽根・下曽根・寺尾

   (前略)曽根村に鎧塚あり。(中略)寛文中悪少年ありて其塚を発きしに鏡一面。

 

18、『甲斐国志』巻之五十 古蹟部第十三 八代郡西郡筋

   【刑部三郎義清墓】

   (前略)農夫一坏を発き所レ獲、円鏡二(径五寸五分)

 

19、『甲斐国志』巻之五十六 神社部第二 山梨郡萬力筋

   【酒折宮】

   (前略)神宝火打嚢、秘物のよし。唐鏡三面・前立鏡一面

 

20、大丸山古墳 東八代郡右左口村大字向山小字東山

   『史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五輯』昭和六年刊

   三面

   鏡の種類    白銅鏡−直径17 。約0,2 の反り。

          鋸背の構図は三角縁の内形に並行する二條の波紋線を円らしたる鋸歯紋帯、一段低い斜面には放線半円帯、櫛歯紋帯、銘・日月と相互に鳥獣とを配す内縁、鱗片状凸帯あって内区と区別。内区に六個の乳ありて六等分、三神三獣が相対する。   

   鏡の種類   …一面、半円方格獣帯鏡。一面、 製鏡。21、

 

    『史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五輯』昭和十年刊 

 

21、大塚村・豊富村

   丸山古墳−鏡

   大丸山古墳−鏡    

   城原古墳群第四号墳−鏡(  製鏡)

 

   第四群(田美堂及び鳥居原古墳群)第三号墳  鏡(漢鏡)二面西八代郡高田村浅間

      神社奉納

   狐塚 一面…四神四獣鏡(赤烏元年在銘)直径12,5 。

      一面…内行花文鏡直径10,5 。

   赤烏元年五月二十五日云々の銘がある。

 

22、第六群道林古墳群  第五号墳(オエン塚) 鏡

 

 (この項続編あり)

山梨歴史講座 国司等に発せられた令

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏−現代語訳

 

  1、文武天皇

 

文武天皇 二年( 698)三月  十日 《郡司の選考》

 諸国の国司は、郡司の選考に偏頗があってはいけない。郡司もその職にあるときは、必ず法の定め従え。これより以後のことは違背してはならぬ。

文武天皇 二年( 698)七月  七日  《奴婢の逃亡》

 官有や私有の奴婢で、民間に逃げかくれたりする者があるのを、届け出ない者があるので、ここに初めて笞(ち・ムチ)の法を定め、奴婢の逃亡中の仕事を弁償させた。その事柄は別式にある。また博奕や賭け事をして、遊び暮らしている者を取り締まった。また祖の場所を提供した者も同罪とした。

文武天皇 三年( 699)二月二十二日

 天皇は難波宮から藤原宮に還られた。

文武天皇 三年( 699)五月二十四日

 役の行者小角を伊豆嶋に配流した。

文武天皇 三年( 699)十月二十七日

 巡察使を諸国に派遣して、秘法がないか検察させた。

文武天皇 四年( 700)十月二十七日 《牛馬を放牧》

 諸国に命じて牧場の地を定め、牛馬を放牧させた。

大宝 元年( 701)六月       八日  《官庁の諸務》

 すべての官庁の諸務は、専ら新令(大宝令)に準拠して行なうようにせよ。また国司や郡司が大税(田祖)を貯えておくことについては、必ず法規のとおりにせよ。若し過失や怠慢があれば、事情に従って処罰せよ。この日使者を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に派遣して、今後、新令に基づいて政治を行なうことと、また大租が給付される状況を説明し、合わせて新しい国印の見本を頒布した。

大宝 二年( 702)二月       一日

 初めて大宝律を天下に頒布した。

大宝 二年( 702)二月      十九日

 諸国の大租・駅起稲・義倉と兵器の数量を記入した文書を、初めて弁官に送らせた。

大宝 二年( 702)二月二十一日

 甲斐国が梓弓を五百張献上したので、それを太宰府の用に充てた。

大宝 二年( 702)二月二十八日

 諸国の国司らが初めて正倉の鎰(かぎ)を授けられて任地に戻った。

大宝 二年( 702)四月      十三日

 諸国の国造にとめる氏族を指定した。その氏族の名前は『国造記』に詳しく載せてある。

大宝 三年( 703)正月       二日  《国司不正の監視》

 諸国の巡視を命じる。東海道は藤原朝臣房前を派遣し、国司の治績を巡視して、冤罪を申告させ、不正を正させた。

大宝 三年( 703)七月      十三日

 四大寺に金光明経を読誦させた。

慶雲 元年( 704)四月       九日  《諸国の国印》

 鍛冶司に命じて諸国の国印を鋳造させた。

慶雲 三年( 706)二月二十六日

 甲斐・信濃・越中・但馬・土佐などの国の十九神社をはじめて祈年祭に弊帛(みてぐら)を捧げる枠に入れた。

慶雲 三年( 706)三月      十四日  《土地利用の適正化》

 高位高官の者たちは、自ら耕作しないかわりに、然るべき棒禄を受けており、棒禄のある人々は、人民の農事を妨げることがあってはならぬ。それ故、昔、召伯は農民の訴えを聞くのに、その仕事の妨げになってはいけないと、甘棠(かんとう・アマナシ)の木の下に憩い、公休は同じ理由で、自分の園の野菜を抜き捨てて、民の野菜を買い求めるようにした。この頃、王や公卿・臣下たちが、多く山林を占有して、自分は農耕や播種することなく、きそって貪ることを考え、徒らに土地利用の便宜を妨げている。もし農民で、それらの地の柴や草をとる者があると、その道具をとり上げて大いに苦しめている。それだけでなく、土地を与えられた土地はわずか一、二畝であるのに、これをよりどころに峰を越え谷をまたいで、みだりに境界を拡げている。今後このようなことがあってはならぬ。ただそれぞれの氏の先祖の墓と、人民の家の周囲に樹木を植えて林にした場合、周囲が合わせて二、三十歩ほどであらならば禁止の範囲外とする。

慶雲 三年( 706)三月二十六日      《焼印》

 鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え、官営の牧場の駒と牛に押印させた。

  2、元明天皇

和銅 二年( 709)三月       五日  《蝦夷》

 陸奥・越後二国の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に害を加える。そこで使者を遣わして、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士を徴発し、(略)

和銅 二年( 709)五月      二十日  《稲、不作》

 河内・摂津・山背・伊豆・甲斐の五国が、降り続く長雨で稲が損なわれた。

和銅 二年( 709)六月      二十日

   諸国に命じて駅起稲帳を提出させた。

和銅 二年( 709)九月二十六日       《征夷の役》

   遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の諸国の兵士、征夷の役に五十日以上服した者には、租税負担を一年間免除した。

和銅 四年( 711)三月       十日  《遷都》

   初めて平城京(ならのみやこ)に遷都した。

和銅 四年( 711)七月       一日  《勤務成績の評定等級》

 律令を整え設けてから年月がすでに久しい。しかし僅かに全体の一・二が行なわれるのみで、全部を施行することができない。これは諸司が怠慢で、職務に忠実でないからである。単に名前を官職の員数に充てはめるだけで、空しく政務をすたれさせてる。もし律令に違反して孝第(勤務成績の評定等級)を正しく扱わない者があったら、相当する罪のうち重い方を適用し、許すことがあってはならぬ。

和銅 五年( 712)正月      十六日  《諸国の役民、帰路で死》

 諸国の役民が郷里に還る日に、食糧が欠乏し、多く帰路で飢えて、溝や谷に転落し、埋もれ死んでいるといったことが少なくない。国司らはよく気をつけて慈しみ養い、程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して、本人の戸籍のある国に報告せよ。

和銅 五年( 712)五月      十六日

 初めて国司が国内順行や交代の時に、食糧・馬・脚夫を給わる法を定めた。

和銅 五年( 712)十月二十九日      《諸国労役の人夫食糧の欠乏》

 諸国の労役の人夫と運脚(調・庸の物を運ぶ)が、郷里へ帰る日、食糧が欠乏して調達することが難しい。そこで郡稲から稲を支出して便利な所に用意しておき、役夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭を持って費用とし、重い所持品のため苦労することのないように、そして銭を使用することの、便利なことを知らせよ。 

和銅 六年( 713)三月      十九日   《物税運輸する人民の苦しみ》

 略)諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、物税を運輸する人民は、永い行役に苦しんでいる。食糧は充分に整えようとすれば、貢納の数量が欠けることになり、重い荷を減らそうとすると、道中での飢えが少くないことを恐れる。そこで各自一袋の銭を持ち、道中で炉のある場所で、食事をする時の用に充てれば、労役の費(ついえ)をを省き、往き来の便が増すだろう。国司や郡司たる者は、富豪の者から募って米を路傍に用意し、その売買を行なわせよ。そして一年間の百斛(ひゃっこく)以上の米を売った者は、その名前を奉上させよ。(略) 

和銅 六年( 713)四月      十七日  《諸寺の田記》

 諸寺の田記に誤りがあるので、あらためて規定を改正し、一通は所司に保管し一通は諸国の国衙に頒ち置くことにした。 

和銅 六年( 713)五月       二日  《郡・郷の名称》

 畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。郡内に産出する金・銅・彩色・植物・鳥獣・魚・虫などのものは詳しくその種類を記し、土地が肥えているか、山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や、異った事柄は、史籍に記録して報告せよ。 

和銅 六年( 713)七月       七日    

 美濃・信濃の境界、吉蘇路(木曾路)が開通。

和銅 七年( 714)四月二十六日       《職務怠慢》

 諸国の租稲を納める倉の大小や、内に積み貯えた数量は、帳簿に照合すれば食い違いはない。そのために国司が交代する日には、帳簿によって引き継ぎし、それ以上に調べ直すことをしない。しかし実際は欠け少なくなっていることが多く、徒らに形だけの帳簿をつくり、はじめから実数は無い有様である。これはまことに国郡司らが、現物にあたって調べていないことによっておこったことである。今後諸国に倉を造るときは、およそ三等の規格を設け、大には四千斛・中には三千斛・小には二千斛収納するようにせよ。こうして一定量を定めた後は、帳簿に偽りがないようにせよ。

霊亀 元年( 715)五月       一日  《課役忌避など》

 天下の人民の多くは、その本籍地をはなれ他郷に流浪して、課役をたくみに忌避している。そのように流浪して逗流が三カ月以上になる者は、土断(現地で戸籍に登録)し、調・庸を輸納させることは、その国の法にしたがせよ。また人民をいつくしみ導き、農耕や養蚕を勧め働かせ、養い育てる心を持ち、飢えや寒さから救うのは、まことに国司・郡司の善政である。一方自分は公職にありながら、心は私服を肥やすことを思い、農業を妨げ利を奪い、万民をみしばむようなことがあるならば、実に国家の大きな害虫のようなものである。そこで国司・郡司で、人民の生業を督励し、人々の資産を豊かに足りるようにした者を上等とし、督励を加えるけれども、衣食が足るに至らない者を中等とし、田畑が荒廃し、人民が飢え凍えて、死亡するに至る者を下等とせよ。そして十人以上も死亡するようであれば、その国郡司は解任せよ。また四民(士・農・工・商)にはそれぞれ生業がある。いまその人々が職を失って流散するのは、これまた国郡司の教え導くのに、適当な方法をとらないかで甚だ不当である。このような者があったら必ず厳重に処罰して見せしめとせよ。これからは巡察使を、派遣し、天下を手分けして廻らせ、人民の生活ぶりを観察させる。あつい仁徳の政治を行なうように勤め、詩経のことばにある周行の実現を庶(こいねが)うようにせよ。婚儀は諸国の人民が、国を越えて往来する際の過所(通行証明)に、その国の国印を使用せよ。

   3、聖武天皇

天平 十五年( 743)正月 十三日

 金光明最勝王経を読誦させるために、多くの僧を金光明寺(大和の国分寺。後の東大寺)に招いた。(略)仏弟子の朕は宿縁によって、天命をうつぎ皇位についている。そこで仏法をこの世にのべ広め、もろもろの民を導き治めたいと願っている。云々

天平十九年       ( 747)十一月

 朕は去る天平十三年(741)二月十四日に、真心から発願して、国家の基礎を永く固め、聖なる仏の教えを常に修めさせようと思い、広く天下の諸国に詔して、国毎に金光明寺(金光明四天王護国之寺の略)と法華寺(法華滅罪之寺の略)を造立させようとした。その金光明寺にはそれぞれ七重の塔一基を造立し、あわせて金字の金光明経一部を写して、塔の中に安置させることにした。ところが諸国の国司は怠りなまけてそのことを行なわず、或いは場所が便利でなかったり、或いは未だに基礎も置いていない。思うに、天地の災異が一、二あらわれているのは、このためかと思う。(略)そこで従四位下の石川朝臣年足・従五位下の阿倍朝臣小嶋・布施朝臣宅主らを各道に分けて派遣し、寺地の適否を検べて定め、あわせて造作の状況を視察させよう。国司は使いおよび国師(その国内の、寺院、僧尼を監督する僧官)と共に、勝れた土地をえらび定め、努力して造営と修繕を加えよ。また郡司のなかで活発に諸事をなしとげることの出来る者を撰んで、専ら造寺のことを担当させよ。これから三年を限度として、塔・金堂・僧坊を全て造り終わらせよ。もしよく勅を守ることができ、その通り修造することができたら、その子孫は絶えることなく郡領の官職に任じよう。その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数を除いて、さらに田地を加え、僧寺には九十町、尼寺には四十町、所司に命じて開墾させ施入するであろう。広くこれを国・郡に告げて朕の意を知らしめよ。

4、 孝謙天皇

天平勝宝 六年( 754)      九月 十五日 《出挙稲の利潤》

 諸国の国司らは、田租や出挙稲の利潤を貪り求めるので、租の輸納は正しく行なわれず、出挙した利稲の取り立てに偽りが多い。このため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変空しくなっていると聞く。そこで京および諸国の田租を、得不を論ぜず(不三得七の法にかかわらず)すべて正倉に輸納させることとし、正税出挙の利稲は、十の中三を取ることを許す。ただし田の作物が熟さず、調・庸を免除する限度になった場合は(欠損八分以上の場合)令に准拠して処分せよ。また去る天平八年の格(きゃく)を見ると、国司が国内において交易し、無制限に物を運ぶことは既に禁止されている。ところがなお敢えてこの格に従わず、利を貪って心をけがすことが珍しくなくなっている。朕の手足となるべき者が、どうしてこのようであってよかろうか。今後、更に違反する者があれば、法に従って処罰し、哀れみをかけて許してはならない。   

賭博行為の禁止 

天平勝宝 六年( 754)      十月 十四日 《双六の禁止》

 この頃、官人や人民が憲法(国法)を恐れず、ひそかに仲間を集め、意のままに双六(すごろく)を行ない、悪の道に迷い込み、子は父に従わなくなっている。これではついに家業を失い、また孝道に欠けるであろう。このため広く京および畿内と七道の諸国に命じて、固く双六を禁断せよ。云々

天平勝宝 六年( 754)      十月 十八日 《射芸教習》

 畿内と七道諸国に命令して射田(射芸教習のための用地)を設けさせた。

天平勝宝 八年( 756)      六月    十日 《国分寺》

 この頃、技術者を各地に遣わして、諸国の国分寺の造仏を促し調べさせた。来年の聖武帝の一周忌には、必ず仕上げるようにせよ。その仏殿も一緒に造り上げるようにせよ。もし仏像および仏殿を、既に造り終えたならば、また塔を造り忌日に間に合わせよ。仏法は慈しみを第一とする。このために人民を苦しめてはならぬ。国志や派遣の技術者が、もし朕の意にかなうよう、よく仕上げた者があれば、特に褒賞を与える。

天平勝宝 八年( 756)      六月二十二日 《国忌の斎会》

 明年の国忌のご斎会は、正に東大寺で行なうことになる。その大仏殿の歩廓は六道諸国に命じ造営させ、必ず忌日に間に合わせよ。怠りゆるがせにすることがあったはならぬ。

天平勝宝 八年( 756)十一月        七日 《官物の搾取》

 聞くところによると、この頃、を出納する諸司の官人たちは、官物が納入される時、上前をはねようと、巧みに留めおいて、十日経ってもあえて官物を収納しようとしないという。このために運送の人夫たちは、その足止めに苦しみ、競って逃げ帰ると聞く。これはただ政治を損なうだけでなく、実に人民の教化を妨げるものである。正に弾正台に命じて巡検させねばならぬ。今後、二度とこのようなことがあってはならない。

天平宝字 元年( 757)      正月    五日 《郡領 軍毅》

 この頃、郡領(郡の大領・少領)・軍毅(軍団の大毅・少毅)に、無位の庶民を採用している。このため、人民は家に居ながら、官職につくことを当然とし、君に仕え働いて俸禄を得ることを知らない。これでは親に孝をつくすのと同じように、君主に忠を尽くすという気持ちは次第に衰え、人を教え導くことがむづかしい。今後、所司はよろしく有位の人以外は郡領。軍毅の選考の候補に入れてはならぬ。その軍毅には兵部省が六衛府に仕える者の中から、わきまえが勝れ人柄大きく、勇ましく健全な者を選んで候補として任用し、その他の者にみだりに任用を求めさせてはならぬ。それ以外の諸事については、格や令の規定によれ。

天平宝字 元年( 757)      五月    八日 《駅舎の利用制限》

 この頃、駅路を上り下りする諸使にすべて駅舎を利用させているのは、理にかなってはいない。これでは駅の人夫に苦労をかけることになる。今後は令の規定に従うようにせよ。

天平宝字 元年( 757)      六月    九日 《反仲麻呂派の不穏な動きへの牽制》 

 天皇は次のように五条を制定し申しわたした。

 その一 諸氏族の氏の上らは、公用をすておいて勝手に自分の氏族の人たちを集めている。今後、このようなことがあってはならない。

 その二 王族や臣下の所有する馬の数は、格により制限がある。この制限以上に馬を飼ってはならない。

 その三 令の定めによれば、所持する武器については限度のきまりがある。この規定以上に武器を蓄えてはならぬ。

 その四 武官を除いては、宮中で武器を持ってはならない。

 その五 宮中を二十騎以上の集団で行動してはならない。

天平宝字 元年( 757)      十月    六日 《諸国人夫の悲惨な状況》

 聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつないでいる、と。どちらの場合も旅の道中に苦しみ、ついに横死してしまう、と。朕はこのことを思いやって、哀れみに心を禁じえない。そこで、京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を量り与え、よく調べて無事に郷里に着けるようにせよ。もし官人が怠けて、この命令を実行しない者があったら、約の罪を科することにする。

天平宝字 二年( 758)      十月二十五日 《国司の任期の短縮》

 (略)国司の任期を四年から六年にする。三年を経過する毎に巡察使を派遣し、治績を調査し、人民の苦しみを慰問させよ。二回の巡察の結果を見て、実情に随って官位の昇降をきめよ。願わくば国司の貪欲な気風を一掃して、ことごとく清新な気   風に改め、人民の負担を緩和し、しかも倉庫は充満している状態を希望する。 

天平宝字 三年( 759)      五月 十七日    《人夫の救済》

 (略)この頃、冬の季節になると、市のあたりに餓えている者が多いと聞く。そのわけを問い質すと、皆諸国から調を運んできた人夫で、郷里に還ることができなくて、ある者は病のために悩み苦しみ、ある者は食糧がなくて飢えと寒さに苦しんでいるという。朕はひそかに彼らのことを思い、深く心に哀れんでいる。そこで国の大小によって、公廨稲から一定量を採り出して、常平倉を設け、米の時価の高低によって、売り買いを行ない利益を収め、還ろうとする人夫の飢えと苦しみをあまねく救うようにせよ。(略)

天平宝字 三年( 759)十一月        九日 《国分寺と国分尼寺の図面》

 (略)国分寺と国分尼寺の図面を天下の諸国に頒(わか)ち下した。

天平宝字 五年( 761)      六月    七日 《国分尼寺》

 光明皇太后の一周忌の斎家を阿弥陀浄土院で設けた。その院は法華寺の西南隅にあり、皇太后の一周忌の斎家を行なうために造営したものである。一方天下の諸国に命じて、それぞれの国分尼寺で、阿弥陀仏の丈六の像一體、脇侍の菩薩像二體を造らせた。