
ボードレール作 “Le Voyage”
佐藤朔訳
旅
1
地図と版画の好きな少年には、
宇宙は さかんな食欲に等しい。
ああ 洋燈の灯火の下で見る世界の なんと広いことか!
思い出の目に映る世界は なんと小さいことか!
ある朝、頭を燃やし、心を恨みと
にがい望みでみたして、ぼくらは出発する。
波の律動にしたがい、かぎりない思いを
かぎりある海の上で ゆすりながら行く。
ある者は あさましい祖国から逃れることを喜び、
ある者は 生まれた土地の恐ろしさから、
またある者は 女の目に溺れた占星師、
危険な薫の横暴なキルケから逃れることを喜ぶ。
獣に変えられないようにと 彼らは
空間や 光や 真赤に燃える空に酔う。
膚を噛む氷と銅色に焼きつける太陽は、
くちづけの痕を ゆるゆると消してゆく。
しかし 真の旅人はとはただ 出発するために 出発する。
気球にも似て、軽やかな心をもち、
けっして宿命から逃れられなくても、
なぜか知らずに、いつも 「行こう!」 と叫ぶ。
彼らの望みは 雲の形をして、
新兵が大砲を夢みるように 夢みる、
人間の精神が 名前さえも知らなかった
変わりやすく、また未知の、漠たる逸楽を!
2
恐ろしい! ぼくらは独楽の 円舞曲、
跳ねまわる毬の まねをしている。
眠りのなかでも、好奇心は、ぼくらを苦しめ、転がす、
太陽を鞭うつ 残忍な天使のように。
異様な運命よ、その目的は移り変わり、
どこにもないのだから、どこでもいい!
人間は けっして倦むことのない希望をいだき、
休息を捜そうとして 狂人のように いつも走る!
ぼくらの魂は 理想郷を求める3本のマストの船。
甲板に鳴りひびく声、「よく見張れ!」 と。
檣楼では、激しく 狂おしい声が 叫ぶ、
「愛よ・・・・・・栄光よ・・・・・・幸福よ!」 恐ろしい! それは暗礁だ!
見張りの男の知らせる船は どれも
運命の約束した 黄金郷、
想像力は 酒盛りの支度までするが
夜明けの光のもとに発見するのは 暗礁にすぎない。
おお まぼろしの国に憬れる哀れな男よ!
この酔いどれ水夫、新大陸の発見者を、
鉄の鎖で縛って、海に投げ込むべきか!
その蜃気楼のために 深淵は さらににがくなる。
泥のなかで足踏みをし、空を見上げながら
光り輝く楽園を 夢みる年老いた浮浪人もまた同じ。
魔法にかかった目は 蝋燭のともるあばら家の
いたるところに 極楽境を見いだしている。
3
驚くべき旅人よ! 海のように深い君らの目に、
ぼくらは どんなに貴重な物語を 読むことか!
君らの豊かな記憶の 宝石箱を開いて、
星と霊気からできた 不思議な宝石を見せてくれ。
ぼくらは 蒸気もなく帆もなしに 旅立ちたい!
ぼくらの牢獄の倦怠を 陽気にするために、
カンバスのように張った ぼくらの精神の上に、
水平線を額縁にした 君らの思い出を 横切らせよう。
話してくれ、君らは何を見たのか。
4
「ぼくらは見た、星を、
波を、また 砂浜を見た。
いくたびもの衝突や 予期しない災難に出会ったが、
ここと同じで、いくたびも退屈した。
紫色の海に昇る 朝日の栄光、
落日のなかの 都市の栄光は、
心をそそる反映の空に身を沈めたいものと
ぼくらの心に 落ちつかない欲望の火を点けた。
どんな豪華な都市、どんな壮大な風景も、
浮雲が ふと作りだす神秘な魅力を
持っていることは けっしてないから、
欲望は いつもぼくらを悩ました!
――享楽は 欲望を一層はげしくする。
欲望よ、快楽を養分とする老樹よ、
おまえの樹皮が 厚くなり硬くなるのにつれて、
枝は 太陽をもっと近くに見ようとする!
永久に成長するのか糸杉よりも 根づよい大樹よ、
――しかし ぼくらは、君らの欲の深いアルバムのために、
スケッチを何枚か、注意深く集めてきた、
遠方からくるものは なんでも美しいと思う兄弟よ!
ぼくらは 象の鼻をした偶像を 礼拝した、
きらめく宝石をちりばめた王座を 見た、
人工の妙をつくした宮殿の夢幻の壮大さは
君ら銀行家にとっては 破産の夢となるだろう。
ぼくらは見た、目をうっとりさせる衣装、歯と爪とを 着色した女たち、
蛇を巻きつけた 巧妙な奇術師を」
5
次に 何を見たのか、その次に。
6
「おお 童心を持つ人々よ!
重要なことを 忘れないうちに 言うが、
ぼくらは見た、いたるところに、図らずも、
宿命の梯子の 上から下まで
永劫に消えない罪の退屈な眺めを。
女は高慢で、愚かで、卑しい奴隷、
笑いもせずに 自分を崇め、嫌悪もなく自分を愛し、
男は、欲が深く、みだらで、無情で、強欲な暴君、
奴隷の奴隷であり、下水道に流れ込む溝である。
楽しんでいる首斬り人、すすり泣いている殉教者、
血が 風味と香りをつけた 饗宴、
圧制者の力を弱める 権勢の毒、
おのれをばかにする鞭好きな 民衆。
ぼくらの宗教に似た 幾多の宗教は、
どれも天国をめざして のぼってゆく、
波根布団のなかで寝そべる優男のように、
難行苦行に 快楽を求める 聖なる者。
おしゃべりな人類は、おのが才能に酔い、
昔も今も気が狂っていて、
激しい苦悶のうちに 神に向って叫ぶ、
<おお、わが仲間、わが主よ、おまえを呪うぞ!> と。
それほどばかでない者は 大胆にも狂気を愛し、
宿命に閉じ込められた大群衆を 避けて、
阿片の無限のなかに 逃げ込む!
――これが 全地球の 永遠の報告書だ。」
7
旅から得る知識は 苦い!
単調で、小さい世界は、今日も、
昨日も、明日も、いつもぼくらに見せる、
ぼくらの姿を、
倦怠の砂漠のなかに 恐怖のオアシスを!
出発すべきか。留まるべきか。留まれるのならば 留まれ、
止むを得なければ出発しろ。走るものがあり、うずくまる者がある、
見張っている 不吉な敵、時の目を くらますために!
あわれ 休みなく 走りつづける者もいる、
「さまようユダヤ人」のように、使徒のように。
網で搦める忌わしい闘士、時から逃れるためには。
何も役立たない、車も、船も。その他
生まれ故郷を離れずに時を殺せる者もいる。
ついに時がぼくらの背骨を踏みつけるとき、
ぼくらは 希望を持って叫ぶ 「前進!」 と。
シナに出発した昔と同じように、
沖にじっと目を注ぎ 風に髪をなびかせて、
ぼくらの暗黒の海へと 船出しよう、
若い旅人らしく 心たのしく。
あの甘い、陰鬱な歌声が聞こえるか、
「こなたに来たれ!かぐわしい霊果を
食べたい人々よ! 君たちの心が
飢えている 神秘な木の実を 摘みとるのは ここ。
終わることのない この午後の
ふしぎな甘さに 酔いしれに 来たれ!」
聞きなれた音声で、亡霊が誰であるか解る、
親友のピラドたちは かなたから、ぼくらに手を差しのべる。
「心を若返らせるために泳いでおいで!」
それは昔ぼくらがその膝に接吻した女の声。
8
おお 死よ、老船長よ、時が来た! 錨をあげよう。
この国には飽きた。おお 死よ!船出しよう!
空と海とが インキのように 黒くても、
おまえの知っているぼくらの心は 光にあふれている!
ぼくらを元気づけるために おまえの毒をそそげ!
その炎に ぼくらの脳髄まで焼かれ、
ぼくらは 地獄でも天国でも 平気だ、
深淵の底に飛び込みたい、
未知の奥深く 「新しいもの」 を捜すために!
1859年4月
芥川龍之介『或阿呆の一生』より
―時代―
それはある本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパッサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イプセン、ショウ、トルストイ、 ・・・・・・
そのうち日は暮れ迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでいるのは本というよりも世紀末それ自身だった。ニイチェ、ビェルレン、ゴングール兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、・・・・・・
彼は薄明かりと戦いながら、彼らの名前を数えて行った。が、本はおのずからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、ちょうど彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いている店員や客を見下ろした。彼らは妙に小さかった。のみならずいかにも見すぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
彼はしばらく梯子の上からこういう彼らを見渡していた。 ・・・・・・
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