エレベーターから降りてこられた高木さんを一目見たとたん、「うわ、かっこいい」と思った。

肩まで届く髪をきゅっと束ね、きりりと伸びた背筋に、銀縁眼鏡が光る。70を過ぎていると聞いていたが、とてもそんな風には見えない。「孤高のキャリアウーマン」という感じの女性だ。

 簡単な挨拶の後、アパートの隣にあるカフェテリアに移動。
「アップルパイとコーヒーを」
「あ、同じものお願いします」
 隣の席では、知的ハンディのある方たちが、楽し気にティータイムを過ごしている。

 「それで」と、高木さんが口を開いた。「ニューヨークで絵画展をなさりたいの?」
「ええ。そのつもりで下見に来ました。でも難しいようです」。
ワールド・トレードセンター跡やセントラルパークに行ったこと、ニューヨークの殺伐とした空気のことなどを話すと、彼女は一言「アメリカ人はタフなのよ」。
何でもはっきり評価するから、日本人的なセンチメンタルなものは伝わらない。ギャラリーは高いし、セントラルパークでも絵画展なんてやっている人はいない、と、きっぱり。
 「はあ。そうですね・・」

日本から高木さんに電話をかけた時も、やりなさい、とは言われなかった。その時は解らなかったけれど、ニューヨークの地に足を踏み入れた今は、その理由が痛いほど現実味を伴って理解できるような気がした。
 午後の日射しが射しこんで、床に濃い影を落とす。

「テロの直後はね、街中が深閑としていて、まるで原爆が落ちた後みたいだった。2日間は鉄の焼ける匂いがたちこめてた。マンハッタンに行って、コーヒーハウスから見ると大勢人がいるから、何かと思ったら、献血。人間は、非常事態になると協力するのね」
「原爆のあともそうだったんですか・・?」
 ええ、と頷いて、高木さんは語り始めた。

 昭和20年。高木さんは、オランダ坂を登りきった所にある、名門、活水女学院家)英文科の1年生だった。
日本の敗戦色が濃くなった8月、3、4年生はそれぞれ、長崎市役所と、爆心地に近い場所にあった三菱の兵器工場に学徒動員に出されていた。
 高木さんご自身がどこで被爆され、被爆後の数日をどう過ごされたのかは、彼女の話からすっぽりと抜け落ちていた。ただ、高木さんの友人の女性は、体の左半身が焼けただれ、今も深い傷跡を抱えたまま決して原爆が落ちた時のことを語ろうとはしないという。

「"お祭りさわぎ"をする被爆者もいるけれど、そんなものじゃない。それほどの体験だった」。
 被爆直後、三菱兵器工場に出ていて帰ってこない娘たちを案じて、大勢の父兄が活水女学院へ殺到したという。長崎市役所勤務に回された学生たちは難を逃れた。なぜ我が子を向こうへ回したのか。学徒動員の振り分けを行った教員たちの苦悩を、彼女は目の当たりにした。
 新興善、佐古、磨屋、勝山・・多くの小学校は野戦病院になった。
市内のそこかしこで、荼毘の煙があがり、高木さんとお母様は、そのそばを通る度に、そっと手をあわせたという。

 気がつくと、日は西に傾きはじめていた。
「ちょっと、家にあがる?」高木さんはそう行って立ち上がった。最近、足の指を骨折したと伺っていたので、大丈夫ですかと尋ねると「実は今年はじめ、ガンの手術をしてね。被爆した友人も次々にかかっているから、ついに自分の番かと思ったの。でも、それより足の痛みの方が気になるわ。ほほほ」。
 ・・絶句した。これが、あの地獄絵図を体験した人の言葉かと思った。

 高木さんのご自宅へおじゃまさせていただくと、まず、活けられた大輪のシャクヤクの花が出迎えてくれた。さっぱりと片付けられた「現役」のお部屋だった。建築関係の資料に、製図机、ペン、資料。
「インテリアのお仕事をなさっていらっしゃるんですよね」。
何気なく問いかけたのだが、その答えは生半可でない彼女の半生を語るものだった。

 戦後、英語の勉強のために、高木さんは単身、カリフォルニアへ留学。しかしその半年後、結核という病で療養を余儀なくされる。
カリフォルニアの山奥のサナトリウムで治療にあたりながら、彼女はインテリアの仕事に興味を持ち、数年を経てニューヨークへ移住。そこで、インテリア関係の設計を手がけながら、多くの建築家、彫刻家、アーティストとつながりを深めていく。
 ワールド・トレードセンターを設計した日本人(すみません、名前失念しました)とも親交があったそうで、建設の裏話も聞かせてくれた。
 ハドソン・リバー近くにセンターを建てようとした時、川の圧力でボーリング現場からは地下水があふれる状態。そこで、「バスタブ(浴槽)」と呼ばれるコンクリートの箱を地下に埋設し、その上にあのビルを立てたそうだ。しかしあのテロで、バスタブ自体にも亀裂が入り、かなりの水が入ってきたという。私が展望台から見た時、多くの鉄骨が縦横無尽に走っていたのは、バスタブを補強していた訳だったのだ。

 高木さん自身、2000年の9月まで、ワールド・トレードセンターの中にあった東京都庁のニューヨーク事務所で、週に数回バイトをされていたとのこと。都知事が石原慎太郎氏になってから、「予算がない」と事務所は閉鎖。その時には職員から苦情が出たのが、一年後にテロがあってからは「命拾いした」と、みんな胸をなでおろしているという。

 「あなた、お腹すいてない?食事に行きましょうか」
「えっ」
実は、さっきのアップルパイ(日本で売っているものの3倍くらいあった!)で、かなりキテたのだけれど、せっかくのお気持ちなので、「じゃ、少しだけ」と、出かけることにした。
 来る時に乗ったケーブルカーに乗って、マンハッタンの一番街へ。
「このへんってこわいですよね〜」
「あら、そうかしら」

 連れていっていただいたのは、イタリアンレストラン。コースなんてとても入らないので、これだったらわりと量も少ないだろうと、ペンネ(でっかいマカロニのようなもの)を頼むことにした。高木さんはボンゴレスパゲティ。

・・うかつやった・・

アメリカ人の食べる量のことば忘れとった・・やってきた大皿を見て仰天!ペンネが300本!!うぎゃああああ!!!
「す、すごい量ですね・・」
「あら、そうかしら」涼しい顔でフォークを運ぶ高木さん。食べても食べても食べても減らなーーーーいーーーーようやく3分の1減ったぞ。ぜえぜえ。
高木さん「ホテルに持って帰る?」
「(おおっ助かったー!)はいっ」
「あと、ティーくらい入るでしょ」
「あ、そうですね」
やってきた紅茶には、でっかいクッキーがついとった・・もう胃袋はちきれそう。
「デザートは要らない?」
「は、はい、もう・・」
「じゃあ私、いちごパフェ」
やってきたいちごパフェは、高さ10cm、直径10cmの、まるで花瓶の
ようなグラスに、スライスされたいちごが一分の隙もなくぎっっしり
つまっていて、さらにその上にはクリームがどっさり乗っていた・・
高木さん、いちご一個分くらい皿に取って「あと、あなたどうぞ」
☆▲◇■○★!!!!!
うおおおおおお!!
「・・ごちそうさまでした」。た、倒れるかと思った・・

 ペンネと格闘している間、高木さんが話して下さったこと。
歴史の断面を見るようなその内容に、私は言葉を失いっぱなしだった。
 高木さんがニューヨークの社交界にデビューしてから暫くたった頃、
招かれて足をはこんだあるパーティで、彼女は一人の男性と出会う。
 壁際に、一人でグラスを持ってぽつんと立っていた、精悍な顔だちの男性ーーー
彼こそが、「原爆をつくった物理学者」オッペンハイマーだった。

友人に紹介されて、オッペンハイマーと言葉を交わしたあと、彼女は
急速に彼に興味を持ちはじめる。彼の書いた資料を繰り、伝記を読み・・
深くは語られなかったけれど、きっと親交もあったのだろうという気がした。
やがて、水爆をつくったエドワード・テラーによって、オッペンハイマーは
「アカ」の嫌疑をかけられ、トップの座を追われることになる。

「あの時も、頭のいい彼のことだから、切り抜けようと思えば、切り抜けられ
たはず。それを、そうしなかったのは"もういい"という思いがあったからだと
思うのよ」。

 別のパーティの時は、エドワード・テラーが会場に入ってきた途端、その場
にいた全員がテラーに背中を向けたという。オッペンハイマーを陥れたテラー
への抗議行動。テラーが顔を真っ赤にして、その場に立ちすくんだ様子を、高木
さんははっきり覚えていると語った。

 妻も、娘も、弟も自らの手でその命に幕を引き、失意のうちにその生涯を閉じた
オッペンハイマー。今では、一人残された息子だけが、ニューメキシコ州で農業を
営んでいると聞いた。

 「あの人はバークレー出身でね、本当は物理学者でなくて天文学者になりたか
ったのよ」
そう語る高木さんのおだやかな口調からは、「原爆をつくった物理学者」への
憎しみはみじんも感じられなかった。
原子野を歩いた被爆者と、悪魔の兵器をつくった物理学者。
両者の間に横たわる深淵を埋めたものは何だったのか。
彼女の黒髪に霜の降るまで折り重ねられた時間だけが、そのわけを知っているの
だろう。

 日本から電話をした時、高木さんが答えた言葉をふと、思い出した。そして、
その言葉こそががすべてを凝縮しているような気がした。

「あなたそれは、アメリカに一週間いたくらいじゃわからないわよ」。