Amazing Grace

青空の下で笑ったのは、誰の声だったのだろうか。

私の周りにはいつも笑顔が溢れていた。


家族も友達も、好きな人も・・・





アテナとしての運命を知った時、あの笑顔を何よりも護りたいと思った。















“海皇の魂”
















瓦礫は山と化し、うねる海水に足元が危うい。

湿気を含んだ酸素は、なかなか肺に入っていかない。

濡れた前髪が視界を遮るのを手で振り払いながら、本能で歩を進める。



体が鉛の様に重い・・・



フラフラと歩いても誰か居るかなんて、何も分かりはしない。

体温は海水に奪われて、立っているのもやっとなのに・・・・



でも、これだけは確信が持てた。

閉ざされていたメインブレドウィナが崩れたのは・・・



聖闘士が来てくれたのだと・・・











自分でも無意識に、私はポセイドンの問いに答えていた。

答えた、というよりも、思っていた事が口から音となって出た、という感覚。

激しく色が流れ込んだ私の視界にぼんやりと人影が映る。

その影は、私の声を聞くと、重たく首を持ち上げた。



金色の・・・聖衣。



ああ・・ やっぱり私はこの色が大好きだ・・・・

何て安心できるのだろう。

その光に包まれていると、温かさが体の底から沸いてくる。





「・・・サガ、カミュ、ミロ、アフロディ・・・ っ・・!」



激しい痺れが脚を襲う。

膝が震えて立っていられない。

私は体を寄りかけた。


握っていた三叉の鉾に・・・・・


鉾からはサガ達の小宇宙だけではなく、ムウやシュラ、アイオリアの小宇宙も感じた。

その想いだけが今の私を支えている。





鉾に寄り掛かった私と海皇の間に膝を付くサガ達の体には深手の傷。

動く事も、声を発する事もままならぬほどに衰弱した小宇宙は、私を救う為に使い切ったのだろう・・・

彼らは誓いのままにどんな時でも諦めずに腕を伸ばす。


たとえ立ち塞がる敵が神であっても・・・


私はゆっくりと、一人づつ瞳を見つめた。

私を映したそれは優しさに溢れている。

たとえそこに言葉は無くても・・・


応えたい、その想いに。

皆が護ってくれた命を、大切にしたい。



「サガ、アフロディーテ、ミロ、カミュ・・・ ありがとう・・・・」



今度は私の番だから・・・







「・・・アテナ、何故、こんな事をした・・?」

「何故って・・・ 分からない。 でも、もうこれ以上、海の泣き声を聞いていられなかった・・・」

「泣き声・・・」

「そう、悲しい声だった・・」


握り締めたトリアイナの鉾は海水を受けながら沈黙している。

きっとこのトリアイナもニケと同じ様に、海の命を見つめ続けて・・・

この鉾にもきっと聞こえている。

海の慟哭、そして、焼けるような叫び。

心臓を貫かれるほどに、悲しくて。


「アテナ・・・ そなたは・・」

「ポセイドン、あなたの言う通り、この海は破滅へと向かっている。 それは地上も同じ事。
だから・・・ あなたの力を貸して欲しい。」

「力を貸す?」

「あなたの・・力で、海を・・・ この広大な海を護って欲しいの・・・」


「・・アテ、ナ! 何を・・仰るのです・・か?!」

辛うじて言葉を発したサガの気持ちは良く分かる。

でも・・・

「ポセイドン。 この海には今あなたが必要だわ。 海を愛するあなたの心が・・・」

「そなた、自分の言っている事が分かっているのか?」

「・・・分かっているわ。」



ゆっくりと・・・だけど確実に、鉾を引き摺りながら、私は一歩づつ海皇へと近付く。

なんて強大で雄々しい小宇宙なんだろう。

鱗衣を纏った姿は、堂々と威厳に満ちている。

・・・・ジュリアン、やっぱり何を着ても似合うなぁ・・・

なんて考えてしまって、少しだけ自嘲してしまった。



「アテナ! お止めくだ・・さい! それ以上近付いては・・・ 危険です!」

サガの脇を通り過ぎる時、微かに声が耳に届いた。

引き止めようと伸ばした指がドレスの裾に触れ・・・ そして離れていった。



「メインブレドウィナが崩壊したという事は、我らの敗北を意味する。 それでも私を生かすと?」

「勝ち負けなんて関係ない・・・ 私にはこの海があなたを求めているのが分かるから。」

「余に・・・生きろ、と・・・?」

「そう。 ・・・っ・・キャァ!」


海底神殿の地が大きく揺らぐ。

支えを失い崩壊を始めた世界で、私は立っている事が出来ずに倒れこんだ。


「・・・い・・っ!」

立ち上がれない・・・ 

「アテナ・・・ そなたは愚かな神よ。」

頭上から降ってきた声に、何とか顔を上げる。

ポセイドンは身を屈め、トリアイナの鉾を拾い上げた。

「あ・・・」

「この鉾が余の手に戻れば、再び地上を粛清する事も可能であるな・・・・」

「ポセイドン・・! キャアアアァ!」


トリアイナは海皇の手中で輝きを得て、眩い光を発した。

もう、今の私では到底適わないほどの小宇宙。

「アテナ! 離れて下さい!」

サガの言葉にも、足が動かない。


「アテナ・・・」


ジュリアンの瞳が私を映し、そして鉾を振り上げた。









鋭利な刃が肉を断つ音がする。

温かい液体が頬に、腕に散り、嗅覚を襲うのは鉄の血臭。

目の前の光景に、私の眼から涙が零れた。





振り上げられたトリアイナの鉾が貫いたもの・・・

それは、海皇の・・・ ジュリアンの胸だった。





「くっ・・・」

「ポセイドン! 何を?!」



ガクリと膝を付いたポセイドンに這う様にして近付く。

胸の傷からの鮮やかな紅が鉾を染め、海水へと混ざる。

倒れ落ちるその体を必死に受け止めた。



「ポセイドン! ポセイドン! しっかりして!」

「ア・・・ アテナよ・・」

「喋っちゃだめよ! 今傷を・・・」

「よ・・・い。 これ、は・・ 余が決めた事だ・・」

「何を言って・・・」

「余の・・・魂、が・・血に混じり、この海・・・を護るで・・あろう・・・」

「ポセイドン・・・」

「ふ・・ それ・・・・に、こうしなければ・・余を封印出来ぬ事・・・・ そなたは知っていたであろう?」

「っ!」


海皇の封印。

それはトリアイナの鉾に魂を閉じ込める為、その身を貫かねばならない。


「・・そなたには出来ぬ・・・ それは・・この男、が・・・一番良く・・分かっていた・・」

「ジュリ・・アン・・・・」

「・・・ふ・・ だから・・そなたは愚か・・・な、神なのだよ・・・」





ポセイドンの手が私の涙を拭う。

海水や血で、もうずぶ濡れなのに・・・

それでも優しく、丁寧に・・・ 震える手を伸ばして。





「は・・やく、余に封印を・・ アテナ!」

「・・で・・きないよ・・・ ポセイドン・・・」

「何・・を言って・・・」


「何を言っている、アテナ。」


深く響くその声に弾かれ、顔を上げる。

「カノン!」

鱗衣を纏ったカノンはセイレーンとテティスを連れ、その深い蒼色の瞳で私を見下ろしていた。

「何をしている? 早くポセイドン様を封印しろ。」

「でも!」

私の抗議の声も聞かず、カノンは跪いた。

「カノ・・・」

「海皇ポセイドン様。 あなた様の封印を解いたのは私の罪。 このシードラゴン、命を持って償いを・・」

「・・よい・・・ そのかわり・・・自分の成す事を、分かって・・・おるな・・・?」

「・・・は。 アテナ、早く封印を。」

「・・・うっ・・ でも・・・・でき、ない・・・」

「アテナ!」

「出来ない・・・!」



涙を堪え切れなくて俯いた私の頬に、カノンの掌が裂く様な音と痛みを与えた。



「・・・いた・・・」

「いつまでも甘えた事を言っているな! お前はポセイドン様のお気持ちを無駄にするつもりか?!
そして、命がけでお前を救った聖闘士達の想いを踏みにじるのか!」

「カノン・・・」

「お前なら出来る。 いや、お前にしか出来ない事だろう?」



頬と心の痛みに耐えながら、私はポセイドンの手を握った。

温かい血液にまみれた冷たい指先。



「・・・アテナ、そなたは・・そのままで居ろ。」

「ポセイドン・・・」

「愚かでも・・・良いのだ・・・・ そなた・・の・・・心のままに・・・」

「ありがとう・・ね。 また・・・ 逢いましょう・・・・」

「・・・ああ・・・・」





あなたの海を愛する想い、私が受け継ぐね・・・

掌に溢れる小宇宙で、私は海皇の魂に印を下した。

鱗衣はジュリアンの体からゆっくりと離れ、海皇の姿となり、その手に鉾を握る。

生身になったジュリアンの白いシャツは、鮮血で染まっていた。





「ジュリアン・・・!」

私の声にもその瞳は開かれない。

「アテナ・・・ ジュリアン様の事は私達にお任せを。」

「セイレーン・・」

「頼んだぞ、セイレーン、テティス。」

その言葉だけを残して、カノンは海皇の鱗衣を抱え上げ背中を向けた。

その瞳が見据えるのは、崩壊したメインブレドウィナ。



「カノン? 何処へ行くの?!」

「聞いていただろう? 俺には成すべき事が、償わねばならぬ罪がある。」

「待って! もうこの海底神殿は崩壊するわ! 今さら何処へ・・・」

「これは海将軍としての最後の務めだ。 邪魔するな・・・」



止めたくても・・・ 

その背中からは全てを受け入れぬ強い決意が感じられて、私はそれ以上言葉を発する事が出来なかった。

カノンの足は聖闘士達の間を抜け、瓦礫の山と化したメインブレドウィナへ向かう。






「サガ・・・ 何をへばっているのだ? あいつを連れて地上へ帰れ。 早くしないと全員で海の藻屑だぞ。」

「カノン! 待て・・・!」

「俺がお前の言う事を聞くと思っているのか・・・?」


笑いを含んだカノンの声が遠ざかっていく。

遠ざかって・・・・


「カノン! 覚えていて! メインブレドウィナで言った事・・ 守って、必ず!」


声が届いても、その背中は止まる事は無かった。

「アテナ、早く地上へ。 もうすぐこの海底は海水に沈みます。」

「・・・分かりました。 セイレーン、ありがとう・・」

ここで迷っている暇は無い。

私にはまだ背負わなければならない命がある。

ずぶ濡れのドレスを持ち上げて、サガへ近付いた。



「サガ、立てる?」

「アテナ・・・ ご無事で。」

「うん、うん・・ ありがとう・・・ 帰ろうね、聖域へ。」

「はい・・」

「ミロ、アフロディーテ! 私の傍に・・・」

「あ〜あ、アテナ。 折角綺麗に化粧してたのが、全部取れちゃってますよ。 ・・いてて。」

「ミロ・・・ ありがとうね。 大丈夫? 腕が・・・」

「これ位、大した事ありません。」

にっこりと笑った太陽のような笑顔。

聖域の空の眩しい太陽を早く皆で見たい。

「ミロ、アテナは素顔のままでも充分綺麗さ。」

「アフロディーテ・・・ 薔薇をありがとう。 これが無かったら私・・・」

きっとあの孤独に、寒さに耐えられなかった。

諦めて、あの海水に呑み込まれていた。

「またお贈りしますよ。 アテナに似合う色の薔薇を。」

「うん・・・ ありがとう。」





見渡す世界は段々と深い闇に包まれていく。

頭上の海面は今にも弾けそうなほど歪んでいた。

海皇の眠りを嘆くかの如く、波がうねり声を上げる。

早くしなければ・・・




「カミュ!」




裸足で駆け寄った私を迎えたのは、紅の瞳。

膝を付きながら抱きしめた真紅の髪は、水を含んで冷たくて・・・



「カミュ・・ カミュ! ごめんね・・・ ありがとう・・・」

「いえ・・・ 生きていて・・・良かった。」

力を緩めて見つめた瞳には優しい色を宿していた。

「あなたの笑顔を見る前に、死ぬわけにはいきませんから・・・」

「カミュ・・」

私は最後の力を振り絞って、皆を包むように小宇宙を燃やした。





護れ、私の大切なもの。


立ち止まるな、迷うな。


強い意志を持って生きていくのだから。





激しく揺れた神殿が津波に襲われる。

濁流が瓦礫を押し流し、私達に迫り来ていた。


「アテナ!」


カミュの声に降り返った私の眼前に迫ったのは鋭角な破片。

「・・っ! いやああぁ!」




恐怖に瞳を閉じる直前の視界は、紅に覆われた。



















TOP  BACK  NEXT





第八十九話